THE DESIRE AND PURSUIT OF THE WHOLE 邦訳版⑪ 本編⑨ 第9章 フレデリック・ロルフ著 雪雪 訳
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『アダムとイヴのヴェニス』
第9章
公現祭の前夜に自宅にて。レディ・パシュの宣言が述べられた朝の郵便物の中の巨大な1枚のカードが、彼にそう吐きかけてきた。
これには耐えられなかった。診療所に援助を申し出た自分が愚かだった。この人たちの誰一人として、利他的な仕事をしようなどとは考えていなかったのだ。
真の芸術を行うのは、常にアマチュアであり、エゴイストであり、本当に有益なことを行うのは、その行為自体への喜びがゆえである。
専門家に報いる社会的利益などは(あらゆる高い軽蔑と、不安からの回避をもって)気にかけもせず、気遣いもしないものだ。
ああ、秘密と孤独とを望んでいた彼はなんと愚か者だったことだろうか。
このような人々に、彼が利他的な経済活動に参加することの是非についてを議論させようとしていたとは!
クラッブはヴェニスで喘いでいる外国人居住者から味見されることに服従するつもりだったのだろうか。
いや、違う。彼の心の耳はこの誘いを受けることによるゴシップを本能的に察知していた。そしてそのことは、彼を身震いさせた。承諾する、ということは、自分自身をわずかに厳密な支配下に置くという、その形式的な行為にあたるのだ。
このようなサロンに集う憧れの女性たち(自らは光を与えることはできないが、受けた光が反射してキラキラと輝くことを喜ぶような)、耐え難い退屈にさえ感謝している冴えないpetits maitresたちの中に、自分の名前も自発的に連ねることになってしまう。
ああ、彼はなんたる莫迦者だったのだろう!彼は寒々しい辞退の文章を認めた。
彼と一緒にはイブニングドレスは着たくないのだ、と。
彼がホールのポストに手紙を入れようとすると、ウォーデンが近くをブラブラとうろついていた。クラッブは大きく会釈をした。
「私はレディ・パシュのご招待をお断りしようと思っています。そのことに関しては、貴方が多分に関係していますが。」
とクラッブは言った。
「ああ、それは誠に申し訳ない。」
「私は、きちんとした服を持っていませんしね。貴方のお友達が気を悪くされないように、率直にそう申し上げた次第です。ただ、ここでは、誰とも知り合いにはなりたくないということは、早めにはっきりさせておいたほうがよろしいかもしれませんね。」
ティアサークは挫かれるような声色で、
「期待していたのですがね......。」
そう言った。
「貴方とhonourableとの時間はどうでしたか?」
クラッブは切り替えてそう尋ねた。話題の転換に対して相手は素早く反応した。
「見事ですよ。それはもう素晴らしかった。私が思うに、心配する必要なんか全然ありませんよ。彼が協会の金を持ち逃げするなんて、そんなことは全くありませんでしたよ。」
「Debrettで彼の名前を見つけたのですか?」
「いいえ。でもね、私たちのものは、とても古いコピーなんですよ。彼女は今日、その名前を探していて、疑いの芽を握りつぶそうとしています。でもね、きっと大丈夫だと私は思います。実は今も電話で、週に一度のレディ・パシュの会合に一緒に来てくれないかと、あの若者に頼んだところなんですよ。私は彼を口説き落としたいんだ。」
「どうしても行くと言うのですね。ではさようなら!」
ニコラスが現れると、ジルドはとてもきれいに見える雑巾を片付けた。彼らは急いでズエッカ運河を渡り、その日の朝の仕事として、診療所へ注文を取りに行った。午後はBeneficenzaのために空けておいた。パッパリンは見事に磨かれていた。少年は、自分の職務に真剣に取り組む専門家だった。
