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シューベルトとゲーテによるクナーベンリーべ『魔王』 『クナーベンリーベ』補填
ハンノキの王様に関しての、私の思うことを、貴女にお話しましょう。
ちょうど今、ゲーテの詩をシューベルトが作曲した『魔王』が少年たちのボーイ・ソプラノによって、ロビーに響き渡っています。そこからの聯想になりますが。
シューベルトは、ゲーテの熱烈なシンパでした。彼の詩に耽溺していた。
そうして、いくつもの彼の詩を歌曲にして、それを同封し、手紙を送っていたそうですが、終ぞ、返事はなかった。読まれていたのかどうかも。恐らくは、そのほとんどは読まれてはいなかったのではないでしょうか。なにせ、そのままで返送されてきたそうですから。ただ、最後の1通だけ、確実に読んだと思しき記録がある。昔、彼の伝記に書かれていたのを目にしましてね。日記に書いていたそうですが、ただ、そこではシューベルトの名前は正しく記載されていなかったそうですね。ゲーテには彼の名前を覚える気もなかった、ということでしょうか。或いは、気に留めていない。
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ゲーテは藝術家のサロンでも一等に美しい少年であったメンデルスゾーンを溺愛していました。生まれながらに裕福な、ある種の貴族です。ゲーテの性愛に関しても、シューベルトの性愛に関しても、どちらも放蕩者のそれだが、私は、彼らは互いに同性愛者ではなかったかと思われる。いや、両刀使い、所謂、二刀流ですな。男性愛も女性愛、そのどちらにも与していると言えるでしょう。まぁ、それが人間の本来と言えばそれまでですし、藝術家の本来は両性具有者でありますから。それは可笑しい?いいえ、藝術家は古来から異性愛ではなく、同性愛を主としてきた。それは古代ギリシャからです。貴女は作曲家のラヴェルをご存知か?そうです。その『妖精の園』です。
あれはまさに『真夏の夜の夢』の如しですが、彼は同性愛者だという説が多くありますし、稀代の名優のマーロン・ブランド、彼も両性愛者だ。彼は、ハリウッドアイコンのマリリン・モンローとも寝たが、本当には兄二している俳優のウォーリー・コックスと結ばれたい、彼が女であればと願っていて、最終的には死の谷に二人の遺骨は散骨された。それはブランドの遺言で、です。
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江戸川乱歩もまたそうです。彼は少年愛、同性愛の稀代の研究科だった。彼の異常性欲嗜好は、創作物においてもその傾向が伺えますね。小林少年をそのような視点で見ない人がおりますでしょうか?そうして、レオナルド・ダ・ヴィンチ。彼もまた少年愛の嗜好を持っていました。
話が脱線してしまいましたね。明確には脱線ではありませんが。さて、そうして、シューベルトにまつわることは、『魔王』に大きく共鳴した彼を見れば一目瞭然ですし、彼は若い頃、幼馴染のテレーゼと恋に落ち、その関係性が終わると、それからは恋愛をしていないそうです。生涯独身だった。ラヴェルもですね。これの内実は如何なるものかはビロードのヴェールに包まれているので、憶測でしかないないですが…。……。シューベルトは31歳で亡くなりました。死因は梅毒です。彼には放蕩者の友人がいて、悪所に出入りしていたそうですな。天才の破滅……。
貴女はご存知か?メンデルスゾーンは聡明で大変に美しい少年でした。彼の肖像画が残っていますが、美少年か美少女かといったところです。
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彼は絵画も嗜んでいたし、詩歌にも親しんでいた。何より年少の少年だったことが重要です。これが十七歳、十八歳だとか十九歳の青年期に入りかける頃だと、途端にその関係性が汚くなるでしょう。少年は可愛い。それが天才ならば尚更だ。老いたゲーテは彼をとても可愛がったことでしょう。然し、シューベルトは既に青年だった。無論、彼らは邂逅を果たしてはいないわけですし、シューベルトも同様に美しい青年ではありましたから、実際に会えば、また状況は変わっていたかもしれませんがね。
さて、『魔王』とはハンノキの王様のことを指します。
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この詩はもともと、ゲーテが友人の邸宅を訪れた日のこと、その晩に急いで馬を駆って門から出ていった黒い影を見かけて、翌日に、それが病気の息子を抱えた農夫だと聞かされた。そこから広がった幻想なのです。魔王は、ドイツ語ではエルケーニッヒといいまして、本来の意味は妖精の王であるのですが、間違えて訳されたお陰で、ハンノキの王となった。ハンノキと言えば、ヴェーデキントの小説『春のめざめ』がありますね。
あの、モーリッツが彷徨い歩いていた暗い森です。そこでは王様のろうそくと呼ばれている。ドイツの森が持つ幻想性です。そうして、魔術家イナガキタルホの語るところで言えば、『魔王』はシューベルトがゲーテの詩から巧みに少年の持つ同性愛への牽引の惧れを藝術にしていると。なるほど、これは私も同感です。彼はここで能の『花月』の天狗とも、先程言及した『春のめざめ』のラストの墓場に登場する仮面の紳士とも、魔王を結びつけている。つまり、それらのお父さんの代替品は自身の父親とも頒ちがたく結びついているわけだ。
