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源氏物語 現代語訳 夕顔その2

 惟光がしばらくして参上いたしました。「病人のことでございますが、まだ弱っておりますので目が離せず世話をいたしておりました。」とご挨拶し、お側近くに寄ってさらにこう申し上げました。「仰せの通り、あの後隣家のことに通じております者を呼びましてあれこれ訊いてみたのでございますが、はかばかしい答えは得られませんでした。極秘中の極秘にこの五月あたりから訪れる方がおられるようなのですが、その方につきましては家の者にも一切知らせてはおらぬようでございます、そう聞かされましたので、時折境の垣根から覗き見してみるのですが、確かに若い女たちの影は簾越しに透き見えます。侍女らしい褶のような上着を軽く羽織った者がおりますので、お仕えしている女人がおられるのでしょう。昨日、たまたま夕陽が隈なく射し込んでおりまして、手紙を認めるべく座っていた女人の顔がすっかり見えてしまっており、それがまた結構な美人でございました。深く物思いに沈んでいる様子でして、その場の女房たちまでもがさめざめと泣いているのまでくっきりと見えましてございます。」とお話し申し上げました。源氏の君もにやりとされ、ぜひその女の素性を知りたいものだと思われます。

 誰の目にも重過ぎるご身分でありながら、まだ年若くあられ、あれほどまでに女たちがこぞって憧れ恋い焦がれている様を思えば、むしろ浮気心のひとつも起こさない方が味気なく殺伐としてしまうであろう、たとえ身分違いも甚だしく到底釣り合わないような相手であろうと、これと狙いをつけられた女はどこまでも追い求められるのはかえって好感が持てるというものじゃないだろうか、と思ったりもします。

「この先万が一ご覧になられるようなこともあろうかと、ちょっとしたついでに手紙なんぞ出してみました。すると手慣れた筆致ですぐさま返事がかえってきまして。そこそこ教養のある若い女がいるようでございますよ。」とご報告いたしましたところ、「ならばもうひと押しふた押ししてみてはどうだ。詳しく知らずにもやもやしているのは気に入らないから」と仰います。これこそまさにあの雨夜に下の下に入れて差し支えなかった住まいだが、そんな中に思いもよらぬ佳人を見つけ出したらこれぞ物怪の幸いであると、奇特なお考えに至られるのでした。

 それはそれとして、あの空蝉があれほど薄情に冷たく応対いたしましたのを、かえって世間一般の女とは違うと思し召され、あれがもう少し柔軟であったならいささかの苦い過ちとしてそれきりになったでしょうが、ああまでされてしまってはこのままにして済ますのが敗けを認めてしまうようで、いつまでも棘のように引っ掛かっておられるのでした。あのような居がちな身分の女に惹かれるとは意外でありましたが、例の雨夜の品定め以来、ちょっと試してみたいと好き心を刺激された品々が出来てしまい、そんな酔狂にすっかりお心が囚われておいでになるのでしょう。

 方や裏表なく信じてお待ちしているもう一人の女人にも、心動かされないこともないのですが、ついつれない方の思惑が気にかかり恥ずかしくなられ、まず先に薄情な方の気持ちを確かめた上でないと……、などとお考えになられているうちに、伊予介が帰京いたしました。真っ先に源氏の君にご挨拶申し上げます。船旅のせいでしょう、やや陽焼けして疲れの残る姿が、妙に逞しくもあり感心しません。とはいえ、さほど賤しくもない身分に生まれた者ゆえ、老けた顔もそれなりに見映えがし、どこかしらありきたりではなく、奥深いものがあるようにも思われます。

 下がっておりました伊予国の土産話などいたしまして、源氏の君はつい「湯桁はいくつあるのかな」と問いたくなる衝動に駆られましたが、さすがに気恥ずかしくなられ、それを機にあれこれとお心の内に想いを巡らせておいでのようです。いたって実直な老人に対してこのような感慨を抱いてしまうのも、まったくもって決まり悪い後ろめたさのなせる業ではないか。尋常ではない醜態というものではなかろうか、これこそあの折馬守がきつく諌めたことであったと思い当たり、あの女人の冷淡さは確かに堪えるけれど、この夫のためには立派な振る舞いであったと今更ながら感心なさいました。

 そのうち娘はそれなりの相手に嫁がせ、妻を伴ってまた任国に赴く予定でございますと聞かされ、ただごとでなく慌てられ、もう一度逢えなおものだろうかと小君に打ち明けられましたが、たとえ合意の上だとしても逢うことは憚られる状況でございますのに、ましてやそもそも似つかわしくないと悟り、今更体裁が悪過ぎると女は観念しているのでした。

 そうは云っても、女の側にしてみれば、これきりになり源氏の君に忘れ去られてしまうのも、生き甲斐をなくしこの先何の望みもないように思われて、頂く文には心を籠めてお返事申し上げ、何気なく書いた言葉にも思わせ振りな多少気を惹くような一句を加えたりなぞして、いかにもまだ想いがあるような雰囲気ですので、源氏の君といたしましても、薄情で忌々しい女と思いつつ、どうしても忘れ去ることが出来ないと思ってしまわれるのでした。もうひと方は、仮に決まった相手が出来たとしても、素知らぬ顔でお付き合いしてきそうな気配が濃厚なところを頼りに、あれこれ噂はお耳に入りますが、格別の想いはお持ちになりません。

 それやこれやでもう秋になってしまいました。御自身で招いてしまわれた事とは云うものの、あれこれと思い悩まれ心乱れることが多々あり、婚家においでになられるのも絶え間がちになっておりますので、北の方を含め右大臣家では恨んでばかりおいでのご様子です。

 六条辺りの女人も、当初は節度を保ったご関係を望まれておられる風でしたが、ひと度一線を越えられてからというもの、源氏の君が掌を返したかの如くおざなりになられたようにも感じられ、ずいぶんと落ち込んでおられます。とは云うものの、他人の間柄であった頃の恋狂いゆえの強引さがすっかり影をひそめてしまわれ、あの頃のような熱に浮かされたお気持ちになれませんのを、一体どうしたことかと訝まれておられます。女人は物事をつい理詰めでお考えになるご性分で、そもそも年齢が不釣り合いですから、ご関係が世間に洩れてしまったら……、と今のようにすっかり間遠気味になってしまった寝付かれない夜毎に、うなだれて意気消沈なさっておられます。

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