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源氏物語 現代語訳 若紫その7

 藤壺の宮はご病気で、ご実家へお下がりになられました。お上がことのほかご心配遊ばされ悲嘆に暮れておられるご様子も、涙を誘うほどおいたわしいのですが、源氏の君は、やはりここはまたとない好機かも知れぬと心はひたすらに宮を追い求め、どちらの女人にもお逢いになりません。宮中におかれましてもご実家にいらっしゃっても、昼間はただ呆然と物思いに耽られ、夜になればなったで宮付きの女房王命婦を責め立ててお取り次ぎを迫られます。そのうちいかなる手管を弄されたのか、強行突破同然に直にお逢いした際にも到底現実とは思えないほど苦しみは増すばかりでございます。

 方や藤壺の宮も思い出すだに浅ましいあの夜の出来事が、痛恨の極み常々悩みの種ですから、金輪際これきりにしようと固く心に決めたにもかかわらず、あまりに辛く、思い詰め悩み抜かれておられながらも、お逢いしたらしたで慕わしくしお淑やかで、とは云っても決して心安くはなく、控え目で慎ましやかなそのお振る舞いはやはり唯一無二のお方だと、なぜここだけはいただけないといったようなところがおありにならないのだろうと、源氏の君は今更ながらその御身を苛まれます。どれほど言葉を尽くそうと語り尽くせるはずもございません、暗く越えがたい闇部の山で一夜を明かしたいと思われますが、今宵は生憎の夏の短夜、こんなことならいっそお逢いしない方がよかったとまで後悔されてしまわれるのでした。

今宵こうしてお逢いしてもまたお逢い出来る夜は滅多にありません、ならばいっそ夢の中に紛れ込んで消えてしまいたいのです

源氏の君がそう咽び泣かれますのがさすがにおいたわしいので、

世の人は語り草として伝えるのでしょうか、たとえ夢となしても比べるものとてないこの身の辛さを

と思い悩まれ心も千々に乱れておられる藤壺の宮のお姿は、まったくもってごもっともであり、あまりに畏れ多い事と云えましょう。そこへ命婦の君が御直衣などを掻き集めてお持ちいたしました。

 御自邸に戻られ、泣きながら眠りに就かれますとそのまま起き上がられることなく暮らしておいでです。お便りをお遣わしになられても、いつものようにご覧になられないとのことですので、お分かりになられてはいてもたまらなくお苦しく、宮中にもご出仕なさらずに二三日引き籠っておられますと、またぞろお上が何かあったのかといたくご心配遊ばされます、そのことが何より恐ろしくてたまらない源氏の君でありました。

 藤壺の宮もまた罪深い我が身を憂い、ご病気も更に重くなられ、お上より一日も早く参内するようにと使者が参りますが、到底そんな気にはなれません。このところいつにも増して非道く気分が優れないと思われてつらつらとお考えになられますと、思い当たられることがございます、最悪の成り行きにこの先どうなるのであろうと狼狽え呆然とされておいでです。暑いうちは起き上がることさえお出来になれません。そのうち三月ともなり、誰の目にもはっきりと見てとれるようになりまして、皆々目にしては不審がります、なんとあさましい因果でありましょう。周りの者は思いもよらぬことですので、むしろこうなるまでお上にご報告申し上げなかったことに驚き不可解に思っております。宮のお心の内だけには、はっきりとした確証がおありでした。ご入浴の際に、日頃からお側近くにお仕えし、宮のお身体のことでしたら隈なく存じあげております乳母子の弁、命婦なども訝みはいたしますが、お互い口にすべきことではないとわきまえておりますので、どうあっても避けられぬ宿命であったと命婦は唖然とするばかりです。宮中へは、物の怪に阻まれ御懐妊の兆候を見過ごしてしまったとでも申し上げたのでしょうか。誰一人としてそれを疑う者はおりませんでした。お上がことのほかお喜びになられ、ひっきりなしにお使いがまいりますのも、おののかれるばかりで、何一つお考えになれない有り様でございます。

 その頃中将源氏の君も、禍々しい奇怪な夢をご覧になられ、夢占い師をお召しにになりお尋ねになられましたところ、分不相応な思いがけないことを告げました。「その夢には思うに任せられぬ時期ありと出ております、慎まれねばならぬこともあるようでございます。」と云いますので、気に障られ、「これは私の見た夢ではないのだ。さる方の夢の話をしただけのこと。この夢が正夢となるまで決して口外せぬように。」と釘を刺されながら、ご心中穏やかでなくどういうことなのだろうかと考え続けておられましたところ、宮御懐妊の噂を耳にされ、ひょっとしてこの事であったかと合点されて、いてもたってもいられぬほどお逢いしたくてたまらなくなられ言葉を尽くして乞い願われますが、命婦も思うだにぞっとして事態がますます混迷を極めてきたこともあり、この期に及んではなんら手の打ちようがありません。かつてはわずか一行ながらもお返事がありましたけれど、今となってはそれすら途絶えてしまいました。

 七月になり、宮がようやく参内されました。久方ぶりのことでお上のお喜び様たるや尋常でなく、ご寵愛のほどもいつにも増して細やかであられます。少しふっくらなさったお腹と、お悩みの末にお窶れになられたお顔との釣り合いが、まことに絶世の美しさです。いつものように終日宮の許にいらっしゃって、折も折管弦の遊びに絶好の季節ですので、源氏の君もしょっちゅうお召しになられ、琴、笛などあれこれと奏でさせます。死に物狂いでお気持ちを隠されておいでですが、耐えきれぬ想いがつい零れてしまう折々には、さしもの宮も数々の想い出が走馬灯のように心を過られてしまうのでした。

 時にあの山寺の人はと申しますとすっかりよくなられ都に戻ってこられました。源氏の君は京の御宅をお尋ねになり、時折近況なぞを知らせて差し上げます。相変わらずのお返事なのは致し方いこと、それより何よりなにせここ数ヶ月はかつてないほど藤壺の宮への想いが募り、他の事は一切考えられないまま時は虚しく過ぎてゆきました。

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