「ありがとう」と「ごめんね」が言える生き方
アンタなんか産むんじゃなかった・・・
アンタがいるから、離婚できない。
結婚なんてするんじゃなかった・・・と
何度となく母親に言われた子ども。
それを言った親は、その時を必死に生きていて
ふとした「グチ」の一つだったのかもしれないが
言われた子どもにとっては、
自分の存在を実の母親に否定されたことは
忘れようにも忘れられない。
そんなことを心に抱えていると
母の日や父の日に「ありがとう」を強制されることに違和感を感じたり
「生んでくれたことに感謝しよう」
などという社会の幸せに満ちた呼びかけを聞くと
耳をふさぎたくなったり
感謝は言われてするものではなく
心から沸き起こるものじゃないのだろうか・・・?と疑問を持つこともあるだろう。
けれども、そんな気持ちは決して出せない雰囲気が社会には蔓延している。
病院でも警察でも、高齢者が職員や家族に罵声や奇声を上げ
一方では、「認知症サポーター」の講座を小学生にまで受けさせてその対応を迫っている近年・・・
「あの親みたいになるのかって思うとゾッとするんです。
ゾッとしつつも、親が死んだ年に自分が近づくと、
自分も死ぬんじゃないかって、何とも言えない不安に全身が覆われる感じがするんですよ・・・」
じゃ、その真っ黒くて冷たい恐怖から解放されるためにも
どうすればいいか、考えてみよう・・・ということで、
「尊敬できる高齢者」
「あんな風に死を迎えたい」
「また、お見舞いに行こうとか、何かしてあげたくなる高齢者」ってどんな人・・・?と投げかけてみたが
これがなかなか出てこない。
・ピンピンコロリだった人・・・
・衣食住、何でも自分でできた人・・・
・いつもユーモアのある話をしていた人・・・
bubuには、二つの印象的な命の思い出がある。
一つは、98歳まで生きた印象的な女性。
その人はいつもbubuにも「ありがとね・・・」と言っていたが、
ナースステーションでは「ミセスありがとう」というあだ名がついていた。
往診の度に「ありがとう」という感謝を伝えていたのが由来らしい。
ヘルパーさんにも
「トイレの介助はみんな恥ずかしがる人が多いのに
それすらも、お世話になります・・・って手を合わせられて
こっちが恐縮しちゃいました」と言われた。
「すみません」ではなく「ありがとう」という言葉を使う人だった。
自分が間違っていた時は即座に
「悪かった」とか「ごめんね、気がつかんかった」
と言える人だったし
若いころの自分の至らなさに対して
「しかたなかった」ではなく
「しょうがないとか、知らなかったなんて一番よくないことだと思う。本当に申し訳なかったと思っている」
と言える人だった。
最後のほうは、短期記憶が薄れていて
大好きな果物は何度食べても「初めての体験」として
感動していた。
彼女の寝息に
本から顔を挙げ、安らかな顔を見るときはいつも
「どんな夢を見ているのだろう」と
微笑ましく、想像したこともある。
いつまでも一緒にいたいと思う人だったし
いっしょにいるだけで癒される存在だった。
「ピカ(原爆)で自分だけ生き残って申し訳ない」
「うまく子どもを育てられずに申し訳ない」
「人生は感謝と反省の連続」
そんな言葉が自然と言える人だった。
相手を責めず、常に自分がどんな行動をとればよかったかを
死ぬ間際まで考えていた。
もう一つの命は、16歳の日本犬。
彼女は、耳が聞こえない、目が見えにくい、
固いものが食べられない、
尻もちをつくほど足腰が弱ってきたなど
日々、「できないこと」が増えているが
全く落ち込む気配はない。
それどころか、bubuが落ち込んでいると
どうしたの?とばかりにすり寄って
ペタンと伏せをして顔を一瞬見ると
そのまま横になって、いつまでもそばにいてくれる。
自分の状態を受け入れて
嘆き悲しむことも、もがくこともなく
日々、散歩やご飯、飼い主との遊びなど
小さな楽しみを味わうようにゆったりと生きている姿を見ると、
「一日でも長く、痛いところがない状態で生きてほしい」と
願ってしまう。
そんな美しい年の重ね方をするには
日頃からどんなことを心がけていればいいのだろう・・・?
まだまだ、「生ききる」という修行の日々は続く・・・