源氏物語 現代語訳 葵その9
二条院では隅々まで磨きあげ、男も女もお待ち申し上げておりました。上席の女房たちが一人残らず参上し、我がちにめかしこみ化粧に余念がない様子を見るにつけましても、左大臣邸の皆々が軒並みうなだれておりました姿が思い出され、哀れを誘いました。喪服をお着替えになり、西の対にお渡りになられます。冬仕様のお部屋のしつらえも手抜かりなく目にも鮮やかで、美人の若い女房たち、女童のいでたちもきちんと整っており、それらはすべて少納言の采配によるものですので、たいしたものだと感心なさっておいでです。
姫君はそれはそれは美しく着飾っておられます。「しばらく見しない間に、ずいぶんと大人っぽくなられましたね。」と仰って、短い几帳を引き上げられお顔を拝見されますと、横顔で微笑んでおられるお姿は、一点の曇りもなく完璧です。灯りに映し出された横顔、お髪のご様子等々、実にあの恋情募って余りあるお方に似てきたなぁと目を細められ、嬉しくて仕方がありません。ぐっとお側に寄られ、逢えなかった間の心許なさなどをお話になり、「ここ最近の出来事を何もかもお話したいところではありますが、若干不吉な気もいたしますので、一端自分の部屋に戻って出直してまいりましょう。今となってはもう何処にも行きませんいつも一緒です、一寸鬱陶しいと思われるかもしれませんよ。」そんな軽口まで飛び出してしまわれますのを、少納言は嬉しがりつつも、一方ではどこかしら危険な香りも感じ取っております。こっそり通われておられる高貴な方々が大勢いらっしゃるから、また新たに面倒くさいご関係の方が現れるのではないかとつい疑ってしまうのも、憎らしいばかりの気の廻しようと云えましょう。
東の対の自室にお戻りになられ、中将の君という女房にお足を軽く揉ませられた後、眠りに就かれました。翌朝、左大臣邸の若君にお便りを遣わされます。ほどなく届いた傷ましい御返事を読まれましても、悲しみは尽きることがありません。もの憂い日々が続きぼんやりとお過ごしになられることが多いのですが、さりとてお気軽な夜歩きも疎ましくてなさる気になれません。姫君があらゆる事を理想通りに身につけられ、まことに麗しく成長されたのをご覧になり、今や似つかわしくないとは云えぬお年頃になられたと見なされて、それとなく一線を越えようと時折試みられますが、当のご本人はまったく意に介しておられないようです。
暇のつれづれに、ただ西の対で碁を打たれたり、偏つぎなどをなさったりしつつ、日々を送られておいでの中、姫君が聡明で愛嬌があり、些細な遊びでも生まれ持っての品のよさを示されたりなさいますので、契ることを度外視していたここ何年かはただ可愛さばかりに目がいっていましたけれど、堪えきれなくなった今となっては、まことに不憫ながら、果たしてそのあとどうなりましたでしょうか……。周囲の者達がそれと勘づく間柄でもございませんが、男君がいたく早起きされたにもかかわらず、女君が一向に起きてこられない朝がございました。女房達が「なぜいつまでも起きてこられないのでしょう。どこかお加減でも悪いのかしら……。」と拝見しながら気を揉んでおりますと、源氏の君は東の対に戻られる際に、硯箱を几帳の中にそっと差し入れておられました。女房達がいなくなって、ようやく頭をもたげられた姫君は、結び文が枕元にあるのを目に留められました。何の気なしに開いてご覧になりますと、
深い考えもなしに隔ててしまっていました、重ねた夜毎ひとつ衣にくるまっていましたのに
とさらりといたずらっぽく書かれているようです。こんな不埒なお心をお持ちなどとは、夢更思っておられませんでしたので、なんでまたこうもふしだらな御性根のお方を、無邪気に頼りにしたりしていたのかと、我ながら浅ましく思われておられます。
お昼頃に再び西の対に来られた源氏の君は、「お加減がよくなさそうにしてらっしゃるのはどこか具合でも悪いのすか。今日は碁も打たれず淋しいじゃありませんか。」そう仰って覗かれますと、姫君はいっそう強情に御衣も被って寝ておられます。女房達が下がって控えましたので、側近くに寄られ、「どうしてこんな無下な応対をなさるのです。思ってもみない鬱陶しいことでもあったのでしょうか。周りも不審に思いますよ。」と衾を退けられますと、汗びっしょりで押し当てられた額髪も非道く濡れていらっしゃいます。「なんたることでしょう。これは大事だ。」とあれこれ取り繕われますが、心底我慢ならないのでしょう、ひと言も御返事をなさいません。「わかりました。もうお目にかかるのは諦めます。ああ恥ずかしい。」などと気分を害された風で、硯箱を開けてご覧になりますが、お返しの文もなく、「やはりまだ子供なんだなぁ」と微笑ましくなられ、一日中御几帳の内に入られてご機嫌を取られますものの、なかなかお怒りが溶けないあたりがまたなんとも愛しく感じられておられるようです。