悪臭の汚泥に沈んだ小さなリオ・デッラ・クロッセの階段の側の波止場で、婦長は興奮気味に飛び跳ねながら、彼女の細菌のような模様のプードルを返せと要求していた。
「私は貴方のプードルを知りませんよ、婦長さん。貴方はあの犬を石炭の廃棄場まで連れて行ったでしょう。貴方が、ラ・パッシェロでレディ・パシュとお茶を飲んだときですよ。」
「いいえ!いいえ!あの子は私たちに着いてこなかったわ。私達は、当然、貴方がすごくいい人だから、貴方が自分の舟をあの子の偽物の小屋に見立ててそこに入れてあげたのかと思っていたわ!」
「私にあの犬のために激しい運河を渡れと?なるほど、ではあの犬はまさしく、私達の両方を失ったわけですね。ふむ、では、ワンちゃんを追跡したほうが良さそうだな。Noa, noa、ジルド。」
エプロンとヴェールをはためかせながら、埠頭で支離滅裂なことをペチャペチャ喋り続ける苛立たしげな女性を残して、彼は船を押し出した。
クラッブの考えは、長いズエッカ運河を上ってザレッテまで渡り、そこから川の流れに乗り、ポンテ・サンバクセージョの側の石炭の溜まり場の獣が消失した場所へと行き、そこを出発点にして逆方向に仕事を進めようというものだった。
昨晩よりも汚れた(然し、少し整理はされているが)デッキの上で彼らは混乱していた。
「貴方の犬を迎えに来たのですか?ご主人。」
クラッブが汚れた縄梯子を登ると、使用人が叫んだ。
「あと10分で出航します!それから、我々はあのワンちゃんをそこに上陸させています!その石炭置き場にね!」
石炭で真っ黒になったプードルが、恍惚とした安堵の表情で、クラッブの梯子にかけた足に飛びついてきた。クラッブは驚きのあまり自制心を失い、犬をパッパリンの中へと突き落とした。
キンキンと響く鳴き声が近づいて、クローチェ橋を運ばれてきた不登校児の黒檀のようになった鼻に彼女はキスをしながら、その強張ってゴワゴワになったカパリゾンに悩まされていた。
「ああ、クラッブさん。貴方はなんていい人なんでしょうか!なんてお優しい人なんでしょう、ああ、親愛なる人。」
彼女は嗚咽し始めた。
「3日間ほど、さようならですね。」
と彼は叫んで出発した。
「私はBeneficenzaのために働いています。今日はトラットリアで食事をしなさい。」
彼はそう言うと、クラブでジルドにリラを渡した。
「それからプードルに汚された舟を磨いて、ここで準備を整えておいてください。」
暫く、彼はベラヴィスタの広間に座って彼の客を待っていた。正午少し前、ウォーデンが重苦しく痛みに満ちた頭蓋骨を|下げながら通りから入ってきた。
「申し訳なかった。あの若者は悪いunです。」
彼はそう呟いた。
「主よ!」
クラッブは清々しいほどの声で言った。
「なんて愚かな間違いをしたものだ。昨夜、貴方に薬物を盛らなかったなんて!そして、私が彼を昼食会に誘ったと思うとー。貴方が何を見てそう感じたのか教えてください。私はそれに対しての対処法を知っていますから。」
「彼を遠ざけるのは止めた方がいいかもしれませんね。」
ウォーデンが物思いに耽った。
「彼は疑わしいし、とても不愉快に思うかもしれませんが、ここでなら、そういったことを避けられるかもしれませんね。私の想像ですが、彼なら、私達のいない他所で、彼の砂漠からでもきっと何かを手に入れてくるでしょうな。それに、不必要に有害な人を自分自身へと混同する必要性はない。そうですよね、必要ないでしょう?」
「実際、彼について何かわかったのですか?」
クラッブは尋ねた。
