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【徒然草 現代語訳】第百七十五段

神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

世には心えぬ事の多きなり。ともあるごとにはまづ酒をすすめて、しひ飲ませたるを興とすること、如何なるゆゑとも心えず。飲む人の顔いと堪へがたげに眉をひそめ、人めをはかりてすてむとし、逃げむとするを、とらへてひきとどめて、すずろに飲ませつれば、うるはしき人も忽に狂人となりてをこがましく、息災なる人も目の前に大事の病者となりて、前後も知らず倒れ臥す。祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。あくる日まで頭いたく、物食はず、によびふし、生をへだてたるやうにして昨日のこと覚えず、おほやけわたくしの大事をかきて、わずらひとなる。人をしてかかる目を見すること、慈悲もなく、禮儀にもそむけり。かくからき目にあひたらむ人、ねたく口をしと思はざらむや。人の國にかかるならひあなりと、これらになき人事にて傳へ聞きたらむは、あやしく不思議におぼえぬべし。

人の上にて見るだに心うし。思ひ入りたるさまに心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひののしり、詞おほく、烏帽子ゆがみ、紐はづし、はぎたかくかかげて、用意なき氣色、日來の人とも覺えず。女は、額髪はれらかにかきやり、まばゆからず顔うちささげてうち笑ひ、盃持てる手にとりつき、よからぬ人は、さかな取りて口にさしあて、みずからもくひたる、さまあし。聲の限り出して、各うたひ舞ひ、年老いたる法師めし出されて、黒くきたなき身を肩ぬぎて、目もあてられずすぢりたるを、興じ見る人さへうとましくにくし。あるはまた、我身いみじきことどもかたはらいたくいひきかせ、あるは醉泣きし、下ざまの人は、のりあひいさかひて、あさましくおそろし。恥ぢがましく心うきことのみありて、はては許さぬ物どもおしとりて、縁より落ち、馬車より落ちてあやまちしつ。物にも乗らぬきはは、大路をよろぼひゆきて、ついひぢ、門の下などにむきて、えもいはぬことどもしちらし、年老い袈裟かけたる法師の、小わらはの肩をおさへて聞えぬことどもいひつつよろめきたる、いとかはゆし。

かかることをしても、この世も後の世も益有るべきわざならば、いかがはせむ、この世にはあやまち多く、財を失ひ、病をまうく。百薬の長とはいへど、萬の病は酒よりこそおこれ。憂忘るといへど、醉ひたる人ぞ過ぎにしうさをも思ひ出でて泣くめる。後の世は人の知慧を失ひ、善根をやくこと火のごとくして、悪をまし、萬の戒を破りて地獄に墜つべし。「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」とこそ、佛は説き給ふなれ。

かくうとましと思ふものなれど、おのづから捨てがたき折もあるべし。月の夜、雪のあした、花の本にても、心長閑に物語りして盃出したる、萬の興をそふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入りきて、とりおこなひたるも心なぐさむ。なれなれしからぬあたりの御簾の中より、御くだもの、みきなど、よきやうなる氣はひしてさし出されたる、いとよし。冬、せばき所にて、火にて物いりなどして、隔てなきどちさしむかひて多く飲みたる、いとをかし。旅のかり屋、野山などにて、「御さかな何がな」などいひて、芝の上にて飲みたるもをかし。いたういたむ人の、しひられて少し飲みたるもいとよし。よき人の、とりわきて、「今ひとつ、上すくなし」など宣はせたるもうれし。ちかづきまほしき人の、上戸にて、ひしひしとなれぬる、またうれし。

さはいへど、上戸はをかしく罪ゆるさるるものなり。醉ひ草臥れて朝寝したる所を、あるじのひきあけたるに、まどひて、ほれたるかほながら、ほそきもとどりさし出し、物も着あへずいだきもち、ひきしろひて逃ぐるかいとりすがたのうしろで、毛おひたる細脛のほど、をかしくつきづきし。

翻訳

世の中にはどうも納得ゆかないことが多過ぎる。折ある毎にかこつけて酒をすすめ無理に飲ませては盛り上がる、あれはいったいなんなのか、意味不明である。飲ませられる人は渋々観念したかのように眉をひそめ、隙を見計らって酒を捨てようとし、あわよくば逃げようとさえするのを、ひっ捕まえて引き留める、むやみやたらに飲ませてしまえば、日頃折り目正しい人でさえ、たちまち狂っておバカな振る舞いをしでかし、いたって健康な者も重篤な患者と見紛うばかりになり倒れて気絶する。祝い事の席でそんなことになったら皆呆れ返るだろう。その上、翌日まで頭はガンガンし、何ひとつ口にする気になれず、ウンウン呻きながらただ横たわるばかり、大はしゃぎした昨日とはうってかわった様子で、記憶が吹っ飛んでしまっている。公私にわたっての重要事項も疎かになってあちこちに支障をきたす。人をこんな非道い目に遭わせるのは、はっきり云って人倫に背き、礼儀を失している。かような災難に遭った人が、遭わせた者を恨み、後悔に苛まれないはずがない。これが自国でなく異国の風習として伝え聞いたなら、さぞや異様なことと受けとめるに違いない。

