『のだめカンタービレ』でクラシック再勉強【その4】
終わる気配のないこのシリーズですが、自分でも、どうして急にこんなに熱中してるんだろう?生活の中に、ちっとも入れてこなかったクラシック、どうして突然毎日聴いて、しかも全然冷めないんだ?先日は、ダイニングに、使ってなかったスピーカーでオーディオ環境を組みました。
はい。ええ。漫画『のだめカンタービレ』で登場人物達が演奏するクラシックを順に追うシリーズ、第4弾でございます。
ここ一年くらいの興味として、自分のホロスコープを見て頂いたり、自分の為にふわっと勉強したりしている。ホロスコープの一要素、サビアンシンボルはとてもインスピレーションをくれて重要だと感じるが、かなり抽象的なので、本質的に理解するのにはドデカテモリーを理解するのが助けになりそうだと分かった(はるなさんのこちらのnoteより)。
難しいので適切に理解出来てるか分からないけど、自分なりに考えてみると、例えば、わたしの2室にいる土星は天秤座にある。この土星のドデカテモリーは牡牛座。それぞれ星座の守護星と合わせて、我が土星は、天秤座の金星と牡牛座の金星の性質を持っている。
「土星」「天秤座・金星」「牡牛座・金星」、この三つの要素がクロスする部分に何があるか想像してみると…わたしは、「この世界は美しくて価値がある」ということを知るための能力が必要である、と。そして、「人や自然が生み出したこの上ない美しさを、誰もが受け取れる形にして伝える、その為に必要な感受性、知識、理解力、相手に合わせた表現能力を身につけるまで、容赦しねーぜ」、というのが土星さんの役割である。そこに関わりがない努力をしても、土星さんは許してくれねーのだ。そして、そもそもわたしは、「世界は美しく、生きることには価値がある」と、思ってねーところから始まってる。
この、星について考える時、限られたタイミングでしか合わない焦点のような、三本の縫い針に一辺に糸を通す様な、でも、その、「ここだ!」というツボを見つけるのが、
なんだかクラシック音楽と似ている様な気がした。
作曲者がその曲の中に書き出したもの…
…それは、その人、その作曲家の中に対立しているものを、究極的に、最善の状態で統合した結果なんだ。それは、葛藤する相反する要素、あるいは伸び伸びと連動する要素、作曲家の中の色んな要素が、究極的に余分なものを削ぎ落とした状態で、「ここ」にしかない一点で捻り合わされている。
モーツァルトの時代には、モーツァルトの様な曲を書いていた作曲家がごまんといるんです。ドビュッシーの時代以降には、彼の様な曲想の作曲家がごまんといました。だけど残ってない。楽譜が残ってない。名前すら残らない人もたくさんいたでしょう。良い音楽だから残ったんです。弾き継ぎたいと人々に思われたから、300年も残されたんです。それだけの人の心に届く、じゃあ、「良い音楽」とは一体その中に何が、
それはひとつの救いの形で、「ここに、ほら、ひとつ、統合したものがあるよ」。作曲家は、強固に統合された結果を、人に届く形にする為に、どれだけでも努力をした。統合したものを見せるということが、彼らの見つけた、愛の表現だった。その愛は今も、人を介して続いている。手渡し続けられている。そういうことなんじゃないか、それが、クラシック音楽の価値なんじゃないか。そんな気がした。
…ということで。続きにまいります!のだめ、パリのコンセルバトワールで初授業です。
ブラームス 交響曲第3番
Brahms : Symphony No.3 Op.90
ほやほやの一年生ののだめ、新学期が始まることを理解しておらず、アパートの友人たちのお陰で、何とか初日の授業に間に合います。アナリーゼ(楽曲分析)の授業で、ブラームスの交響曲第3番、その3楽章が取り上げられました。
日本の音大で、演奏系の学部は、アナリーゼをほとんどやらないかもですね…。楽譜から、音楽の構造を読む学問でございます。わたしの場合、本当〜〜〜に申し訳程度に、作曲の授業で、基本のキだけやって、それじゃやらない方がまだましなんじゃって思うくらい…。うちの大学だけだろうか、先生がちゃんと授業してくれなかったのは…。楽譜を分析しながら教えるピアノの先生もいますが、少ない気がします。もちろん作曲科や、音楽学科はちゃんとした授業があると思うし、分析が好きで好きで、院で研究をするというタイプの人もいます。
