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源氏物語 現代語訳 夕顔その7

 陽が高くなりましても源氏の君が一向に起きてこられませんので、周りは皆訝み、お粥などをお持ちいたしましたが、依然としてお苦しく、半ば意識朦朧とされておりますところに、宮中より御使者がありました。昨日、源氏の君の行方がお分かりにならなかったとのことから、お上がご心配になっておいでとのことでした。左大臣家の方々が大勢おいでになられた中から、頭中将のみを、「穢れがございます、御簾どうぞお立ちになられたままお入りください」と仰って、御簾の内からお話になられます。

「私の乳母にあたる者が、この五月あたりより重い病に罹りまして、剃髪し受戒などいたしましたところ、霊験あらたかと申しますか、いくぶん持ち直しておったのですが、先頃よりまた病が振り返し、すっかり気弱になって、どうしても私にもう一度見舞って欲しいと申します、なんと云いましても幼い時分から慈しんでくれた者ですので、最期の願いを聞き届けなかったらきっと根に持つであろうと思い、訪れてやったのです。その家にたまたま病に臥している下人がおりまして、すぐに立ち去るわけにもいかぬところ、容態が急変して死んでしまったのです、私に気兼ねして日暮れを待って運び出したそうなのですが、後になって耳にしたことですけれど、なにぶんにも神事の多い今日この頃ですから、何かと都合がよろしくなかろうと慮り、出仕をご遠慮申し上げております次第なのです。それに加え、今朝からどうやら風邪をひいてしまったらしく、非道い頭痛に苦しんでおりますため、このように無礼な応対となりましたこと深くお詫びいたします。」と仰います。「よく分かりました。ではその旨ご報告申し上げましょう。昨夜管弦の御遊びがございましたが、そのお席でもありがたいことに貴方のことをお尋ねになられておいでで、いささかご機嫌斜めでいらっしゃいましたよ。」そう仰いつつ、ふと振り返られ、「どんなゆきずりの穢れにお遭いなさったことやら。お話になられたことは俄には信じられませんねぇ。」と申されます、源氏の君は内心どきりとされ、「ともあれ詳細は割愛していただいて、ただ思いも寄らぬ穢れに触れてしまったとだけ申し上げてくださると助かります。なんとも怠慢で申し訳ありません。」と平静を装われましたが、内心言葉にならない悲しみに囚われたまま、悩み抜いておられ、中将のお顔を直視なさることがお出来になりません。改めて中将の弟君の蔵人の弁をお近くにお召しになり、大真面目にかくかく然々のご事情をお話になり、お上に申し上げるようお命じになられます。左大臣宛てにも、かくなるいきさつで伺えない旨ご伝言なさいました。

 日暮れになり惟光がやってまいりました。このような穢れがあると源氏の君が仰いますので、訪れてくる人たちは全員起立したまま下がりますから、お側にはほとんど誰もおりません。お近くに呼び寄せ、「どうであった。……最期を見届けたか。」そう口にされるや、源氏の君は袖にお顔を埋めて泣き出されました。惟光も涙ながら、「あれで最期だと思います。いつまでも籠っておられるのもよろしくありません、明日なら日柄もよいようですので、事後の諸々を知り合いの尊い老僧に託しておきました。」と申し上げます。「お仕えしていた女はどうなったか」とお訊きになりましたので、「あの女もまたこの先生きては行かれぬでありましょう。私もお後を追い申し上げますと、今朝方は谷底へ身投げしそうな塩梅でした。『あの方の家の者たちにお知らせせねば』と申しますから、今しばらく気をお鎮めなさいと、起こった事をよくよく見きわめてからでも遅くはありませんよ、と宥めすかしておきました。」そんなことをお話申し上げておりますと、源氏の君も改めて感じ入られるところがおありで、「私も生きている心地がしないんだよ。このままどうにかなってもおかしくない気がするんだ」と仰います。

「この期に及んで何を今更思い悩まれるのです。あらかじめ定められていたこと、すべては宿命なのでございます。他人の耳に入らぬようにと思うからこそ、こうしてこの惟光も奔走し、手を下しておりますものを。」などと申し上げます。「云う通りだね。もちろんそういうものだとは敢えて得心してはいるが、浮わついた出来心で人の命を奪ってしまったと世間の謗りを受けるのが何より辛くてたまらないんだよ。お前の妹の少将の命婦なんぞには間違っても聞かせぬように。ましてや母の尼君はこの手のことにはことのほか口うるさい、知られた日には恥じ入ってしまうから。」そう固く口止めなさいます。「その他法師どもにもしっかり云い含めてございます。」と申しますのをお心の支えにしておられます。ご容態を小耳に挟んだ二条院の女房たちは、「変ねぇ、一体何があったのかしらん。穢れがあった旨だけ仰って、宮中にもご出仕なさらず、惟光なんかと密談されてお嘆きになられているなんて。」とぼんやり怪しんでおります。

