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書店パトロール66 アンネはあなたにちょっと似ている

『探偵はBARにいる』シリーズが好きで、然し、原作は読んでいない。


『探偵はBARにいる』は3が公開されてからもう7年経つが、一体どうなっているんだ?

そんなことを思い出したのは、『DV8 台北プライベートアイ2』なる書籍を見つけたからだ。

探偵はBARにいる、だけではない、どこにでもいる。そんな当然のことを忘れていた。もちろん、そりゃあ台湾にだっている理屈だろう。台北、という、いつだって、思い出すのは、
エドワード・ヤンの『牯嶺街クーリンチェ少年殺人事件』。

台北は一度は行ってみたい場所の一つだが、特に、行ってみたいのが「牯嶺街小劇場」なる場所で、うーん、ノスタルジー、色合い、そして雰囲気、どれをとっても最高だ。

私は台湾に行ったことはないので、映画の画面から受け取る印象しかない。やはり、現地に行かないとわからない空気というのがある。海外は3カ国行ったが、ヨーロッパに行きたい。

さて、その近くにあった『灰色のミツバチ』。

舞台はロシア・ウクライナで、現在の戦争の前に書かれた本だ。
ウクライナ軍と親ロシア派の支配が及ばないグレーゾーンに住む中年男の物語、とのことだが、住む場所がグレーゾーンになるだなんて想像もつかない。

その後、『バルバロッサ』を手にしてパラパラと。分厚いノンフィクションだ。独ソ戦という最悪の闘いの最前線、つまりは最悪の最悪ということだが、独ソ戦ではソビエト側が2700万人弱死んでいる。第二次大戦では4000万人以上から最大8000万人死者がいて、その時の世界の人口は25億人、なので、60〜50人に1人は死んでいることになる。

歴史書のコーナーに行くと、基本的に分厚い分厚い勉強になる本が多い。

文化藝術、戦争、それは一心同体であることが多く、まことに嫌なことであるが、宗教、戦争が文化藝術を発展させてきたことは否めない。
宗教さえなければ戦争は起きない、というのは短絡的な考え方で、まぁ、正しく識るために書物があり、それで何が正しいのか自分で考える力をつけるのが学問なのだろう。
 
最近、『アンネの日記』のアニメーション版を鑑賞して、うーん、私、
『アンネの日記』読んでいないな、と、思い当たる。

そもそも『アンネの日記』は、タイトルは100人に聞けば90人くらいは識ってそうだが、読んだことがある人はどれくらいいるのだろうか?
『アンネはあなたにちょっと似ている』、と、いうのは、映画の惹句じゃっくだが、いい惹句だと思う。

マイケル・ナイマンのピアノが染みる…。

淡々とした映画であり、基本的には隠れ家生活がその8割を占めるが、他の一家と識らないおっさんとの相部屋など、ハードすぎる境遇だが、そこで起きる諍いと和解を丁寧に描いている。ちなみに、草彅剛がペーター役を演じていて味わいがある。

悲劇を自分ごととして考える時、やはり、対岸の火事であることがそれを妨げる。そして、それが有名であれば有名であるほど、ある種のプロパガンダになるので、やはり、原点に立ち返り、日記として読むことが肝要なのかもしれない。
アニメーション、漫画という媒体も、視覚的効果が凄まじいので、入門にはちょうどいいし、感情移入もしやすい。

と、別に戦争のことばかり考えているわけではない。時折、そんなことを考えていると、気付けば民俗学コーナーに立っている。

『熊楠さん、世界を歩く。ー冒険と学問のマンダラへ』を手にする。

南方熊楠、そういえば、この夏の直木賞で、『われは熊楠』なる小説が
候補に入っていたが、やはり、賞を逃すと、埋もれてしまう。
私は、ノミネートされた時、くるかー!?久方ぶりに熊楠ブームがくるのかー!?と思っていたが、普通に落選だった。

