源氏物語 現代語訳 花宴その2
夜もすっかり更けてから宴はお開きとなりました。上達部達がぞろぞろと退出し、后も東宮もお帰りになられ、ひっそり閑とした宴の跡に、月が煌々と天空にある情景を、少々酔いの廻られた源氏の君が名残惜しく思われて、お上の近習たちが寝静まったのに乗じ、こんな思いがけない晩にもしかしたら好機があるやもしれぬと藤壺周辺を熱い想いを抱えながらさ迷い歩かれておられましたが、取り次ぎを頼める女房の局の戸口は閉ざされており、出るのは溜め息ばかり、それでもどうしても諦め切れず、藤壺の左隣にあります弘徽殿の細殿まで辿り着かれますと、あにはからんや第三間の戸口が開いているではありませんか。女御は宴終了の後お上のお局に参上なさいましたので、人の姿もほとんどありません。さらに奥の枢戸まで開いており、まったく人の気配がいたしません。
人はこんな風にして道を踏み外すんだなと自嘲気味に、そぉっと細殿に登り中を覗かれます。お付きの者たちは皆眠っているようです。そこに、いたく若々しい美声で、それ相応の身分と思しき女が、「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながらこちらへ歩いてくるではありませんか。たちまち浮かれ気分になられた源氏の君は、嬉しさ余って袖を掴まえます。女は恐怖にわななき、「気色悪いじゃないの。貴方、誰。」と仰るのですが、「まぁまぁそう邪険にするもんじゃありません。」と申されて、
深夜の風情を愛でる心をお持ちの貴女なら、入り方の月に誘われてさ迷い出た私とは切っても切れぬご縁がありますね
そっと抱き降ろしてすかさず枢戸を締められました。なすすべもなくただ呆気にとられている様子が、実に好感が持て可愛らしいではありませんか。がたがたと身を震わせ、「こ、ここに人がおります。」と口走られますが、「私は何をしても許されるんです、ですから人を呼んだところで無駄ですよ。まずはお静かに。」そう仰るお声で源氏の君とようやく分かって、ほっと胸を撫で下ろします。
困ったなぁとは思いますが、それでも野暮で融通の利かない女とは思われたくありません。源氏の君はいつになくきこしめしておられるのでしょう、このままにするのは勿体ない気がしております、女も若くしなやかで、そうそう無碍にも扱えぬようです。なかなか可愛いところがあるじゃないかとご覧になられているうちに、間もなく夜明けですから気が急いておられます。まして女の心は千々に乱れているようです。「やはりお名前を教えてくださいませんか。連絡の取りようがありませんから。それともよもやこれっきりだなんて思っていらっしゃらないでしょうね。」そう仰いますと、
不幸な私がこのまま名乗らずこの世からいなくなっても、貴方は草の根を分けてまで尋ねてはくださらないんですね
と呟く姿が、実に色気がありなまめかしいではありませんか。「仰る通りですね。言葉を間違えました。」と申されて、
露さながらの貴女の宿を分け行って探しているうちに、小笹が原に噂の風が吹いたら面倒ですから
貴女が煩わしいと思われないなら、私が隠しだてするはずもありません。ひょっとして騙してお誘いになっておられるんですか、と云い切らぬうちに、人々が起きてき、お上のお局に上がられていた弘徽殿女御をお迎えにうかがうべくあたふたと行き交っている様子が感じられますので、時間切れとばかりにお互いの扇子を後の証しとして交換し、その場を立ち去られました。