「まあ、言ったように、親愛なるレディ・パシュのところへ彼女の舟を見に行ったんです。そうしたら、彼のその全てが、彼の話とは一致しなかったのです。私たちの優しい友人は、私たちを不安にさせているものを見たと伝えてくれました。そして彼女が姿を見せた先週、あの青年がボローニャにいたことを認めたまさにその時、ボローニャの彼の親しい人からの電報が届いたのです。サインは、キャプテン・Alured・バルドック。彼女はそれが誰なのか聞いたこともないと言いました。そこには、ボローニャのホテルで困ったことになっているから、電報で50ポンドを送ってほしい、という内容が書かれていました。しかし神の慈悲により、私たちの親愛なる友人は勘も冴え冴えで、送り主にではなく、そのホテルの経営者に電報を打ったのです。
彼女はバルドック船長という人物は知らないと、そう言いました。するとその紳士はボローニャから消えてしまった。ホテルに荷物を残したままです。哀しく恐ろしいことに、彼は貴方のご友人と同一人物なのです。」
クラッブは自分の目的を果たすために、その小綺麗な「貴方のご友人」という言葉は、その瞬間は棚上げにした。
「どこに繋がりがあったんですか?」
「ああ!」
ウォーデンはため息をついた。
「それが私をとても苦しめているのです。もちろん 、すぐにブリタニカにいるゴールダーに電話しました。聞くところによると、その若者はボローニャまで行って、毛皮のコートも手提げ袋も持たずに戻ってきたそうです。」
「しかし、それは彼自身が貴方に話したことでしょう。実際に見たということはないでしょう?悪行を実際に受けたわけではないでしょう?昨夜、貴方の52ポンドは無事でしたが、今はどうでしょうか?」
「し、しかし、彼がボローニャにいたまさにその時、バルドック船長がボローニャから電報を打ってきたのですよ。」
「その可能性は低いのではないのでしょうか。その場所に、電報を打つためだけに充分な英語を知っている人が他に一人だけいた、ということは考えられませんか?率直に言って、今現在の貴方が抱いている前提での三段論法で結論づけるべきでないと思います。特にそうしたいのでなければね。確信を得るためには、バルドック船長と貴方のhonourableのボローニャのホテルのポーターを突き止めなければなりません。」
ティアサークは殉教者めいた強張った笑みを浮かべた。
「ゴルチエー」
ティアサークは喋り始めた。
「恐ろしいことだ。」
「当然のことながら。」
クラッブは言葉を付け足した。
「ホテル経営者というのはいつもそうですよ。」
ウォーデンはクラッブの刺々しい皮肉に辛抱強く耐えた。それでも辛抱強く言葉を続けた。
「でもね、あの若者は金を持っていないんだ。実際、彼はゴルチエから50リラを借りましたから。」
「気の毒な若いフクロウだ!それでも、それは犯罪の証拠にはなりません。良い判断材料もいっぱいあります。正直な人々は自分が困難な状況に陥っていることに気付くものです。私自身もそうです。でも、まあ、何をしたほうがよいのか、それを今お話ししましょうか。貴方の栄誉ある御友人(クラッブは今度こそ、ウォーデンの虚栄心に焦点を当てて話した)はすぐに昼食にいらっしゃるでしょう。午後は私と一緒に過ごす予定です。私はかなり洗練された知性と注意深く研ぎ澄まされた感性とを持っている。私は卒業生たち(私自身は大学を卒業してませんが)が実験したいくつかの事例や、試験官や試験監督官によって数えられた何百人もの意見や考えを聞いたことがあります。それにより、19時頃までにこの若者への暫定的な判断を下すことが私にはできると確信しています。しかし、私は彼に好意的な偏見を持ってしまっていて、まずはそこから考えを始めてしまっている。というのも、彼は「多数の中の一人」である、もうひとつの別の例になりそうだと認識しているからです。そして第二に、私は貴方の思い描くような大胆な海賊や紳士的な冒険家に必要とされる洞察力を彼が持ち合わせているとは信じていません。 彼は困難な状況にあるかもしれないが、貴方のように熟練の悪党になるには、あまりにも若く単純すぎる。いずれにせよ、私の知る限り、私は一度でも脅迫者を楽しませたことはありませんよ。そして、恐らく、これは私の意見ですがー、今は静かにしておくべきです!」
