偏愛の人 松山俊太郎
私が天才だと思う3人のうち、1人が松山俊太郎であり、松山俊太郎は梵文学の研究者で、蓮の研究家、法華経の研究家、そして、インドの研究をしている。
左手はない。左手は爆弾に吹き飛ばされた。進駐軍に投げ込むために自室でそれを弄くっていると爆発して、左手は諸共、右手は指二本変形した。私は、『HUNTER×HUNTER』のゴンとゲンスルーの闘いを思い出した。
そして、その破裂音で、母親が部屋に入ってきて彼にビンタしたという。16歳の頃だ。まるで、悪さが見つかるような話だが、然し、暴発したのは逸物ではない、爆弾である。天井には肉片がついていた。
とんでもない逸話だが、事実であり、然し、喧嘩はめちゃくちゃに強かったという。
細江英公の松山俊太郎を撮った写真がある。『蓮の宇宙』の表紙がそれだが、私は、剣豪的な、これほど剣豪的な写真はなかなかないように思える。『バガボンド』に出てきそうだ。
私は松山俊太郎は稲垣足穂の評論絡みでよく読んだけれど、この人ほどに優れた読み手はいないと思えた。優れた評論は、その対象の本質を掴み、それをさらに藝術的な高みへと押し上げるものだが、そういう、本質を突くような文章だった。
それは、彼の圧倒的な知識、碩学と呼ばれる程の知識が成せる技だった。
以前古書店で購入した『本の手帖』の1962年に発売された、ビブリア者による特集『わが1本』特集掲載号、この時、松山翁は32歳、初めての寄稿の仕事、そもそも、文章を書くのは嫌いであり、本を出すのも嫌だという男、その中で、『わが1本』として、日本で唯一ボードレールの『悪の華』初版本、第二版を持っている、そのエピソードを語っている。
ボードレールの『悪の華』初版本、これは鈴木信太郎が嫉妬したほどの本であり、そもそも、いくらで購入したのかは定かではないが、様々なものを売りさばき、手に入れたのだという、超、ウルトラに貴重な本である。
今は、何千万円する本で、当時でも何百万円くらいの価値はあるのだろうか、2009年に、署名献呈本が1億円で落札されていた。
松山は、目録で見た時はそれほど心惹かれず、然し、デパートでのその実物を見た時、猛烈な欲望が湧き上がり、家に帰るともう忘れられない、なんとか所有者を突き止めて、入手したのだという。
まぁ、その気持はわかる。本、というのは、入手までが楽しい。探している本の情報を収集し、書影に焦がれ、そして、眼の前に現われたそれを、なんとしても自分のものにする。それが楽しい。
優れた作家、藝術家には優れた評論家が必要だ。優れた評論家がその藝術の価値を分解し再構成するのだから。作品と評論は分かち難く結びついており、それは不可分なのである。
松山俊太郎は、本を出さない人として有名であり、書籍は5冊ほどしかないし、そのうち1冊は没後に出ている。私はその感覚が大変に好きだ。やたらと本を出したがる人がいるが、まずは自分の文章に価値があるのか考えたほうがいい。
松山俊太郎というと、俳人の加藤郁乎と仲が良いので、彼の句集『球体感覚』の全句の解題などもしているが、私は加藤郁乎が好きではない。加藤郁乎も足穂関連でよく読むが、彼の書く文章は私には悪文である。めちゃくちゃ読みにくい。難しい、というよりも、もうくどいくどいケーキのような文章で、ニガテだ。俳句の方はよく識らないので、好きな人は許してね。
加藤郁乎は澁澤龍彦と仲が良くて、ただ、澁澤龍彦の元奥さんの矢川澄子と澁澤龍彦の寝ている横でいたしたという、そういう不倫に関して著作に書く、とんでもない鬼畜であり、まぁ、澁澤も鬼畜なので、恐ろしい魔空間だと私は思うた(車谷長吉風)。
松山俊太郎が一番好きな作家は谷崎潤一郎で、尊敬し天才だと思っていたのが小栗虫太郎だった。
どちらも特異な作家だが、小栗虫太郎は格別に特異である。松山曰く、あの頭脳は紛うことなき天才のものだと、虫太郎をべた褒めしている。なので、小栗虫太郎の作品集の編集や解説などの仕事を多岐に渡って行っている。
『黒死館殺人事件』は日本三大奇書の一つで、もう一つは中井英夫の『虚無への供物』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』だが、全て、人を選ぶ本で、中でも、『黒死館殺人事件』は、常人ではなかなか読み進めることの難しい、蘊蓄に次ぐ蘊蓄の脱線本であり、やはり、それは、虫太郎の特異な才能なくしては不可能な作品だと、偏愛を述べている。
ある種、松山も脱線のオンパレードだ。蘊蓄のオンパレードだ。然し、蘊蓄、雑学、というのは、無駄な知識ではない。知識に無駄なものは一つもない。それは一つ一つは細かくても、俯瞰で見れば曼荼羅なわけで、その、萃点を識ることが文学にせよ、何れにせよ、勉強の目的の一つであるのだから。
虫太郎、唐十郎、宮沢賢治、土方巽、南方熊楠、江戸川乱歩、と、そのような、まぁ、異常な世界が好きなのである。その中では、谷崎潤一郎は比較的マイルドである。
三島由紀夫が、『暁の寺』を書く時に、松山に唯識に関して話を聞きに来たそうだが、三島が十全にそれを理解して作品に取り入れたかというと、そうではなかったようだ。三島が助言を乞う程の人であり、康芳夫が言うには、恐らく、松山は小林秀雄なんて粗大ゴミだと思っていたと思う、と言うが、私も小林秀雄はカスだと思っているので、やはり松山派になってしまう。
松山は土方巽にも心酔していたが、澁澤共々、土方巽に騙されていると康芳夫が言っていた。
康芳夫曰く、松山俊太郎は花田清輝コンプレックスがあったという。仲の良い澁澤や種村季弘が花田清輝に傾倒していることに対してイラつている面があったという。
松山俊太郎は蓮の研究者で、インドの詩などを研究し、そこに書かれている蓮などを研究しているうちに、1人でやれば10万年かかっても不可能だと悟ったのだという。
これだけの知識があっても、蓮、という一つのものをとっても、勉強や研鑽は終わらないのである。サンスクリット語は超難しいので、10年かかってようやく初期段階が終わる、とか聞いたことがあるが、このサンスクリット語を専門に、一介のサンスクリット研究家として日本の文学、海外の文学まで広く読み、その評論をものするということは、凄まじいことだと思える。
だが、やはり、松山はインタビューや対談が良い。対談やインタビューなどは、ある種、論文などよりも美しい言葉をこぼした原稿になっていることがあり、松山もそれに該当する、個人的にはそう。
松山俊太郎の著作は少ない。少ないが、難しいので、特に、『蓮の宇宙』はなかなか読み進めるのに時間がかかる。つまりは、それだけ巨大なものを相手に格闘していたということになる。
松山俊太郎は神田の美学校で月一の講義を行っていたという。私も、一度は受けてみたかった、その講義。
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