全4楽章。1楽章は、かなり雄大な感じのテーマから始まります。力が入ってます!のだめ達が分析する3楽章は(のだめはついて行けてないんだが)、わたしこれすごい聴いたことあるんだけど、どこで聴いたのか…TVかなあ…NHK…。悲しい美しいメロディーです。聴いたことある人も多いかも。やっぱり1、2、と聴いてから3聴いた方が、染みるわね…。
スカルラッティ ソナタ
Scarlatti : Sonata K.525 (L.188)
初見のレッスンで、先生がのだめに弾かせる曲がスカルラッティ。あまりの出来なさに先生がショックを受けている。
初見とは、初めて見る楽譜を、練習無しでいきなり演奏することです。先生のセリフの通り、「調性(何調か)と拍子とテンポをチェックして」。ざっと楽譜を見て、奏者が、「よっし、行けるで!」となったら、楽譜の指示通りのテンポでいきなり弾きます。わたしはスカルラッティのこの曲初めて聴いたけど、二声じゃないの。弾きにくそ〜。
わたしは初見のレッスンってしたことないんだけど、初見は、とにかくインテンポ(指示通りの速さ)で、演奏中断しない、がマストなので、「大事な音は見落とさずに、それ以外はそれっぽく弾けば良い」っていうアレンジ能力も込みかなあ〜と思ってるんですけど、どうでしょう。駄目?歌の伴奏なんかしていると、初見で弾くことは良くあります。
のだめのように耳が良くて、耳コピの能力がむちゃくちゃ高い人は、あんまり楽譜を読まずに済むせいで、楽譜を読むのが得意じゃない人も、いますね。しかもそういう人は、楽譜見なくて良いくらい、記憶力もすごい良いんだよな〜…。しかし、そうするとアンサンブルが出来ない。なぜならアンサンブルの練習は、何度も止まって、途中から演奏するからです。だから、どこからでも演奏再開出来るというのが、アンサンブルの演奏者には必須なんですが、楽譜が読めないとそれが難しいんだ、けど…。でも、能力高いから、本人が本気で読もうとし始めたら、すぐ読めるようになるんだよね…。
演奏の仕事をしようとすると、ジャンルによるが、「音源があれば出来ます」はポジティブだけど、「楽譜だけだと出来ません」は、いざという時に対応できないので、なかなか厳しい。「楽譜がないと出来ません」はOK。
スカルラッティは、チェンバロの録音も多くて、気持ち良い〜バロック好き〜。
リスト 超絶技巧練習曲 第1、2、5、10曲
Liszt : Études d'exécution transcendante S.139 No.1,2,5,10
さ!いよいよ、コンセルバトワール、初めてのピアノレッスン。どきどきです!!!のだめは好きな曲を弾いてと言われて、リストの超絶技巧練習曲を弾きます。がつがつと4曲。超絶ばかり4曲というところに、彼女が精神的に追い詰められてる悲痛さを感じます…。
第1曲は「前奏曲」、第5曲は「鬼火」(【1、2】で既出)など、いくつか副題が付いてるものがある。「幻影」という副題が付いた第6曲は、リストさんちょっと、や、やりすぎじゃ…!とクスリとしてしまった。
超絶は、聴いていて喜びがある感じがあんまりなかったのですが、フレディ・ケンプさんの演奏が、かなり切なく、うっとりしました…。リストの統合した均衡が、ギラギラの太陽のような技巧の中に、きらきらと金色に輝く、透き通った水の流れる美しい庭園が、何だか少し見えた様な…。
ラヴェル 「マ・メール・ロワ」
Ravel : Ma Mère l'Oye
シュトレーゼマンの弟子兼付き人として各国を回っていた千秋が、4ヶ月ぶりにパリに帰ってきました。指揮者コンクールで優勝した副賞として、2回のオーケストラ公演がパリで行われる、その公演の為に帰ってきたのでした。千秋の振る曲のひとつが、ラヴェル。これが千秋の公式デビュー公演になります。千秋が部屋で、リハーサルのために楽譜をアナリーゼするのが、のだめの部屋まで聞こえてきます。
「マ・メール・ロワ」は、もともとピアノの為に書かれた、お伽話がモチーフの組曲。眠れる森の美女、美女と野獣など、5つのお話が、短いピースになっています。ラヴェルによってオーケストラに編曲されており、間奏曲などが足されたバレエバージョンもある。そっちも素敵よ…。【3】で紹介したラヴェルの管弦楽より、オーケストレーションのレベルが、高いな…!?上がってるね…?!