サンゾルツィの大砲の音と街中の鐘が正午を告げると、彼はギリシャラテン語の言葉でそう締めくくった。
そして、Honourableはホールをブラブラとしながら、彼の元へと向かってきた。その謎めいた人は相変わらず、控えめなグレーのモーニングドレスを、静かにさりげなく完璧に着こなしていた。それは花のようにきれいに咲いていて、けれども新品ではなかった。そのぶらぶらと歩く様は、微かにエレガントで、けれども、少しも高貴ではなかった。クラッブと握手しているときの彼は、自分自身を演出しているようには見えなかった。
「昼食の準備が出来ました。」
と、クラッブは言った。
「今夜の夕食の後、そちらに伺いましょうか?」
とゲストはウォーデンに言った。
「ふうむ。」
そのことに触れる際に、ため息をそっとついて、
「ふうん、そう、私は貴方に謝らなければなりません。レディ・パシュは今週はいつものように来客にお会いすることが出来ないのです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
「それは残念です!」
と、彼は納得して、クラッブに向かって一歩踏み出した。
「ふうむ。」
ウォーデンはまたため息をついた。
「すみません、私は昨日貴方が私に言ったことを思い出そうとしています。貴方の父親、たしか、貴方はそう言いましたね。」
青年はこの異端審問官に微かに興味を覚えた。彼の視線はまっすぐに相手に注いで、
「ドロヘダ公爵の第10代目公爵の八男です。」
と答えた。
「どうもありがとうございます。それはDebrettに書いてあったか、消されているのかどちらかと思うのですが、いかがですか?」
「おそらく、そうだと思います。」
「そうですか。ふうむ。なるほど、わかりました。」
二人がダイニングルームに入ると、クラッブが言った。
「居住外国人は新参者に対していつでもやけに詮索したがるんだよ。」
「私は大抵の人とはうまくやっていますよ。」
青年はメニューに目をやりながらクラッブにそう言った。
昼食は、ニョッキにカツレツ、サラダ、チーズ、フルーツ、それから500mlのコルヴォーの白ワインがついた普通のホテルに出るような昼食だった。
※編者注
コルヴォーのワインはサラパルータ公爵の領地で造られたもので、ロルフが先にコルヴォーを自身の爵位としていたことと無関係である。しかし、彼のコルヴォーワインへの言及は、コルヴォーという言葉が領土的な意味を持つことを彼が識っていた、という事実を示すことになる。
二人はお互いのことを話し合い、名刺交換をした。
Honourableは1年間放浪した後、スウェーデンの将軍の養子になった。全てが有り得そうな話だった。彼はクラッブの話題に関しては話せなかった。彼が知っているのは、ドロテア・ジェラルドの小説だけだった。
コーヒーを飲んだ後、二人はピアツェッタをぶらぶらと歩き、ブチントーロに横たわる舟に向かった。容疑者である彼は、アテネ・オリンピックの怪物的な銀のクラテラス、黄金のブチントーロ、盾、彫像など本当に豪華な展示物に対してもほんの少しの関心も見せなかった。クラッブは、明るく無邪気、かつ無愛想な学部生の担当を受け持つことよりも大変ものはないな、そうと感じていた。
クラッブへの仕事は、カンポ・サンタ・マルゲリータ広場にある荷受け所として使われていた冒涜的な教会に行き、そこからサンザッカリアの兵舎まで、できるだけ多くの船主の荷物を運ぶことだった。