まぁ、そろそろ、NHKは、朝の連続テレビ小説で南方熊楠のドラマ化をするべきであり、ただし、主演は基本的に裸なので、大変な役だ。

昨年、熊楠記念館に行った際、私は、1人素晴らしい記念館を堪能した。
やはり、記念館、美術館の類は、1人で堪能できる、そんな時間が重要だ。
南方熊楠記念館は海の側なので、本当にいい場所だ。美しいし、自然豊かで、建物もモダンだ。

で、まぁ、その横には、宮本常一に関する本が。新装版のようだ。

民俗学にはとても興味がある。興味はあるが、然し、二の次三の次になってしまう。あまりも本も多く、興味のある優先事項が多いため、おざなりになってしまう。なおざりになってしまう、でも、正しいらしいね。
 
その後、文芸コーナーに舞い戻り、『文芸記者がいた!』なる、本の雑誌社の新刊を手に取る。

文芸記者か〜。識らない名前ばかりだ。

知識の無さ。私は圧倒的にものを識らない。だからか、熊楠、とか、松山俊太郎、とか、そういう、知識の巨人に惚れてしまう。詳しい人を信奉してしまう。これも一種の権威主義、その衣を脱ぎ捨てなければならない。

海外文学に目をやる。

『血の魔術書と姉妹たち』。面白そうだ。装幀が綺麗だ。

然し、これもまた積読になる可能性が極めて高い。最近、長篇小説が読めなくなっている。時間の問題だ。時間がなさすぎる。掌編や短篇などの、凝縮された結晶乃至は論文も重要な箇所のつまみ食い、長篇も壮大な思想があれば別だが、ダイアローグ、それも日常会話とかだと意味がなさすぎてつらすぎる。

そして、最後に、『小説と映画の世紀』を手にする。

値段を見ると、税別4,800円!う、た、高い。表紙の『ヴェニスに死す』に惹かれて。最近は、『ヴェネチアに死す』と表記されていて、この本でもそうだった。

やはり、『ヴェネチア』よりも、『ヴェニス』の方が気分が出る。

この本は、原作と映画、と、いうものをそれぞれ原作と映画化された作品とを比較して論じられた本のようで、とてもおもしろそうだ。全12章、12作品の映画と小説が掲載されている。

『ヴェニスに死す』はルキノ・ビスコンティの傑作で、ビョルン・アンドレセンが美しい少年タッジオを演じて、それを作家であるアッシェンバッハが
ストーキングして最後には病に冒されて昇天、という、それだけの映画だが、まぁ、同性愛映画である、と同時に、少年という美しい過ぎ去ったものを求める男性のさがを描いた映画であり、後者こそ重要である。
時間は全てに平等で、全てを崩壊させていく力を持つ。アッシェンバッハもまた、美しい美少年時代、美青年時代があるわけだが、作中では老いてもうそんなものは失せた。

その理想を仮託されたのがビョルン・アンドレセン演じるタッジオであり、
ここに、全ての男性の理想もまた仮託されている。美少年とは理想化された自分だから。

誰だって、自分視点では、若い頃は、ビョルン・アンドレセンの気分で街を歩くのだ。たくさんの女の子たちからチヤホヤされて、つまりは、先日感想を書いた、『メメントラブドール』の主人公もまた、男の娘として、チー牛たちにオタサーの姫よろしくチヤホヤされたい、のだから、同一である。いや、違うのかな?

『メメントラブドール』には、会社の課題で3年後、5年後の自分を書くシートの提出、という、あまりにもおぞましいシーンがあったが、主人公は、3年前、5年前に戻りたいのに、と逆行していて、それは正しい感覚だ。

アッシェンバッハは最後、あまりにも綺麗な綺麗なタッジオに恍惚としながらコレラに冒されて死んでいくが、これはもう、ある種、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』、であり、白塗りアッシェンバッハ、これはもう、ジョーカーであり、アーサーである。アーサーも、理想である神格化されたジョーカーを演じるために化粧を施すのだ。化粧は変身であるから、変身は生まれついての人間の願望であるから、然し、化粧姿は本当の美、悪、この二つの前には、道化にしか映らない哀しき玩具。


 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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