こんな曲をオケで愛情いっぱいに演奏されたら、のだめが泣いちゃうの、しょうがないわ。
千秋が、自分を目標にさせて、のだめをヨーロッパに連れ出しておきながら、結構放置しっぱなしなのを、シュトレーゼマンが「そーゆーのもうやめなさいヨ」「みっともない」と言います。これ、どういう意味でしょうね?
これはパクチーの考えですが…。千秋やRuiには、その音楽性を理解して、守ってくれる人(親)が、幼少期からずっといました。見返りを求めない、無償のサポートです。そこには多大なお金と時間が費やされている。ふたりが音楽家になるのに、それは必要不可欠でした。でも、のだめにはそういう人がいなかった。今、のだめが開花するにはそういう人が必要で、千秋はそれになれることが千秋自身分かっている、だけど、無償でのだめに尽くしてしまったら、恋人として優位にはなれませんね…。だから無意識に、自分を出し惜しみしているんじゃないか…。だって追いかけてもらえる方がプライドが満たされるから…。
それを「みっともない」と言ったのかな。千秋は、本当は自分がのだめを手放せないことを、どこかで分かっているのに。始まったばかりのコンセルバトワールの授業で、すっかり自信を喪失して、のだめは、焦りで、千秋が大切に思っている音楽性も見失っていて、それが、愛おしくて、可愛くて、純粋な気持ち、無償の気持ち、が溢れるの…分かるな…。
憎まれ口を叩かれても、拒絶されても、サポートし続けることは、親なら出来る。でも、若い千秋が、恋愛対象として一時自分が拒絶されても、音楽の先輩として、庇護者を全うするなんて…そんな難しいこと!千秋…!
武満徹 「遠い呼び声の彼方へ!」
Toru Takemitsu : Far calls. coming, far!
千秋のパリデビュー公演、2曲目。「マ・メール・ロワ」と続けて聞くと親和性があるような気もする。フランス人には割と好みかもしれない。
武満徹は日本の偉大な作曲家ですが、すみません…本当に…これまで聴いたかもしれないけど、頭に残っていない…。現代の作曲家の中では聴きやすい曲だし、音色が美しいです。拍感が無い感じなのが、邦楽の流れを汲む日本人的な部分なのかしら…?まあ、日本人は全般、リズムの乗りの良いものより、拍感の無い曲を書かせた方が、クオリティが高いものになりそうな感はある。なんだか横に長い絵巻物が、するる〜〜〜〜と、ずっと続いているようで、繋がった絵が、もやもやしたり、うねうねしたり、さら〜〜っとしたり、おどろおどろしかったり、するのを表現する音の配置が、さすが、見事、無茶苦茶洗練されている。
シベリウス 交響曲第2番
Sibelius : Symphony No.2
千秋の振る公演の3曲目。シベリウスの選曲はシュトレーゼマンによる。
シベリウスも、かつて聴いたかどうだかの記憶すら…改めてちゃんと聴きました。フィンランドの作曲家。シベリウスは7つある交響曲が主作品で、中でも第2番が一番有名らしい…へえ…そうかあ…。
全4楽章。なんか…すごく品があって、美しいぞ?ちょっとポップさもあり、ややロマンチックさもあり、千秋、シベリウス、いいじゃないのッ!2楽章が、なんだこれ、面白い。スケールの広い、陰と陽の混濁した世界観。まるで、北欧の雪深い景色を想像するが、暖かいイタリアを「魔法がかかった国」と呼んで、イタリアの滞在中に書いたらしいです。パクチー的には、ベートーヴェンに続く交響曲は、シベリウス、かな!ちょっとロマン成分が多いかな?
千秋のデビュー公演は、拍手喝采で無事に終わる。音楽の先輩として、その姿勢で、自信を失ったのだめをちゃんとひっぱり上げることが出来た千秋。それが通じて、のだめが楽屋にやって来て、自分にまっすぐ目を向けてくれたのだめに、ついに、どうやら千秋は愛を告白した模様。
軍門に下る…という言葉が浮かぶが、仕方がない!
だって、どうしたって、千秋の方が、のだめの音楽を必要としているから!
