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【徒然草 現代語訳】第百五十七段
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
筆をとれば物書かれ、楽器をとれば音をたてむと思ふ。盃をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤打たんことを思ふ。心は必ず事にふれて來たる。かりにも不善の戯れをなすべからず。
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むることもあり。かりに今この文をひろげざらましかば、このことを知らむや。これ則ちふるる所の益なり。心更におこらずとも、佛前にありて數珠をとり経をとらば、怠るうちにも善業おのづから修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禪定なるべし。
事理もとより二つならず。外相もしそむかざれば、内證必ず熟す。しひて不信をいふべからず。あふぎてこれをたふとむべし。
翻訳
筆をとればつい物を書いてしまい、楽器をとれば音を奏でようと思う。盃を持てば酒を恋しく思い、賽を手にすれば双六が打ちたくなる。心の動きは決まって物に触れることと連動している。間違ってもよくない戯れ事はすべきではない。
ちらりと経文の一節を目にしただけで、おのずと前後の文言も目に入る。その途端、たちまちにして積年の過ちを悔い改めることもある。仮に今、この経文を繙かなかったら、そんな境地に達しただろうか。これぞまさに仏典に触れるご利益なのである。たとえ仏心がつゆほども起こらなくても、仏の前で数珠を手にしお経を手にとれば、だらけている間にも自然と善行を積むようになり、乱れ勝ちな心ながらも座禅の座につけば、いつしか精神が統一され禅定に至る。
様々な現象とただひとつの真理は、そもそもふたつに分かれているわけではない。外に表れる形が道理にかなっているなら、内には必ず真理の花が開く。一概に不信仰と決めてかかるものでもない。仰ぎ尊ぶべきなのだ。
註釈
○聖教
読みは「しょうぎょう」。
○數珠
読みは「ずず」。
○善業
読みは「ぜんごう」。
○外相
読みは「げそう」。
大学時代この段に触れた当時、同時にハイデッガーを読んで「現存在」について考えていました。
「私」がここに存在しているのは、「私」がここに存在していると自覚しているからなのだ。だがしかし、「私」はここに存在しているにもかかわらず、「私」がここに存在しているという自覚が極めて稀薄なのはどういうわけなのだろうか。
そんなことばかり考えていました。
今もごくたま~に考えることがあります。
だから折に触れて「徒然草」を読み返しているんでしょうね。