魔王とは、ハンノキの王とは父親であって、少年は魔王に抱かれることを望んでいる。それは、稲垣足穂氏の書いた作品における、稚きはしけき頃の記憶、蹲の隣の苔むす庭で息子の糞便を拭いてやる父親への郷愁に抽象化されるものだ。私がこれに一つ付け加えるのならば、この詩は父親の同性愛への牽引の惧れもまた藝術、抽象化されている。つまりは息子に自分の理想を仮託するなかで魔王への自覚化、エルケーニッヒへの変貌への惧れも捉えられているわけだ。無論、抽象化ですから、そのまま具体の同性愛とは異なる。
ほら、あそこの大階段で歌う少年たちを恍惚の眼差しで見つめる男性と少年がいるでしょう。お父さんがおめかしした可愛い坊やを抱っこしている。要はあれです。
あのお父さんのいたずら。お父さんは愛しい息子を聖歌隊に入れて歌わせたいのです。そうすると、理想の美少年との同一化が図れるからです。
ところで、貴女は『ADONIS』という雑誌はご存知ですかな?あれは同性愛の地下雑誌で、アドニスとはギリシャの美と愛の女神、アフロディテに愛された美青年の名前です。
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ミニコミ誌『ADONIS』は有名な作家たち、三島由紀夫や中井英夫、塚本邦雄が寄稿していたことで識られています。
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無論、皆が変名ですから、隠れてですが……。特に、中井英夫の『虚無への供物』は日本三大奇書に数えられますから、貴女もご存知ではございませんか?初めは変名でそれを書いていたのです。
また、そのうちの一人、塚本邦雄は小説でも同性愛的な作品を多く残しております。つまりは、彼の短歌、|割礼《かつれい》の前夜 無花果の杜で少年同士ほほよせ、という短歌に見る同性愛の世界です。ここでは少年ですが、塚本はどちらかというと、青年期の男色にこそ、その嗜好を発揮していたように思えますが。当時は1950年代や60年代ですから、同性愛は今よりも遥かにタヴーだ。今でも、文人やスポーツ選手、俳優などは、カムアウトは難しい。『ADONIS』は昭和三七年の№63を持って終了したが、今では稀覯本として名高い。なかなかお目にかかれない雑誌です。この『ADONIS』の36号には、稲垣足穂の『つけ髭』が掲載されている。『つけ髭』は昭和2年の新潮の初出の作品ですが、これは当時、作品の持つ『雰囲気が有害である』として、発禁になりかかった。単行本の『天体嗜好症』に収録される際も同様に、あわやのところで、発禁本になるところだったと足穂氏は述懐しています。少年と青年とが軍人ごっこをする話で、青年が将校になって、少年を座らせて軍服を着せつけてやるのです。青年将校はつけ髭をつけた脣で少年に口吻をする……。有害とは言い得て妙であり、この掌編小説はまことに美しく有害です。
この小説は先程も申し上げた、ゲーテとシューベルトの『エルケーニッヒ』における父と息子の同性愛への惧れに親しいものです。青年は少年への愛に自覚的であるが、少年は青年への思慕に困惑しつつも共鳴を隠せない。最近、アメリカでメジャーリーグで活躍されている大谷翔平選手をアドニスだと評している記事を読みました。大谷翔平は『ADONIS』!
なるほど、大谷翔平選手は誰もが憧れるスーパースターです。そういえば、彼もまた二刀流でしたね。彼は、確かに、アフロディテの恋するアドニスでありますが、『ADONIS』は汎ゆる男性の愛する男でもあるのです。憧憬と言っても良い。
彼を少年たちが憧れるだけならわかりやすいものですが、大の大人も焦がれるのは、彼が理想の青年であるところから来ているでしょうね。つまりは、幼年期の自分が理想の美少年であり、大谷翔平は理想の美青年像を体現した人物であり、それぞれが自身へのナルシシズムへの牽引になっている。大谷翔平は突然変異で、その理想の姿が今生に顕れましたから、皆が戸惑っている。少年なら尚更です。ミット、ボール、バットの三角関係は深刻な事態を招きかねますが、それでも少年は夢中になるでしょう。声楽、野球、車、飛行機、詩歌、狩猟、戦争……。全ては男の子の遊びです。それらを包括したのが童話だ。
そうしてお父さんになると、仕事が主になり、遊びは女か、将又息子になる。つまるところ、あそこにいるお父さん、あのお父さんの手をごらんなさい。息子を抱きかかえて、まだ、その美しい御御足を撫でているでしょう。あれは、自己憧憬であり、彼という存在はお父さんには彼そのもので、彼はお父さんへの思慕をそこはかとなく惧れている。年頃の娘が父親との近親相姦を恐れるように毛嫌いが激しくなるのと同様、同性愛への恐怖と好奇心とがシェイクされている。
シューベルトの父親は息子にあまりにも厳しかったそうです。典型的な、教育熱心のパパ。音楽家になりたいという息子へ現実を選ばせようとするリアリストでした。多くの父親は彼と同じようだ。けれども、息子を一角の者にしたいという思いはどの父親も平等に抱いています。それは、結句自分自身を彼に見ているからだ。
シューベルトはコンヴィクトの礼拝聖歌合唱隊に所属していました。彼のボーイ・ソプラノは、どのような歌声を持って神々を賛美していたのでしょうか。我々に識る術はありませんが……。
今、あのお父さんは、いつか『魔王』を息子に歌わせようとしています。くどいようですが、それは、ある種の客観的やり直しをするためだ。
ボーイ・ソプラノはいずれは破壊される運命です。
ボーイ・ソプラノの少年を拐かす父親を詩にしたのが『魔王』なのです。