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源氏物語 現代語訳 紅葉賀その3

 源氏の君が宮中より退がられ、左大臣邸にいらっしゃいますと、いつものように北の方がきちんと居ずまいを正されいかにもよそいそしくなさっておられます、打ち解けた雰囲気が微塵も感じられないのが気詰まりで、「どうかせめて今年からでも、ほんの少しでよろしいので夫婦らしい素振りを見せていただければ嬉しいんですけどねぇ……。」などと仰るのですが、どこかからわざわざ人をお迎えになりお世話しておられるとの噂をお聞きになられてからは、勢いそのお方を正室と定められたのであろうとそのことばかりお考えになり、いっそう距離を置かれ冷淡になさっておられるのでしょう。それでも敢えて知らない振りをなさって、源氏の君が砕けたご様子の折にはそう気丈にもなりきれず、一応はそれなりにお返事をなさるあたりは、やはり並の女たちとは違うようです。

 四歳ほど年上でいらっしゃいますから、威厳も品位も備わって、女盛りの輝きを放っておられます。一体自分はこの方のどこが不満と云うのだろう、そもそもこちらの不埒な浮気心のためにここまで毛嫌いされてしまうのだ、と今更ながら腑に落ちておられます。同じ大臣とは云うものの、世評も抜きん出て高い左大臣の、しかも姫宮との間に一人娘としてお生まれになった矜持がことのほかお強く、ほんのわずかでも蔑ろにされるのをお許しにならないものですから、源氏の君がそこまでするのもどうかと思われておいでなのとあいまって溝が出来てしまわれているのでしょう。

 義父上の左大臣は左大臣で、源氏の君の不誠実なお振る舞いに心を痛められながらも、いざ対面なさると恨み辛みもどこへやらうやうやしくかつ甲斐甲斐しくお世話申し上げてしまいます。翌朝、源氏の君がご出立なさる際にお顔を覗かされ、御装束をお召しになられております際に名高い帯を手づからお持ちになり、御衣の後ろを繕われるなど、御沓まで揃えんばかりにかしずかれます。涙ぐましいばかりでございます。「こちらの帯は、内宴などもありますから、その時のためにとっておきましょう。」と仰いますと、「その折にはもっといいものがございます。こちらはちょっと珍しいものですから。」と強くお勧めいたしまして締めて差し上げました。こうして何事につけ気を配られお世話申し上げることが、ほとんど生き甲斐であるかのように思われおられます、万が一にもこのようなお方を家に迎え入れた日には、こうすることに勝る悦びがあろうかとまで思われておいでのようにお見受けいたします。

 御年賀の拝礼と申しましても、源氏の君が赴かれる先はそうあちこちではございません、宮中、東宮、一の上皇様くらいのもので、最後の最後に藤壺の三条宮に向かわれました。「まぁ今日はまた格別に麗しくお見受けいたしますわ。年を追うごとにいったいどこまでお美しくなられるのやら……、恐ろしいくらい。」と一同口を揃えて褒めそやすのを耳にされ、藤壺宮は几帳の隙間からそっとご覧になり、さまざまな想いが入り乱れてしまわれるのでした。

 御出産の慶事も、ご予定の十二月を過ぎましてもご兆候がなく、それでも月内にはと三条宮の人たちも心待ちにいたしており、お上もすっかりそのお積もりでいらっしゃいましたが、音沙汰ないまま正月も過ぎてしまいました。ひょっとして物の怪に憑りつかれたのでは……、と巷で噂し騒いでおりますので、藤壺宮はいたく傷つかれ、もしかしたら今度のことで自分はこの世を去ることになるかもしれないとまで嘆かれ、日々苦しまれ悩まれておいでです。源氏の中将は、いろいろと思い当たる節がおありで、加持祈祷をそれとは明かさずあちこちのお寺で執り行わせます。この世の無常を思われるにつけ、このままでは藤壺宮にもしもの事があるかもしれないと、ありとあらゆることを一絡げにされて悲嘆に暮れておいででしたが、二月十日過ぎに、男御子が無事お生まれになりましたので、憂いも晴れて宮中でも三条宮でも胸を撫でおろされて慶ばれておいでです。

 皇子が生まれた以上長く生きねばと思う心は重いのですが、弘徽殿の女御などが呪わしげに毒づいておられると耳にされるにつけ、ここで自分があえなく死んでしまったらさぞ物笑いの種になろうとお気持ちを強く持ち直され、少しづつですがご快復に向かわれました。

 お上は一刻も早く皇子をご覧になりたいと一途にやきもきされておられます。源氏の君も秘めた思いながらいてもたってもいられず、三条宮に人気のない隙を縫って、「お上がたいそう逢いたがっておられます。まずは私が一目拝見して詳細をご報告いたしましょう。」と仰いますが、「見苦しい時期でございますから……。」とお目にかけようとなさらないのも当然と云えば当然です。何を隠そう、仰天するほど珍しくも源氏の君に瓜二つで、誰が目にも見間違えるはずもないのでした。藤壺宮は良心の呵責に耐えかね、この皇子を誰かが見たらきっと見抜いてしまう、そうなればあの忌まわしい過ちを咎め立てるのは必定、とるに足りない些細なことでも粗捜しをする世間なのだから、事が露見すればいかなる汚名が流布されるであろうと悩み抜かれ、ひたすら我が身を呪われるのでした。

 偶然命婦に逢われた源氏の君が、想いの丈を切実にお話なさるのですが、叶うはずもございません。せめて若宮にだけでもと懇願されますと、「なぜそんなご無理を申されます。そのうち自然とお目にかかれるはずですのに。」そう申し上げつつも、命婦の心中も決して穏やかではありません。なんと申しましても他聞を憚る重大事ですから、ありのままを口にすることもお出来になれません、「いつになれば直にお話出来るのだろう……。」そう呟かれては涙をお流しになられるのがまことにおいたわしい限りでございます。

「いったいいかなる前世の契りなのだろう、この世でここまで隔てられるとはこんなことがあるなんて。」と仰います。命婦は命婦で藤壺宮の懊悩をつぶさに拝見いたしておりますので、源氏の君のお言葉を無下に出来るはずもありません。
「皇子のお顔をご覧になる宮もお悩みになりご覧になれない貴方様もまたお嘆きになられる、これが世に云う子を想う親心の闇というものでしょうか
なんと安穏に縁遠いお二人でありましょう。」と消え入るような声で申し上げます。

 こんな風に源氏の君はいつもしおしおと引き上げてゆかれるのですが、藤壺宮は口さがない周囲にうんざりされ、命婦にですらかつてのように気安くお心を開かれることもなくなられました。傍目にはつとめて穏やかに接しておられますものの、ご気分を害されることもままおありのようで、命婦はいたたまれず、同時に不本意とも感じているようです。

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