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【徒然草 現代語訳】第百五十五段
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
世に従はむ人は、先づ機嫌を知るべし。ついであしきことは、人の耳にもさかひ、心にもたがひて、そのことならず。さやうの折節を心得べきなり。但し、病をうけ、子うみ、死ぬることのみ、機嫌をはからず、ついであしとて、やむことなし。生住異滅の移りかはる、實の大事は、たけき河のみなぎり流るるが如し。しばしもとどこほらず、直ちにおこなひ行くものなり。されば、眞俗につけて、必ずはたし遂げむと思はむことは、機嫌をいふべからず。とかくのもよひなく、足をふみとどむまじきなり。
春暮れてのち夏になり、夏はてて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気をもよほし、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちてめぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして、落つるなり。むかふる気、下にまうけたる故に、待ちつるついで甚だはやし。生老病死の移り来ること、またこれに過ぎたり。四季なほ定まれるについであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来らず。かねてうしろに迫れり。人皆死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覺えずして来る。沖のひがた遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
翻訳
世間の決め事に則って生きる人は、何よりまず時機というものに敏感でなくては。順番を間違えれば、人の耳にも届かず、心にも添わず、物事は成就しない。時宜にかなっているかどうかをしっかり見定めなくてはならない。ただ、病を得てしまうこと、子を産むこと、死ぬこと、この三つに限っては時機云々の埒外であり、たとえタイミングが悪かったとしてもやむにやまれない。仏の教えである四相、誕生、存続、変転、滅亡、この真髄は、荒れ狂う大河にも似て、いっ時も滞ることなく躊躇なしに実行されてゆく。よって、仏の道に入るにせよ世渡りにせよ、なにがなんでも成し遂げたいと切望することに関しては、時機にとらわれるべきではない。もたもたして、足踏みするなぞ論外である。
春が暮れてのち夏になり、夏がきっちり終わって秋になるわけではない。春は夏の気を孕み、夏にはすでに秋の香りが漂っている、秋は秋のまま寒くはなるが、それでも十月には小春日もあり、草も青々として梅が蕾を結ぶ。落葉にしても、葉が散ってから芽吹きが見られるのではない。内より芽生え押し上げてくる力に耐えきれず、葉は落ちるのだ。変化を迎える気は、常に内側にあり、待ったなしなのである。生老病死の移り変わりの速度は、季節の比ではない。四季には一応の順番があるが、死期は順不同、いつやってくるか判らない。死が前に待ち受けていると思っている人がほとんどだが、思い違いも甚だしい、死は背後にぴたりとくっついているのだ。誰しもいずれ死ぬとは知りながら、まだまだ先だろうと高をくくって油断していると、思いがけず訪れる。干潟が遥か先まで続いていると見えながら、潮は足下から満ちてくるのによく似ている。
註釈
「徒然草」の核とも云うべき段。
文章に張りがあり熱量が高く、喩えの妙と相まって読む者の胸を揺さぶります。
だらけた時に読み返しましょう。
追記
「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生(ヴィ)のやうな花火の事を。」(芥川龍之介「舞踏会」)