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俺俺詩人 村山槐多

西村賢太の小説、『やまいだれの歌』の表紙絵は村山槐多である。
村山槐多。夭逝の詩人、画家にして天才。

私は、あんまり天才、天才、というのは嫌いなのだけれども、村山槐多は天才だと思う。
村山槐多の本は、新刊ならば講談社文芸文庫で『槐多の歌へる』が買える。

村山槐多は22歳で亡くなってるから、やはり早逝であることは間違いない。
基本的に、天才、と、早逝夭逝は、がっつり四つに組む関係性であることは間違いない。

宮沢賢治は37歳で亡くなっているが、彼は完全に無名だった。
村山槐多も同様である。
村山槐多は、詩、絵、この2つで圧倒的な才能を示して、そして、小説などにも挑戦しているし、何よりも、この文庫に収められた詩人の日記は非常に面白いものだ。
やはり、日記、というのはその作家の特性を一番に表すものであることは間違いない。或いは、手紙。
往復書簡は小説になり得るが、ただ一通の手紙は詩そのものであろう。日記も同じく、そこには生の声と内省が込められており、この秘密を襞の中こそが文学そのものなのだ。

村山槐多は、京都の左京区のあたり、そこで奇怪な仮面をかぶり、オカリナを吹きながら夜毎徘徊していたのだというから、なかなかイカれているが、それも、まさしく、「俺!」的な匂いに満ち充ちている。
私は、俺!俺!俺!という人間は嫌いだが、然しそれは才能がない場合であり、才能のある俺!は、何よりも惚れ惚れする。
江戸川乱歩も村山槐多の絵にぞっこん惚れ込んでいて、

「『槐多の歌へる』、『槐多の歌へる其後』の二書は、いつも私の座右に在る。その中に私の愛するあらゆる感情が、最も好ましい表現をもって、秘められているのではないかとさえ思われる。」

と、まで言っており、槐多の書いたホラーミステリー小説『悪魔の舌』には心を打たれて、書斎を持ったときには、どうしてもその壁に槐多を掛けたいと、松野一夫に頼み込み、そのコネでもって、なんとか20号の絵画、『二少年図』を入手するのだ。

どうでもいいが、江戸川乱歩は蔵書の鬼であり、戦時中も、本来は散逸する、消失焼失は免れないであろう自身の蔵書を、蔵、という最強の場所に保管することで守り抜いたという男である。
蔵は、本を保管するには最高のスペースであるのだと、紀田順一郎がその著書で語っている。
そして、何よりも、『貼雑年譜』、であろう。『貼雑年譜』は乱歩お手製の、自分の記事などをスクラップした最強ともいえるエゴサーチ集であるが、これは、少し前に、東京創元社から、完全復刻版が発売された。

『貼雑年譜』は、まぁ、今買えるものでも高いが、これは講談社版であり、安物版である。
東京創元社の完全復刻版は、200部限定、実物を究極まで模した、それこそ、紙の質や折り曲げ方など、まさに、ギャラリーフェイクしたものであって、定価で300,000円するが、すぐに売り切れた。
なので、ある古書店では、今、500,000円ついている。た、たけぇ。

と、なぜか、乱歩の話になってしまったが、まぁ、あの、イカれた御仁をして、虜にさせる村山槐多である。

西村賢太も槐多が好きで、と、いうか、西村賢太はイカれた作家が好きなので、倉田啓明などに偏愛を注いでいた。倉田啓明は、谷崎潤一郎の作品を模して書いてそれを出版社に売り込んで、谷崎の作品だと思わせたほどの、まぁ実力者である。特に、西村賢太としては、その異常さ、逸物に入れ墨を施していたというその奇怪さに惹かれていたようだが、まぁ、そこまでは村山槐多はアグレッシブではないが、然し、けれど、やはり、奇怪な面をかぶりオカリナを吹いて夜の街を徘徊、いやはやこれは同列かもしれない。

まぁ、全員が、基本的にショタコンであり、美少年好き、というのも、ポイントの一つ、であろう。

耽美主義、という言葉がある。谷崎潤一郎や永井荷風がその筆頭に挙げられるが、まぁ、耽美、退廃というのは、悪への傾倒が不可欠に他ならない。
YASUNARIなんかは、新感覚派と言われているが、まぁ、完全なる魔界派であり、悪魔派である。YASUNARIの場合は、完全に美少女を囲いたい!嫁にしたい!何なら養女にしたい!(そして実際にする)というクズ思考の持ち主だが、然し、日本文学の代表、という風になっている。なっているが、まぁ、日本はロリコン大国なので、強ち間違っていないのかもしれない。

と、まぁ、なぜか、村山槐多から、YASUNARIの話に飛んでしまった。やはりYASUNARIは常に私の心で「仏界入易!魔界入難!」と延々と唱えているようだ。

22歳という若さでなくなったから、作品は少ない。そして、詩壇画壇文壇的な垢に塗れていない、そのような文章、作品、それらが残されている。

げに君は夜とならざるたそがれの
美しきとどこほり
げに君は酒とならざる麦の穂の青き豪奢


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