もしも仮に、のだめが千秋を愛さなくても、彼は両手を上げて彼女のサポートをするしかないのだ…だって、千秋の理性の奥に閉じこもっている、本当は歌ったり踊ったりしたい陽気で自由な精神は、のだめによって息吹を与えられてるから。そうやって千秋は自分の殻をいくつも破っている。
でも、そういう自分の都合を超えて、彼女の音楽のために自分を差し出したいと思う、彼の中の新しい気持ち、が、多分、パリでオケを振る彼の音楽に、別の美しい変化を与えている。
ベートーヴェン ソナタ 第8番
Beethoven Sonata No.8 Op.13
千秋の部屋に入り浸ってご飯をご馳走になってるのだめが、手隙きで弾いてる第8番「悲愴」。それがデタラメらしく、千秋が思わずレッスンをつけている。【1】の一番最初で、2楽章が既出のソナタです。
千秋が、ついのだめに口を出したくなってしまう部分。「この時代のピアノ曲は、こう弾く」みたいな一般的な理解、というのがあるんですよ。例えば、ピアノ科にバッハは必須ですが、バッハの時代にはまだ現代のようなピアノがありません。なので、当時の鍵盤楽器を再現した様な弾き方をピアノでするのがセオリーなんですが、どうやるかは、楽譜には書いてないんです。先生から弟子へ、口伝でございます。ベートーヴェンの時代から「フォルテ・ピアノ(現代のピアノ)」が完成し始めて、そこから音量の大小の変化がつけられる様になってきます。それが嬉しかったベートーヴェンは楽譜に音量の大小(フォルテ記号、ピアノ記号)を書いていますから、その通りに弾かなくてはいけません。
千秋は、楽典や、そういう時代的な背景と楽譜を紐付けて理解していて、それを込みで演奏することが染み付いているから、全くそこから離れたのだめのピアノに、むちゃくちゃ違和感を感じるんでしょう。もちろん、単純に楽譜通り弾いてないとかもあると思うんだけど。のだめの無知がゆえの自由さの中には魅力もあるんだが、「セオリー」に無知であることと、「セオリー」が分かっていて、その上で発揮される自由さは、深みや強度、聴衆へのアピール力、説得力が違うのじゃないだろうか。
つまり、のだめの音楽へのアプローチと、千秋のアプローチは、全く逆ベクトルからなんですね〜。いいですね〜。そういうカップリング、萌えますね〜。感性と知性。音楽に限らず、何でもそうですよね…。どちら側からアプローチするか、その人の個性や特性に依って、結果どちらも必要である…そしてお互い相手が羨ましい…。無い物ねだりしちゃうよね…。
バッハ 平均律クラヴィーア第2巻 第14番
Bach : The Well-Tempered Clavier, Book ll, BWV 883
のだめがオクレール先生のピアノのレッスンで出された課題曲。ピアノ科の必須アイテム、バッハの平均律がやっと出てきました〜。
感性以上に、ロジックで構築されてる割合が多い種類の音楽なので、のだめは理解する為に当時の作曲技法、「対位法」を学ぼうとします。バッハ以前は、音楽は神に捧げるものだったので、構造美が重要視されたんですね。人が、「う〜ん、この感じ、すてき」という感性に頼った音楽を作るのは、音楽として下等だと。ポエムの様に個人の感性でタイトルをつけて、それをテーマにした曲を書くなど、ベートーヴェンの時代まで、恥ずかしいことだったのでした。文学と私小説みたいなもんか。「標題音楽も良いじゃない」となるのは、ロマン派以降です。
わたしは平均律好きです。落ち込んだ気分が普通に、ちょっと興奮しすぎてるのが中庸になる気がします。あと、ピアノ弾きのナンパに、
〜月明かりの夜〜
「作曲家で誰が好き?」
「んー…バッハ」
「じゃあ、mollとdur(短調と長調)どっちが好き?」
「moll」
「俺も」
というのがあります(本当かよ)。この頃、初めて、鍵盤のどこから弾き始めても、全部の調で弾けるように調律された(平均律)、鍵盤楽器(クラヴィーア)が開発されたんですね。それが嬉しかったバッハが、24調全ての短調と長調でプレリュード(前奏曲)とフーガのセットを書いたのが、この楽譜です。それが2冊ある。
しばしば言われることですが、平均律を勉強中の人は、機会があれば当時の楽器に近いチェンバロやオルガンで弾いてみると発見があるかも。どうしても弾きにくい指で弾く声部が小さくなりがちですが、チェンバロはディナーミク(音の強弱)が無いので、声部が自分で聞こえやすい。
バッハ 平均律クラヴィーア第2巻 第5番
