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第46回 釈尊の悟り⑭ 二種の観察「真理と虚妄」

 前回(第45回)、二種の観察の「物質的領域・非物質的領域・消滅」について取り上げ、それぞれを、「この世・あの世・ニルヴァーナ」とする私の解釈を紹介しました。
 今回は、その次に説かれる、「真理と虚妄(こもう・きょもう)」について考えます。

 スッタニパータの「第三 大いなる章 十二 二種の観察」に説かれる一節ですが、まず、当該個所の現代日本語訳を、「ブッダのことば」(中村元訳 岩波文庫)から引用して紹介します。

前文 修行僧たちよ。「また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?」と、もしもだれかに問われたならば、「できる」と答えなければならない。どうしてであるか?『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が〈これは真理である〉と考えたものを、諸々の聖者は〈これは虚妄である〉と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』・・・これが一つの観察(法)である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が〈これは虚妄である〉と考えたものを、諸々の聖者は〈これは真理である〉と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』・・・これが第二の観察(法)である。このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。・・・すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。》

 《756詩 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、〈名称と形態〉(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。》

 《757詩 或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異ったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。》

 《758詩 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快を貪ることなく平安に帰しているのである。》

 この説法は、真理(=無上正等覚)を悟っていない「道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者」と、真理を悟っている「聖者=仏陀」の、「真理と虚妄」に対する認識の違いについて説いています。

 しかし、真理を悟っていないグループに神々が含まれているのを、不思議だと思いませんか?
 「神々と悪魔とともなる世界」という表現に、違和感を覚えませんか?

 我々の「神々」に対するイメージは、「悪魔」とは全く相容れない、清廉潔白で正義のみを実現する全能者、仏陀と同等の至高の存在ではないかと思います。

 その「神々」が、この説法では、『道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者』と、我々人間と同等に扱われており、しかも、『神々と悪魔とともなる世界』と、まるで「悪魔」と同じ世界の住人であるかのように表現されています。
 なぜなのでしょうか?

 この『』内の文章の意味を理解するカギは、前回(第45回)取り上げた説法、「物質的領域・非物質的領域・消滅」にあります。

 中村元氏は、「ブッダのことば」の注釈ページで、「物質的領域・非物質的領域・消滅」を、それぞれ、「色界・無色界・ニルヴァーナ(涅槃)」と注釈しています。

 現在の仏教界の一般的な解釈・理解に基づくものだと思いますが、こう解釈すると、物質的領域の典型である人間界等の欲界がそっくり抜け落ちてしまい、大きな矛盾が生じます。

 この矛盾を解消するのが、前回の記事に書いた、「物質的領域・非物質的領域・消滅」を、それぞれ、「この世・あの世・ニルヴァーナ」とする解釈です。

 なぜそう解釈するのかというと、「この世」と「あの世」は、釈尊が自説経の中で説いている、ニルヴァーナの中に造られた世界だからなのです。

 我々が生存する「この世」以外にも、物質で形成された世界(マルチバース)は、あるのかもしれません。
 要するに、ニルヴァーナの中には、「物質で形成された世界」「(幽体や霊体のような)非物質で形成された世界」の、両方が混在しているということを釈尊は説いているのです。
 「非物質で形成された世界」を、般若心経のサンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」では、「意界」と表現しています。


 「神々と悪魔とともなる世界」という中村元氏の現代日本語訳は、「神々と悪魔の両者が、それぞれ住んでいる世界(=天界・修羅界)」という意味と、「神々と悪魔と人間の三者が、それぞれ住んでいる世界(=天界・修羅界・人間界)」という意味の、二つの意味に解釈することができます。

 パーリ語の原文を精査すれば分かることですが、パーリ語が読解できない私は、後続する文章が「道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者」となっていることから、後者の、「神々と悪魔と人間の三者が、それぞれ住んでいる世界」を意味していると判断しました。
 すなわち、ニルヴァーナ内に形成されている、(浄土世界も含む)全ての世界という意味です。

 そうなると、「聖者」という言葉は、輪廻の流れから解脱して、ニルヴァーナに安住している(予定の?)、「仏陀」と同義語ということになります。

 一方、神々と同列に扱われている、悪魔が住むという世界は、どこなのでしょうか?

 一応、六道の一つの修羅界と書きましたが、仏教では、欲界の最高位の他化自在天の主宰神が大魔王と表現されているので、天界の一部の世界が該当するのかもしれません。
 キリスト教でも、サタン(悪魔)は、元々、大天使ルシフェルだとされていますから・・・。

 これらの解釈と、前回提示した、「人間は、アートマン(我)という主体(本体)の上に、幽体・霊体と呼ばれる服を着、さらにその上に、肉体というオーバーコートを着た存在である」という人間観を前提として、756詩~758詩を分かりやすく(?)書き換えると、次のようになります。

 《756詩 見よ、神々並びに世人(=造られた世界に住む生存者・住人)は、アートマン(我)ではないもの(=肉体・幽体・霊体を着た個体)をアートマン(我)だと誤認し、〈名称と形態〉(=名前を付けられた個体)に執著している。「これこそが真の実在である」と考えている。》

 《757詩 或るものを、(或る一瞬を捉えて)、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは(時間の経過と共に)それとは異ったものとなる(=諸行無常)。なぜなら、まだ悟っていない者が(五感で)認識する事物は、虚妄(=真の実在ではないもの)なのである。過ぎ去るもの(=変化するもの=造られた世界の一切の事物)は虚妄なるものであるから。》

 《758詩 安らぎ(=ニルヴァーナ)は虚妄ならざるもの(=不変の真の実在)である。諸々の聖者(=仏陀)はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快を貪(むさぼ)ることなく(=天界や人間界での快適でゴージャスな生活に溺れることなく)平安(=ニルヴァーナ)に帰している(=解脱している)のである。》

 造られた世界(=この世とあの世)に住む、全ての生存者・住人は、(肉体・幽体・霊体に備わる)五感(=眼・耳・鼻・舌・身)で感知する全てのものを、真の実在だと思い込み執著している。
 しかし、それらは真の実在ではなく、(移ろい変化する)虚妄の存在にすぎない、と言っているのです。

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