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源氏物語 現代語訳 紅葉賀その1
朱雀院の行幸は十月十日過ぎを予定されております。この度の行幸はかつてないほど盛り上がるはずですから、宮中外の行事に参加出来ないお妃様方は、ご覧になれませんのでつまらないと口々に不平をこぼされます。お上も、藤壺のご見物が叶いませんから不満に思われ、予行演習を御前にて催させることになさいました。
中将源氏の君は青海波を舞われました。相方を務められますのは左大臣のご子息の頭中将です、御容貌も御配慮も人並み優れておられますが、源氏の君と並ばれますと、申し訳ありませんが花の隣の深山木に過ぎません。沈みかかった陽がかっと照り映え、音楽もいっそう高らかに響き渡り、興奮が最高潮に達した頃、お二人で一糸乱れぬ足踏み、表情、どれをとっても絶品の舞です。吟詠なさいます源氏の君のお声は、天上界の迦陵頻伽さながらに聞こえます。あまりの素晴らしさと深い味わいに、お上もつい目頭を押さえられ、上達部、親王といったお歴々も一人残らずもらい泣きをなさいます。吟詠が終わり、再び舞に戻られるためお袖を直されますが、待ってましたとばかりに楽が一気に盛り立てますので、お顔色が一段と華やぎ、いつにもましてあれぞ光る君と皆々様うっとりなさいます。
東宮の母君であられる弘徽殿女御は、そんな晴れやかなお顔に激しく嫉妬され、「神なんかが空の上から愛でてそうな顔だわね、ああ怖い怖い。」と仰いますのを、年若い女房たちは「最悪」と耳に残ってしまいました。藤壺は心にやましい想いがなかったなら、いっそう麗しく見えたものをと、まるで夢の中の出来事のように思われておいでです。
その夜、藤壺宮はそのままお上の御寝所に侍ります。「今日の予行演習は、何をおいても青海波に尽きますねぇ。どうご覧になりましたか。」とお訊ねになられますと、心ならずもお答えすることが出来ず、辛うじて「抜きん出ておられました。」とだけお洩らしになられます。「相方もなかなか悪くなかったね。舞姿、手振りなんかも良家の子はやはりどこか違う。今の世に舞の上手は数多いるが、確かに皆見事に舞いはするけれど、初々しさとか清らかな色気といったものは持ち合わせていないんだなぁ。あれだけ予行演習で燃え尽きてしまうと、紅葉の下での本番が見劣りせぬか心配だが……、今日はぜひ貴女にお見せしたいと入念に準備させたのですよ。」等々熱く語られるのでした。
翌朝、源氏の君よりお手紙が届きます、
「どうご覧になられましたでしょうか。味わったことのない惑いと乱れのままに舞いました。
悩ましい想いを抱え本来なら舞えるはずもないのですが、袖を振って必死に舞った私の心中をお分かりいただけたでしょうか
なんとも畏れ多いことですが。」そう認められておりましたお返しは、さすがにあれほどまばゆいお姿お顔をご覧になられては無言を貫くことも出来かねたのでしょう、
「唐人が袖を振る青海波の故事はあいにく存じ上げませんが、貴方の舞には心奪われしまいました。それも並大抵ではございません。」と書かれてありましたのを、源氏の君は奇蹟のように感動され、青海波の故事にまで通じておられ、異国の朝廷のことにまで想いを馳せられて、すでにしてお妃言葉を遣いこなされておいでだ、とにっこりされますと、お手紙をまるで携帯されておられるお経のようにお広げになりしみじみと眺めておられます。
行幸には、親王方をはじめとして貴顕たちが一人残らずお仕えいたします。もちろん東宮もおいでになります。いつものように楽人たちを乗せた船が池を巡って、唐土、高麗の音楽に渾身の舞と、見所が盛り沢山です。楽器の演奏、鼓の音は天まで届きそうな勢いです。
予行演習の際、夕陽に映えた源氏の君の舞があまりにただ事ではなかったので、お上が寺々でお経を上げさせましたのを、耳にした人たちはしごくもっともだと納得したのですが、唯お一人、弘徽殿女御だけは「なにもそこまで」とめらめらと憎悪を募らせ吐き捨てるように仰いました。青海波の四十人の楽人垣代には、殿上人はもとより、地下の者たちからも、手練れと評判のある者は精通する限り全員集められました。参議二人と左衛門督、右衛門督が左右の楽を担います。舞を舞う人たちは、各々舞の匠を招聘して家で練習に余念がありません。
本番では、丈高い紅葉の下、円陣を組んだ四十人の垣代たちが力の限り吹き立てる楽の音に唱和した松風が、本物の深山おろしと聞きまがうばかりに吹き乱れ、色とりどりに散りそそぐ木の葉の中から、青海波が綺羅綺羅しく出現した際には、そら恐ろしいものにすら見えました。鳥甲に挿した紅葉が散り切って、お顔の輝きに恐れをなしたように見えますので、左大将が御前の菊を手折り挿し替えて差し上げます。暮れかかってまいりました頃に、わずかに時雨ましたが、空模様さえもが心得顔で、このような絶世の美貌に様々に色変わりした妙なる枝を翳して、今日は秘技を極めた入舞を披露されますお姿は鳥肌が立つほどで、到底この世のものとは思えません。物の値打ちが分かろうはずもない下人などの、木の下や岩の蔭、山の木葉に埋もれているような輩でさえ、ほんの一寸でも心ある者は涙を流さずにはいられませんでした。
承香殿の女御との間にお生まれになった四の皇子がまだ童児ながら秋風楽を舞われましたのが、青海波に次ぐ見処でした。当日の出し物は、この二つの舞に尽きたと云って差し支えなく、誰も他には目もくれずむしろ興醒めとなってしまった感があったような気もします。その夜に、源氏の君は正三位に叙されました。頭中将は正四位の下に昇進され、上達部たちも皆それ相応に栄誉に浴されましたのも、すべて源氏の君の卓越した舞の恩恵というわけですから、こうして衆目を集められ、誰もを幸せになさるお方はさぞや前世で功徳を積まれたことでしょう。
藤壺宮はその後里下がりなさいました、源氏の君はまたぞろ逢い引きの機会を窺われながら夜歩きを続けておられますので、左大臣邸からは苦情が絶えません。就中、あの紫上を引き取られましたのを、「二条院では女人をお迎えになられました。」とご注進する者がおり、奥方様におかれましては実に不快に感じておられます。詳細をまったくご存じないのですから、ご立腹もごもっともではありますが、いたって素直にその辺の女のように詰られるのであれば、私だって腹蔵なく打ち明け慰めの言葉のひとつもおかけしようが、思ってもみない勘繰りばかりなさる分からず屋ぶりに、つい出来事で浮気の虫がもぞもぞと動き出すのだ、お人柄は、可もなく不可もなくといったところで、なにより他に先んじてお逢いしご縁が出来たのだから、これでもずいぶん大切に扱っているつもりなのだけれどそれが感じられないと仰るなら致し方ない、いつかはお心を改めてくださるだろう、根はしごく穏やかでお考えもしっかりなさっておいでなのだからそこを頼みにしてはいるのだけれど……、と思われておいでのようですが、どうもこちらのお方は勝手が違うようです。