見出し画像

貴き兄妹の近親愛心中物語『火垂るの墓』

『火垂るの墓』が好きである。稲垣足穂の『天体嗜好症』と並び、一番好きな小説かもしれない。

まぁ、小説版も、ジブリの映画版も好きで、個人的に大切な大切な小説だ。ロケ地巡りをしたり、文庫版、200部限定版、300部限定豆本、オール讀物初出掲載号、ジブリ映画のBlu-ray、メモリアルアルバム-節子、絵本火垂るの墓、火垂るの墓絵コンテ集を所有しているので、相当に好きなのはおわかりだろう。

この絵本はウルトラにレア。詩人の田村隆一の詩が添えられている。

特に大切なのは、野坂昭如の署名入りの豆本で、これは缶に入っているのだが、その感じが、節子のローセキの如し遺骨を思い出して、切なくなる。

豆本版『火垂るの墓』。『火垂るの墓』を体現したような装丁。

まぁ、ジブリ版の『火垂るの墓』は、反戦映画である、ということで、毎年終戦記念日に合わせた8月頃に金曜ロードショーで何度も放映されて、トラウマを植え付けていたわけだが、最近はあんまり放送されず、最後に放送したのは2018年の、高畑勲監督の逝去に際してだった。



で、この映画は、反戦の映画ではあるが、それ以上に、野坂昭如と高畑勲が公開前、アニメージュでの対談などでも述べているように、そもそも心中物語であって、しかも、兄妹間の近親愛、近親相姦的な楽園を作る話として、書いている(描いている)わけであって、それは、野坂昭如の他の小説などを読めばわかることであるし、そもそも、本人たちがそう言っている。
高畑勲もまた、今作は近松の心中ものの構成に近いですね、と述べている。

節子はかわいい。キャラクターデザインは近藤喜文、なので、『火垂るの墓』のキャラクターは『耳をすませば』のキャラクターと顔は同じ。

『4歳と14歳で、生きようと思った』の、素晴らしい惹句じゃっく、糸井重里氏の素晴らしい仕事だが、実際の野坂の妹恵子は1歳半で亡くなっていて(もう一人、早くに亡くなった妹紀久子がいる。どちらも養女なので、実妹ではない)、4歳にまでなった妹は野坂の空想であるし、それは、4歳というものが会話が成立してくる年頃であることが起因しているのだが、野坂はそれよりも親戚の家にお姉さん京子にほの字(死語)、であり、1歳半程度の娘は時には邪魔であり、空腹で泣くのを叩いて静かにさせていた、と言っている、が、愛情は本物で、彼女の死、というものが、永久に彼の心に宿って、エッセイでも語るように、「六月五日の朝から八月二十二日の午後死ぬまで、ついにお腹を空かせっぱなしで死んでしまった女の子なんてあまりにかわいそう過ぎる。ぼく恵子のことを考えると、どうにもならなくなってしまうのだ。」、という、言葉通り、野坂は、永久にこの子を思い続けている。
ちなみに、『エロ事師たち』では、主人公スブやんの義理の娘(ちなみにセックスまでいくのだが)の名前も恵子である。また、『アメリカひじき』での主人公の妻の名前は京子である。

まぁ、とはいえ、実際には、この西宮の親戚のお姉さんである京子への恋慕で、この戦時下の思春期は青春として素晴らしかったものでもある、と、同時に語っている。
この戦時下へ向けてのアンビバレンツこそが人間の不思議、である。

ネットでもよく言われるように、清太と節子、彼らは可哀想だ、戦争の被害者だ、西宮のおばさんはちと厳しすぎるのではないか、彼らの母親の形見で米や何やら手に入れているのに……という言説、からの、いや、清太が悪いのではないか、おばさんは真っ当で筋の通ったことを言っており、14歳の清太が頭を下げて頑張るべきだった、働くべきだった、という、そういう水掛け論が多いのだが、然し、けれども、これは心中ものであって、その、哀しい哀しい悲劇、暗黒の時代、というものは舞台装置に過ぎず、死、二人の兄妹の美しい死、を描くために存在するに過ぎない、と、いうのは言いすぎだが、然し、けれども、この二人、つまりは、清太の父親がまだ生きていた頃、節子を「このこはきっと、﨟󠄀ろうたけたシャンになるぞ」と言って、その意味を清太に尋ねられた父親は、「そうだなぁ、品がいいってことかな。」と答えてみせたのは、彼女の貴さ、美しさ、哀れさを一層に駆り立てて、清太にその幻想を背負わせる、ひいては読者にその幻想を背負わせる役目を担っていて、これは、またまたネットでもよく言われる、【清太の父親海軍大佐だったら子供たちは絶対に食いっぱぐれることはない説】、が、例え現実それが事実であっても、物語上の嘘があってこそ成立する世界においては、この大嘘は土台として彼らの死を一層に哀れに美しくさせる。
ちなみに、schönシャン、とは、ドイツにおける美女、美しい顔立ちの女性のこと、エリートたちが使う隠語であったという。