酔っぱらいの醜態というものは、無関係な人であっても見るに耐えない不快なもの。常々思慮があり人として深み嗜みのある人と見ていた人も、分別をなくして大笑いしながらふざけ散らし、ひたすら饒舌になり、烏帽子は歪むわ紐は外れるわ、裾をめくってふくらはぎを剥き出しにし、その不様さたるやとうていいつもの当人とはとうてい思えない。酔っぱらいの女がまたタチが悪い、あろうことか前髪をすっぱり掻き揚げ、恥じらいもあらばこそ、仰向けた顔でゲラゲラと笑い、しなだれかかって盃を持った手を握ったりする者さえいる、中には酒の肴を男の口に押し当ててはそれを喰らう下品な女までいる始末、あさましさの極みである。あらん限りの声をはりあげて歌い踊り、そのうち年寄りの坊主が召し出されて、薄汚い肌もおかまいなしに半裸になり、目も当てられないていたらくで体をくねらせ踊り狂う、こうなってくると、それを見て大ウケしている連中までもが鬱陶しく憎しみすら湧いてくる。かと思えば、聞きたくもない自慢話を垂れ流す者、酔っ払って泣きじゃくる者、下々の輩ときたら悪口雑言の応酬で、喧嘩沙汰にまで及ぶこともままある、呆然を通り越して恐怖さえ感じてしまう。人聞きが悪く、不愉快になることだらけで、挙げ句の果てには「これはあげない!」という物まで強奪したり、縁から転げ落ち、馬や車からも墜落し、大怪我をする羽目になる。馬や車に縁のない連中は、大路をよろよろと徘徊して、土塀や門の下で云うも憚られる狼藉に及ぶ、一方で袈裟を掛けた爺の坊さんが、年端もゆかない少年の肩に寄りかかってはぶつぶつとわけのわからないことを呟きよろめいている姿は、見られたもんじゃない。

たとえここまでの醜態痴態を曝したところで、現世なり来世なりでなんらかの役に立つというなら話は別だろう。だが残念なことに、話はまったく逆なのである、この世では酒による失態は後を絶たず、財産を失い、病魔を招くのだ。百薬の長とは云うものの、病のもとをただせばおおむね酒が原因だ。酒を飲めば懸念も吹っ飛び憂さも晴れると云うが、酔っぱらいを観察してみれば、過去の過ちを思い出しては悔い涙する者もいるようだ。更に来世においては、人としての智恵を失い、せっかく積み重ねた善行を瞬く間に焼き尽くすことさながら火の如し、悪行のみが増幅し、あらゆる戒律を破る結果となり、間違いなく地獄に堕ちるだろう。「酒を手に取って人に飲ませた者は、この先五百回生まれ変わる間ずっと手のない者として生きる」とお釈迦様は説かれておられるという。

とまぁこんなふうに酒なんてものは百害あって一利なしのように思えるが、捨てがたいところもまたなきにしもあらず。月の見事な宵、雪が降った翌朝、桜の木蔭にいても、人は心寧まり、のんびり話をしながら自然と盃を差し出すもの、酒は興を添える小道具でもある。

暇を持て余している日に、思いがけず友人がふらっとやって来て、当然のように一献傾けるのもいいもんだ。近付き難い高貴な方が、御簾の内より果物やお酒を、そっと品よく差し出されるのは格別の趣がある。冬に、手狭なところで火を燠しつまみになりそうなものを煎りつつ、気の置けないともがらと差し向かいで大いにきこしめすのも、まったく悪くない。旅の宿、野原などで、これで肴があるといいんだけどな、とか云いながら芝生の上で一杯やるのも愉快なものだ。方や、酒を固辞する人が、強く勧められちょこっと口をつけるのも、見ていて微笑ましい。高位の方が、「ささもう一杯いかが。全然減ってないじゃありませんか」、などと戯れを仰られるのも、晴れがましい。日頃からお近づきになりたいと願っている方が、たまたまそうとうにいける口で、酒を飲むうちにすっかり打ち解けられるのもなんとも嬉しい。

何はともあれ、上戸というものは愉快で罪がない。すっかり酔っぱらい、朝寝坊しているところへ、主人が戸を引き開けるとまごついてよろめきながら、寝ぼけ眼で細い髻を突きだし、着の身着のままで着物を抱え、足を引き摺り引き摺り逃げるように去ってゆく、裾をひょいと摘まんだ後ろ姿、もじゃもじゃ生えた毛脛が見え隠れしているのも、つい笑みがこぼれるし、いかにも酒飲みらしい心和む風体である。

註釈




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