初稿

 ………今日は。清々しい青空が広がって、日差しも心地好いですね。アラ、そんな怪訝な顔をなさらないで。今しがた私と目が合いましたでしょう?だからアイサツをしたのよ。お名前は存じ上げませんし…身分も生まれも…。そんな事はどうだっていいのです。これも何かの縁です。暇を持て余しているのであれば、一寸だけ私の話を聞いていきませんか。そう嫌な顔をされずに……そうですね、私の話を聞いてくれた暁には光り輝く宝石を差し上げましょう。硝子細工のような贋物ではありませんわ。正真正銘の宝石です。アラ、アラ……私の話が信じられないとでも云うのかしら…。全部見せてしまっては石の魅力に目が眩んでしまいますから…一寸だけ、お見せしたら信じてくれるかしら。私が持っている宝石は本物で、私の話に一寸耳を傾けるだけで貴方のものになると…。私は話欲を満たせて、貴方は価値のある宝石を手に入れることが出来る。悪くない話だと思うのだけれども……。え、えぇ。先ずは本物であることを証明するべきでしたわね…。ほうら、御覧下さいまし。色、形、光……音。全てが一級もので、素人目にも本物だと分かるでしょう?それでも疑うのであれば…向かい側の鑑定士にでも依頼してみたらどうかしら?3回ほどお月様とお喋りをしなくてはならなくなりますけども…オホホ。アラ、信用してくれるのですね。よかったよかった…。その石は契約金ですわ。ささ、お掛けになって…寒くはないかしら、何か飲み物は……それよりも疾く私の話を聞かせてくれ…って?オホホ、面白いことを仰るのねぇ、貴方。ああ、気を悪くしないで…今のは褒め言葉ですわ。貴方は貴方が思うより余程、正直者で…ふふ。そんなに急かさずとも私も話も……宝石も逃げませんわ。ゆっくり、ゆっくり…私の話に耳を傾けて。
 私、今は人の体をしていますけれど、本当は海月なんですの。ええ、そうですわ。穏やかな波に、荒れた波に…渦潮に、揺蕩うアノ海月ですわ。待って頂戴…お話は始まったばかりですわ…。今席を立ってしまえば、先程貴方に差し上げた宝石を返して貰わなくなってしまいますわ…。力ずくで取り返しますし…それを振り払おうと、貴方が全身の力を込めて私を突き飛ばそうものなら…ふふ。脅しじゃあありませんわ。一寸先の…起こり得る未来のお話をしているだけです。思い直して頂けたようで何よりですわ。黄昏が終わるまでには貴方を解放しますから…。貴方が急に席を立つものですから、どんな話をしていたか忘れてしまったじゃないですか。……えぇ、そうです。海月の話ですわね。私は海で生まれ、育って…気がついたら人になっていましたわ。海の中は広くて、何処までも何処までも青が広がっていて心地が良い場所でした。陸にも魅力はありますわ。移り変わる空の色と、景色はずうっと見ていられますもの。長い長い…映画を見ているようで、胸が高鳴るんですの。海の中と言ったら…ただ、変わらず青が広がるだけですもの。水面から眺める空の色も、赤いはずなのに何処か青くて…海月の私はそれが不満に思えたのです。赤い空は赤いまま、灰色の空は灰色のまま、朝桜に染る色をありのまま、この目で見たかったんですの。幾度も幾度も移り変わる空の色をこの目で見たいと願い、半永久的な海の中をたった一人で揺らめいていましたわ。願うようになって何日が経ったのでしょうね…。え?海の中にも時間はあるのかって…?面白いことを仰るのね…。オホ、オホホ…。時間は何処にでも、平等に存在していますわ。私たちの目では捉えられない次元を、疾く、緩やかに……激しく…。ただ、海の中は疾くも激しくもありませんわ…。