まぁ、長々と書いたが、つまりは、海軍大佐であれば、海軍同士の強固な繋がりをもってして、孤児になりそうな清太と節子は絶対に保護される、と、宮崎駿もそう断言する話、であるが、それは、物語の瑕疵かしにならない、多くの人は気に留めないギリギリの嘘であって、言われてみれば確かにそうやと、然し、けれども、心中の結末のためには、そのようなセーフティネットは逆説的に存在してはならない、けれども、海軍大佐、軍人の子供という、大日本帝國における優秀で貴族的ともいえる階級属性が、二人の子供たちには必要であり、だからこそ﨟󠄀ろうたけたシャンになるであろう節子の輝きと哀れさが増す、そして、飢餓に対して人一倍の恐怖と怒り、食い物に対して人一倍の執着を持つ野坂、後年、食いもしないのにレストランや飲み屋で注文だけは全品する、そしてそれは食わずに酒を飲む、それだけ、食べ物が無かった時代の痛苦に喘ぎ、二度と飢えた子供の顔は見たくない、と言った野坂、妹恵子の為に手に入れた食い物も、現実の自分は空腹に抗えずに餓鬼に成り果てて食べてしまった野坂、そういう自分を優しい兄として偽りで書き、﨟󠄀ろうたけた妹へはありったけの愛情を注ぎ、二人は楽園の中で死んでいく、それは傍目には哀れにしか映らないのだけれども……。戦争は駄目だ、戦争は哀しみしか産まない、無論、それは前提のことであって、これは、高畑勲の言うように、近松の心中物語であるわけだから、そここそが真のテーマである。

節子の品の良さ、というものは食事シーンでの所作や色々な場面での振る舞い、語彙などからも伺い知れる。『メモリアルアルバム節子』より

ジブリのアニメーション版は、徹底的にこの小説を、忠実に忠実に、台詞やモーションも忠実に映像化していてすごいことだ。読んで、観てみれば、ほぼまんまである。昨今の、原作に忠実にー、と、いう、そういう問題があるけれども、今作は完璧に忠実、かつ、テーマを拾い上げて、尚且つ、野坂の思いすら映像で昇華してみせる。

そして、アニメで描かれる海辺で遊ぶ兄妹を呼びカルピスやソーメンを食べさせる母、桜の舞う下親子4人で記念写真を撮る姿、これらが強烈なまでに、あの時代にあっての彼らの高貴性を引き立てている、だからこその現実との落差である。

然し、ジブリ版にないのは、今作の舞台は神戸だが、この神戸や大阪、阪神間での清太の食い物への強烈な思い出と言及、それらの大量の羅列であって、そこが小説版の肝であり、ここで、それらを引用すると、浜茶屋の甘酒、母親の作ってくれたはったい粉、三宮ユーハイムのデコレーションケーキ、砂糖で煮た桃、蟹缶、ヨーカン、興亜奉公日の南京米の弁当、黄檗山萬福寺のまずい精進料理、スイトン、丸萬の魚すき、パボーニのサッカリンで味をつけた寒天……。
目まぐるしく想い出と共に食べ物が出てくる。パボーニは野坂昭如が通っていたカフェだが、今は夙川から移転して大阪にある。私も行ったことがある。

大阪のパボーニ。ロートレックの『ディヴァン・ジャポネ』の暖簾が素敵。
地下へと降りる階段、大石輝一氏の絵が飾られている。大石輝一氏は佐藤春夫とも親しかった。佐藤春夫は稲垣足穂のお師匠、阪神間モダニズムはつながるなぁ。
野坂昭如が訪れていたのは阪神大震災前の夙川にあったパボーニ。

1Fがカフェで、地下でランチが食べられる。ランチは最高に旨いフレンチだ。しかも、とても静かな空間、私が行ったときは一人だったが、シャンソンが流れて、そこだけ異空間のようで、素晴らしかった。

で、話を戻すと、食べ物、とにかく、そこで描かれる食べ物も、貧乏ではない、ある程度のお金を持っている、裕福な、金持ちの匂いがする、そういうエピソードがつらつらと、あの野坂昭如の歌うような文体で書かれて、そして、塹壕に家、とは呼べないような、まさに、埴生の宿そのものであり、ジブリ映画版で描かれるような『埴生の宿』とその蓄音機から流れる同曲のように、美しく貴く、二人はだんだんと世間から隔絶されて過去だけが輝き、衰えていく節子、それもまた、野坂が言うには美しさ、細く細くなっていく、純粋化されていくその美しさであり、途中、まだ節子が元気な頃に清太が節子を抱きしめるが、その時に思わずわけもわからず下半身に感じるむず痒い熱、それもまた、近親相姦を匂わせるが、あくまでも匂わせであって、『骨餓身峠死人葛ほねがみとうげほとけかずら』の兄妹ほどの、極北の関係性ではない、だからこそ、これは精神的な兄妹愛であって、幼心の愛であって、焼跡派の野坂昭如の郷愁そのものである妹へのレクイエムとなっているのである。

『骨飢身峠死人葛』の人間座舞台の台本。原作と舞台版ではラストなど違いがある。

冒頭、三宮駅で死んでいく清太が落とした缶からこぼれる節子の小さな骨の欠片が最終的に蛍たちにあやされるように、守られるようにして物語は終わる、この美しさ、清太の周囲で死んでいる子供たちの数は20〜30人ほど、それらが、布引の寺で無縁仏になる、そうして、それが最後に節子の骨の周りを飛ぶ蛍の数と同数であることが書かれる。

文庫版ではその箇所は削除されているが、無縁仏として荼毘に付されて終わる、そのあっけなさにより、一層にこの心中物語を永遠の童話にまで昇華していて、天才の筆だと思う。

『火垂るの墓』を語るのならば、心中物語、近親相姦的愛情、そして、食べ物という3つは欠かせないのであって、それは、高貴な出自の兄妹の零落によって完成する、現実における嘘を添えることによって。

絵本『火垂るの墓』より




いいなと思ったら応援しよう!