彼とジルドは、その晴れた日の午後、軽いパッパリンを長い間操船して、カナラッツォからサンタ・マルゲリータまで上り、サン・マルコ盆地を横切ってグレーチ川の兵舎の水門まで戻った。
その間、暇になるとHonourableは船内をぶらぶらして、煙草を吸ったり、お喋りを楽しんでいた。
サンタ・マルゲリータで引き取られた積み荷は驚くほど異質なものだった。新旧の衣服に、マットレス、衣服を圧縮して入れた包、リネン、フランネル、ブーツ、帽子、bathing-dressesなどー。
疑惑の人物はトロイアの血を引くフットボールのクォーターバックのように、集中的な熱意と単純さとを持って働いていた。無差別に埠頭から投げ入れられた雑多な塊をキャッチしては、それを丁寧かつシンプルにクラッブの小さな舟へと運び入れた。二人の漕手のためのスペースを残しておいたが、それ以上の余裕はなかった。
サン・ザッカリーア教会への帰り道の航海で、彼は女性用の帽子の山と崩れ落ちそうなズボンの塔の上に腰掛けて飄々としていた。埃っぽい綿毛に覆われた、華奢なサンドボーイだった。
運河からほとんど離れていないガンウェルをぶつけないように、素早く慎重に通過させてから到着すると、彼は荷降ろしした物をイタリアの立派な兵士たちの腕へと放り投げるゲームに意気揚々と参加した。
あの広大な貯蔵庫に分類するためだった。イタリアのさらに立派な水兵たちは、ヴェニスの献上品を海に停泊している海兵船に積み込み、カラブリアとシチリアへ迅速に輸送するために動いた。
18時30分頃の黄昏の中、サンタ・マルゲリータからの最後の積荷(舟の半分はいっぱいになった)を積み終わると、全員が疲れきっていた。
アルベルゴ・ブリタニカ号に近づくと、クラッブが言った。
「ここで降ろしましょうか。それとも旅の終わりが気になりますか?」
「どうぞ。お好きなように。」
と、Honourableは答えた。
ニコラスはジルドに呼び戻し、沿岸を航行するよう指示した。
「君の助けには本当に感謝しています。私たちは他のパッパリンの2倍の仕事をしましたね。」
彼はお客さんに対してそう言った。
「素晴らしい時間を過ごせました。」
閣下は嬉しそうに言った。
「来てください。一緒にお茶を飲みましょう。」
クラッブは断った。彼は最後までやり遂げたかったし、本当に疲れていた。彼には間違いなく時間があったし、今日の彼の実験を総括するための孤独な思惟の時間をに使いたかった。
サンザッカリアで荷物を届けた後、クラッブは、助手としてのジルドの印象を集めて整理したい衝動に駆られた。しかし、彼は突然そのことを思い止まった。
彼は自分にこう言い聞かせた。他人の意見をあてにするような、とんでもない怠け者にはなるな、と。ジルドに馴れ馴れしく接する傾向が自分にはある。それはいけないことだ。彼の人生の新しい半分が始まった。前半とは違うのだから。
ホテルに帰ると、クラッブはお茶を入れてくれないかと頼んだ。世話役のエリアがそれを用意してくれた。
彼の話す英語は奇妙だった。それからクラッブに、彼が昼食を一緒にとった若い紳士のことを知っているのかと尋ねた。
「彼のことはウォーデン氏から紹介されただけなんです。」
ニコラスは嬉しそうに答えた。
「彼は今日の午後、私と一緒にBeneficenzaのために働いてくれたんですよ。でも、どうしてですか?」
「ええ、旦那さん、それがですね、彼は外で待っていた探偵に尾行されたんですよ。ええ、旦那さん。でね、彼が昼食をとっている間です、ねぇ、旦那さん、あなたと彼、お二人の後を尾行していたのです。ねぇ、旦那さん。外で待っていたのです。あなたがピアツェッタを横切った後にね、ねぇ、旦那さん。」