「念には念を入れて処置しておくれよ」と、葬儀の作法を事細かに仰いますので、「そこまで大袈裟になさらずともよろしいかと存じます」そう云って惟光が立ちかけますと、まことに無念なお気持ちになられて、「お前がそう思うのももっともかもしれないが、やはり最後にもう一度あの方の亡骸をこの目で見ないことにはいつまで経っても心が晴れない、今から馬で出掛けよう。」と仰います、なんという突拍子もないことを!とは思いましたが、「そこまで思い詰められておられるのでしたら致し方ありません。すぐにご出立になられ、少なくとも夜更けまでにはお戻りください。」と釘を差しました、このところずっと変装用にお召しになられていたぼろぼろの狩衣に着替えられ出発なさいます。心に暗雲が垂れ籠め、いても立ってもいられぬお気持ちからこのような不穏な外出をなさいましたものの、危険な出歩きは懲り懲りですから、どうしたらいいものか……と思案なさっておいでです、それでも心を覆う悲しみは拭いがたく、この機会に今お顔を拝見しておかなければ、また来世以降に再会してもそれと判ろうはずもない、と心に強く念じられ、いつもの大夫と随身をお連れになり歩を進ませられます。

 道が果てしなく遠く感じられます。十七夜の月がもう姿を現し、ようやく加茂川にお着きになりました、御前駆の灯す火もいつもより控え目で、鳥野辺方面の景色もいつもでしたら不吉ですのに、今は何とも思われず、掻き乱されたお心のままに現場に到着されました。

 ただでさえ凄まじい場所柄であるのに、板屋の隣に尼がお堂を建てて修行している住まいが実にうら哀しく映ります。お灯明がぼんやり透けて見えています。板屋では女が一人で泣いている声だけが洩れ聞こえ、家の外には二三人の法師が立ち話をしながら、ことさら無言の念仏を唱えています。周辺の寺寺では初夜の勤業も終わったようで、ひっそり静まりかえっています。引き換え、清水寺方面は燦々と光り輝いており、大勢が行き交っているのが見えます。こちらの尼君の息子である僧侶の声が尊く、朗々とお経を読み上げておりますので、涙を絞りきる想いになられました。

 板屋の内へと入られますと、灯りを亡骸から背け、右近は屏風を隔てて臥しておりました。どれほど心細いことだろうとご覧になられます。恐ろしいとはまったく思われず、むしろとても愛らしい表情を保っており、まだこれといった異変は見受けられません。源氏の君はその手をお取りになられ、「私に声だけで構いませんからお聞かせいただけませんか。いかなる前世の契りだったのでしょうか、ほんの短い間ではございましたが心の限りを尽くして二人といない大切な人と思っておりました、それが私を一人残してこんなにもさ迷わせるとは、あまりに無体な仕打ちです」そう仰って声を限りに泣きじゃくられます。僧侶たちも何処の何方か分からぬまま、怪しいと思いつつももらい泣きいたしておりました。

 右近に向かい「いざ二条院へ参ろうか」と促されましても、「お生まれになられてからこの方、ご幼少の砌より片時もお側から離れることなくお仕えいたしておりました方と、こんなにも突然のお別れが訪れて、何処に帰れると云うのでしょう。悲しみは悲しみといたしましても、口さがない他人から後ろ指をさされるのが何より辛うございます。」そう云って泣き崩れ、「いっそ煙となって消えてしまいたい……」とまで口走ります。「そう思って当然ではあるけれど、これも世の習い、理なのだ。悲しくない別れなんぞあるものか。後か先かの違いだけ、どちらにせよ予め決められていることなのだよ。この辺りで見切りをつけて私を頼りにしてみてはどうだろう。」そう仰ってお慰めになりますが、「こんなことを云っている私が何を隠そう一番生きている心地がしないのだけれど……。」と零されるのがなんとも頼り甲斐なく感じられます。そこに惟光が、「夜も明けてまいったようです。急ぎお戻りになられませんと。」と申し上げましたので、一瞬振り返られ、張り裂けそうなお胸を抱えたまま帰宅なさいました。

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