牛や亀が歩くよりも遅く…ゆっくり…目を凝らしてもわからないほど…ゆっくり、過ぎていくの。音もなく…温度は一定。変わるのは水面の色だけ。それ以外はなぁんにも…変わらず"いつも"が広がっているんですの。私が気づかないだけで、本当は少しずつ変わっているんです。ですから私は、海とは即ち、永遠に最も近いものだと思っているんですの。えぇ…?永遠なんてものは無いですって…。冗談はよしてください…面白くありませんわよ。だって、よく言うじゃありませんこと。真っ白な、穢れなんてものを知らない、純粋の塊…、教会で男と女が永遠の愛を誓うって。人は少なからず永遠を信じて生きていますわ。永遠を信じる人がいる限り、永遠は存在するんですの。本当に存在していなくても。永遠はあるんです。努努、お忘れなきよう…その掌にある宝石だって、貴方が本物であると信じているから、本物なんですのよ。少しでも疑えば忽ち贋物の…石ころになってしまいますわ。私が本当は海月である事を、貴方が信じれば私は本当に海月になって海に還ることが出来るんですの。ああ、どうか怒らないでくださいまし…。契約金としてお渡しした宝石は、紛れもない本物ですわ…。疑えば疑うほど…その石は光を失って、本当の石ころになってしまいますわよ。私はそれでも構いませんが……。ふふ、それでいいんですのよ。…アラ、鴉が鳴いていますわね…。もうこんなにも空が赤く…。黄昏が、もう直ぐやってきますわ。黄昏の後には何が来るのか、貴方はご存知でないでしょう。正直者には分からないんですのよ。私が貴方にお伝えしても、貴方は決して信じようとしませんし…貴方には見えませんわ、ずっと。疑うことを真に忘れない限り。
 さて…訳の分からない話を聞かされた感想は如何かしら…。時間の無駄だったと…?えぇ、皆そう言いますわ。宝石の光に目が眩んで、私の話などちっとも聞いていないんですもの。光に惑わされず、眩まずに私の話を聞いていれば一寸は理解出来たかもしれませんわね…可哀想に。そして、貴方は私が海月であることを、遂に最後まで信じる事はありませんでしたわね。……矢張り、私は海月でもなんでもなく…最初から陸に生まれ、人間として生きていたのかしら…オカシイですわ…確かに…海の中を、波に身を委ねて過ごした記憶があるというのに……。気狂いになるまえに報酬をさっさと寄越せ…と…。オホホ…とっくに手にしているじゃ御座いませんか…人を疑う心…欲に忠実な心…それが、宝石ですわよ…。嘘をつくなと…フフ…貴方の目には、本当にこれが一級ものの宝石に見えたんですのね…。ようく目を凝らしてご覧なさい…。道端に転がっているただの屑石ですわよ…。勿論、その掌にあるものも…
フフ。人の脳みそというのは本当に変テコで…単純で面白いですわね。オホホ……。そんなに怒らないでくださいまし…目に見えるものが、己が信じてやまないものが、全て実在する訳では無いんですのよ…。今、話している私の存在ですらも…もしかしたら、貴方の妄想かもしれませんわね。ほら、此処は何処でしょう?近所の公園の…古びたベンチかしら?それとも、深い深い海の中かしら…?貴方の目には、どう見えているのかしら。教えてくださらないの?……ウンともスンとも言わなくなってしまいましたわ…。嗚呼……また私は海月になれなかった…。疾く海に還りたいのに…誰一人として、私が海月であると信じてくれませんわ…。それどころか…屑石を宝石だと信じてやまないだなんて…。何時になったら還れるのでしょうか…。
 木の板と金属とが擦れて、重さから解放される音が空気を震わす。丁寧に手入れされた黒髪が歩く度に揺れて、繊細な音楽を奏でる。黄昏が過ぎ去り、月と消えかけの街灯だけを頼りに呼吸をする、小さな砂場。その傍には雨風に晒されて、すっかり古くなったベンチ。先程まで、黒髪の持ち主が座っていた場所だ。彼女の隣に人は居たのか。彼女は誰に語り掛けていたのか。果たして、彼女は本当に海月なのか…あるいは、実在するのか。海に還りたいと願う彼女は何処で生きているのか。誰も知らない、知る由もない。彼女が存在することも、彼女が話すことも、彼女が成すこと全て、誰も信じようとしないのだ。彼女も例外になく、自分自身を疑って生きている。疑えば疑うほどに、現実から遠く離れて空想となる。疑いながらも、海月である事を説いて、信じる人を増やすことで彼女は真に、海月になろうとしているのだった。木造アパートの1階の片隅で、彼女は今日も海に恋焦がれ、長い夜に魘され明日をも疑う。疑う心も信じる心も等しくあるべきだと、彼女はとうの昔に知っている。目を逸らして何年も生きている。海に還るその日まで、彼女は説き続けるのだった。

     『海月の独白』

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