クラッブは、それはおかしな話だね、とだけ言うと、ヴェネチアの魅力的な小雑誌『ガゼッティーノ』の読書に没頭した。世界や国や街の真面目なニュースだけではなく、ヴェネチアの習慣、風俗、興味深い方言について、実にリベラルな教育を受けることができるものだった。全て3シェイ。ハーフペニーの5分の3以下の値段である。
それから夕食の後、彼は午後のテストで自身の心の中を審査することにした。それらを総合すると、彼の本能的な最初の意見の確認としては、つまり Honourableは話にあったような特定タイプではない、間違いなく、下品で下劣な想像で彼の印象を作り上げたのだ。
彼は自慢することも嘆くこともせず、また質問も、仄めかすこともしなかった。彼の身なりや会話は(特に努力をすることもなく)、ごく普通のものであり、否定のしようがないほどに、彼の生まれついてのエレガンスと人柄によって飾り立てられていた。そしてクラリオンの喧噪とファゴットの耳障りな音の中で、声高に厳かに叫んでいた。
彼は充分に若く、充分に臆面もなく、4時間もの間、全身全霊をもって、慈善事業に自身を傾けていた。汗だくになりながら、ベネフィチェンツァのために集められた重く不安定な荷物をキャッチしてはパッパリンから放り投げる、という体をつかったゲームに4時間も没頭した。
クラッブは彼を歴史に登場する数人の見本と比較した。land-sharksやbandits、piqueerers、rapscallions、rapparees、riggers、rooks、Greeks、sharpers、 light-fingered gentry、さまざまな種類の悪党。彼はこれらすべてを思い出した。これらの悪党には、少なくともひとつの共通した特徴があった。
庶民的な聖職者とその婦人たちの目は、conjurers、welcher、歌手、役者、政治家、商人、そしてあらゆるmummers たちと同じ目をしている。
「この値段はいくらなんだ?」という表情をした神経質で好奇の目。
提供された商品がどのような効果をもたらすかを、ユーモアを交えて平静を装って観察しているという表情をしていながらも、いつでも交換をする準備が出来ている無関心で不承認な目。
Honourableはその類の目を持っていなかった。他人の意見など気にも留めていなかった。
もし彼が悪いとすれば、彼の悪どさ達人めいた賢さが悪かったのであり、50ポンドぽっち投げることなど、ともすればなんてことはない。
そしてクラッブは、それが有り得るように感じていた。彼自身、この複雑な社会において、単純であるがゆえに、謎の網に絡めとられて苦しんでいるのかもしれない。ウォーデンたちが外食から戻ってきたとき、ちょうど彼はこの判断を慎重に、控えめに丁寧に寝かせておこうと考えていたところだった。
「おー!」
|ティアサークは目を輝かせた。
「貴方はー貴方はー。 Honourableをご存知なのですか?」
クラッブはその大きく獰猛な鋏を定位置へと移動させて、三つ編みのドレスコートを着た蛙股《がにまた》の男の絹のようにサラサラの顔を睨みつけた。カエル編みの衣服は仔羊のような陽気なで、お祭りの季節にワックスが塗った床の上で元気に踊るためのもののようだった。
「午後はずっと彼と一緒だったんですよ。」
とクラッブは答えた。彼は気絶への衝撃に耐えられるように、力を振り絞っていた。
薄い唇の婦人はその割れ目から薄ら笑いを浮かべながらそれを見ていた。彼女は青地に黒レースのとても細い鎖と花柄に飾られた服を纏っていて、鳩色のコートは羽毛で泡立っていた。
ティアサークが手首を交差させる、incarcerationを意味するヴェニス式のジェスチャーをした。
「今夜、彼は(もし彼が可能なら)、サンセヴェーロ礼拝堂で寝ます。」
彼は蛙のような口で言った。
「主よ!」
クラッブは二人に言葉を投げかけた。
「ゴルチエがやったんだ。」
と、ウォーデンは口ごもりながら言った。
