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【徒然草 現代語訳】第百六十九段

神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

何事の式といふことは、後嵯峨の御代まではいはざりけるを、近きほどよりいふ詞なりと、人の申し侍りしに、建礼門院の右京大夫、後鳥羽院の御位ののち、また内裏住したることをいふに、世のしきもかはりたることはなきにもと書きたり。

翻訳

一定の作法という意味合いの「○○式」という云い廻しに用いる「式」という言葉は、後嵯峨帝の御代までは遣われなかった言葉で、つい最近になって用いられるようになったのだ、とさる方が申されたが、建礼門院右京大夫が、後鳥羽院が即位なされた折に再び出仕を命じられた際のことを、世の決まり事も取り立てて変わってはいないのだけれど……、と書いている。

註釈

○後嵯峨の御代
第88代後嵯峨天皇。在位1242年~1246年。

○建礼門院の右京大夫
けんれいもんいんのうきょうのだいぶ。建礼門院(清盛の娘徳子)に仕えた女房であり、平資盛との仲で名高い歌人。

○後鳥羽院の御位
後鳥羽天皇即位は1183年。御位の読みは「おおんくらい」。

○内裏住
読みは「うちずみ」。


お得意の間違い(あら)探しの段です。
が、当の建礼門院右京大夫集によれば、「世の「しき」もかはりたることはなきにも」ではなく、「世の「けしき」もかはりたることはなきにも」なんですね。
チクリと刺したつもりが、自らの首をつい絞めちゃった、といったところでしょう。
まぁご愛敬の段とゆーことで。

追記

「平家物語」のラストシーンを檀ノ浦の合戦と思っている人が多いようですが、建礼門院徳子(読みは「とくこ」ではなくあくまでも「とくし」です)の極楽往生の場面なんですよ。そういう観点からすれば、「平家物語」は軍記物語というよりもダンテの「神曲」に近く、叙事詩と呼ぶのが相応しいと思います。奇しくも「平家物語」も「神曲」も14世紀初頭の成立。世界が叙事詩を欲していた時代だったのかもしれません。ちなみに私は、三島由紀夫の四部作最終巻「天人五衰」のエピローグは、「平家物語」へのオマージュではないかと踏んでいます。

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