「それで、彼は、自分の息子を自慢に思っている。父親らしい関心をあの若者に持っていると私に言いました。彼はボローニャの事件を考え直して、私たちの友人がまったく平静を装っているのを見て、彼を一日中見張らせたのです。」
「それでしたら、私たちの後を尾行していた探偵についてエリアが言ったことも説明がつきますね。」
「貴方が怒っていなければ良いのですが……。妻が望んでいたのです。」
「少しも。私は何も気にしていませんよ。」
クラッブはクスクスと笑いながらそう言った。
「もしゴルチエの雇った探偵が午後の間ずっと私たちの後をつけていたのならば、彼は給料だけでなく、気前のいいチップも稼いでいたことでしょうね。」
クラッブは素早く青写真を描いた。
「それで……次はどうしようと?」
クラッブは尋ねた。
「ゴルチエは、この方法では不審な点は何もないということを知ると、一週間分の請求書と借りた50リラを払うように彼に尋ねました。けれども、彼はそのときは払えませんでした。そこでゴルチエは言いました。この若者が借金をしないようにするのが父親として責務であると。それでvìgileを呼んで、彼を逮捕させたのです。」
「いつも知っていますよ、私はね。」
このクラッブの言葉は、世界の全てに対してもかかっていたー
「ドイツ人は古風な考え方の持ち主であると。しかし、ゴルチエが持つドイツ人の父親の義務への考え方は、純粋に奇妙に思えますね。ドイツ人の父親はいつも息子たちが公の場での世間への不名誉でインポテンツになるのを防ぐために、世間に恥をかかせる。それで、貴方はどうするおつもりなんですか?」
クラッブはさらに尋ねた。
「煙草を一本頂戴、エクセター。」
と婦人はそう言い、クラッブの近くの椅子に座り、彼の方を向いて火を灯し、煙草を吸った。
「私は私の夫がわからないのよ。」
彼女はそう喋り始めて、咥えた煙草は上を向き(小賢しい女はいつもこの空々しい仕草をする)周囲の人々の視界を確保しようとして、(これで彼らの味覚と嗅覚も触覚は何も感知しなくなる)その試みは上手くいった。
「どうすればー」
|ティアサークが割り込んだ。するとクラッブは静かに、
「どうすればいいと思いますか?」
と呟き、その笑顔の中に、彼の武器庫の中でも最も難解で凶悪な剣を忍ばせた。なぜなら、彼は自分の仕事を正しいと識っていて、知的で系統だってそれを行う訓練された専門家に対する偏愛を養ってていたからだ。そして、単なる現代的なメカニズムに軽蔑していた。 そして今も、偶然通行人が小走りしたり、揺さぶったり、痙攣させたりすることで故障してしまうが、然し、そこから断続的な活動に移行していた。
「難しい質問ですよね。」
とウォーデンは意見を述べると、その変わらない微笑みが、彼にアイルランドの首のない悪夢めいた効果を与え始めた。
「そうでしょうか?」
「ええ、そうですよね?」
「いいえ、何かを食べるのと同じくらい簡単なことですよ。ただ単に機能的なだけです。貴方の(貴方が認める限りは)御友人は、貴方から安全に52ポンドを強奪できたかもしれないのに、しなかった。貴方の御友人は、貴方の教会の一員であり、貴方や他の人々がヴェニスに設立した教会に属している過ちを抱えたエラスティアンの一人です。貴方がたがヴェニスに設立した教会は、エラスチャンの儀式を管理する義務がある。そうでしょう?」
「では、貴方ならどうしますか?」
「もし私が司祭なら、逮捕のニュースが飛び込んできてから5分以内に刑務所に行ったでしょうね。これは推測ですが、貴方だって、目的のためにはそうなさったでしょう。私は英国人として、また教会の関係者として、自分の権利を主張するべきでした。もし彼らがゴタゴタ言うのであれば、私は有能な領事を呼んだでしょう。しかし、彼らはそうはしませんでした。イタリア人はイギリス人に対してはいつも堂々とした態度を取っています。私は囚人に対して、君の友人として来たのだと言うべきでした。もし彼の心が揺れたら自白する気になるかもしれませんし、友好的な仕事をしようとして、私に声をかけてくれるかもしれない。私は彼に自白するように促すべきでした。今まで誰も彼の魂を浄化できなかった。しかし、告白とは別に、もし彼がお金のことで困っていることを私に話したいのでしたら、私は信徒から充分に不潔な金を掻き集めることが出来ただろう。
さて、金とは一体なんでしょうか?若い男のこれからの人生の創造と破壊とを比較したとき、100ポンドや2ポンドが一体何だと言うのでしょうか?イタリアにおけるイギリスの名声のために、彼を自由にすることを比較したらー。」
クラッブはそう熱烈に主張した。
「しかし」
とクラッブは付け加えた。
「これは私を司祭職から遠ざけている(969回目くらいの)、地獄のように空虚な異端者共を呪うもう一つ機会のようにも思えます。
私は貴方の御友人からお呼び頂いていることに関して、真剣に検討しています。彼は私を迷路のような暗い路地に一人きりにさせませんでしたよ。1,300リラを私から安安と奪うことが出来たのは事実なのにです。
しかし私は、今日の午後にあったわずかな関係から、サンセヴェーロ礼拝堂の彼を訪ねなければならないと真剣に考えています。私が言いたいのはー、彼が私を利用したいと望むならば、構いません、私は友人として彼の元を訪れます。彼が言われたこと、疑われたこと、その全てを彼に伝えようと思っています。そう、私はそれくらいのことはしなければならないと考えているんです。」
「そんなことはやめてください!」
「私は牢獄にいたのに、貴方方は私を訪ねなかった。」
議論の余地のある言葉にウォーデンは、苦悶の表情で呻いた。悪名高い彼の婦人は、店で起きている前代未聞の嘲笑の隅っこでウロウロと彷徨っていた。
「しかし、わかりませんか。」
彼は絹のウエストコートの四方八方から言葉を絞り出した。
「私はあの若者のせいで混乱の極みにあるのですよ。」
「そうです。彼は貴方のポケットが仮想通貨でパンパンに膨れ上がった時に守ってくれたのですよ。いつもしているように、貴方の顔をクロロホルムを吸わせたハンカチで叩いて、獲物を持って逃げる代わりにね。」
「ええ、そうです。でもね、ほら、でもね、恐らく、クエスターが私を証人として呼び出す可能性が極めて高いのです。そのことに関しては、貴方もです。」
クラッブが割って入った。
「それで?それで?貴方は彼について何も言えやしないでしょう。彼が何かに夢中になっている愚か者じゃなければ、貴方から奪えるかもしれないときも、盗むことなどしないでしょうよ。そして貴方は民事上の証人として呼ばれるでしょうが、キリスト教徒の義務を免れることはできません。私はあの青年について確かなことは何も知りません。非常に重要なことを除いてね。けれども、もし機会が与えられたら宣言をする用意があります。機会が与えられなければ、機会を作る用意だってあるんだ。」
「レディ・パシュやエクセターに尋ねられてみては。」
そうジュヴァルデンセスが話し始めた。
クラッブは心に動揺が押し寄せてくるのを感じた。
「私は貴方と議論しているのではありません。貴方に伝えているだけなのです。」
と、クラッブは完璧な、恐ろしいほどの厳格さをもって宣言した。
「それと、今日は少しばかり疲れました。もし貴方が赦してくださるのならば、今夜はもう寝るとします。お休みなさい。」
と、彼は穏やかに付け加えた。
このような幸運に媚びへつらい、いい気になった、不幸でスカートの裾を掻っ攫うようなお喋りな人々に、どうして彼が動揺させられなければならないのだろうか。
第10章へ続く
次回は11/27頃更新になります。