Bach The Well-Tempered Clavier, Book ll, BWV 874
初見のレッスンでのだめと先生が一緒のリュカくんがやっている曲。リュカくんのおじいちゃんは対位法の本も出すくらいの専門家で、飛び級で入学しているリュカくんも、大変知的な少年です。
明るい楽しいプレリュード。そもそも「対位法」とは何か。ここでは…これは、フーガを書く時のルールみたいなもんですかね。「対位法」はもともと、「フーガの技法」の進化の先に生まれました。フーガとはどんなものか、例えて言うと、2〜6人の歌い手がいて、決まった短いフレーズを持ち回りで必ず歌う、みたいな感じかな、ざっくり言えば…。そんで、歌い始めの時のルールがあるんですよ。あと倍転というのがあって、倍の速さで歌う、とか倍の遅さで歌う、とか…。そう。これはもともと、複数人で歌う、聖歌の作り方だったんです。それが、今はひとりが、ひとつの頭で、10本の指で弾き分けるようになったので…少々頭が混乱します。
フーガの技法は、9世紀頃までは独唱で歌われていた修道士の讃美歌が、少しずつゴージャスに、ルールが複雑になっていって、集大成したのが17世紀のバッハの頃、と言う事になっています。ポップスを含め、今の音楽の原型は、すでに全部、ここにあり。
ところで。受験の頃、恩師が平均律のCDアルバム全集を、それぞれ違うピアニストで3人分貸してくれました。その中の一人のアンドラーシュ・シフさんの平均律が、わたしは今でもずっと好きです。
ショパン ノクターン 第8番
Chopin : Nocturne No.8 Op.27-2
のだめ、今回はオクレール先生が不在で、アシスタントのマジノ先生がレッスンをしてくれます。隅から隅までうっとり系の楽曲。パクチーは、ほんと、こういう曲は、間が、持たなかったねー!多分、弾きながら「セイヤッ!」って言いたくなっちゃうね…。自分の何を持ち出して真剣に弾けば良いのか、照れちゃって無理でした。生命の潤いが枯れた学生だったんですね。ノクターンやってないんだけど。
左手がぽろろんと、ハープのように背景を飾っています。これ、左手の指の機能が十分育っていないと背景になりません。下町のおっちゃん達のバケツリレーみたいなゴツい感じが、前面に出てしまいます。さながらアヒルの、水面下で必死な足…(白鳥と言って)。鍛え上げられた指があって、やっと「ティッシュを摘む」くらいの労力で弾けるようになります。
わたしは、ダン・タイ・ソンさんの演奏が素敵でした…。人類愛…。
クリスマスに心が不安定になってしまった千秋と、路上で死闘の末、関係を築き直したのだめ。千秋には、自分が顧みられないことに関してのトラウマがあって、のだめが不在だとそこらへんのツボをぐりぐり押されるので、つい、いっそのこと「一緒にいる関係」から逃げようとしたくなっちゃうんですなー。向き合えない。シャットアウト。そのくらい大きなトラウマです。
でも、千秋からネックレスのプレゼントをもらって、ノクターンにツヤ全開放ののだめ。これは嬉しいね!
リムスキー=コルサコフ スペイン奇想曲 作品34
Rimsky-Korsakov Capriccio espagnol, for orchestra, Op.34
千秋は、パリを拠点とするルー・マルレ・オーケストラ(以下マルレ)の常任指揮者になることが決まる。のだめの分とチケットを2枚手配して、早速定期公演を聴きに行く。その、ふたりが聴きにいったマルレの公演、一曲目。
スペイン奇想曲は、全5曲から成る。スペインの民謡をモチーフにした、アンダルシアやジプシーの、ややエキゾチックなエッセンスを、ロシア人リムスキー=コルサコフがすっきり華やかに構成してお届け。この曲の初演時、リハで大変オケ受けが良かったらしく、リムスキー=コルサコフさんはこの曲を、オケのメンバー全員に献呈しています。
オケ受けが良い曲というのがあるらしい。オケが演奏していて、どういう曲か弾きながら分かる、何やってるか分かる、気持ちがいい、という曲。
大学の4年時、卒業作曲の発表会というのがありました。そこで学生オケによって演奏されたオーケストラ作品のうち、1曲だけ、演奏が終わって、壇上で挨拶をする作曲者を迎えるのに、オケのメンバーたちが足踏みをした(足踏みはオケメンバーによる拍手の代わり)。ええ。わたしの曲ではない。その曲の作曲者は吹奏楽の経験者で、良く鳴る、快感がある、そういう和音構成がたくさん使われているのだった。わたしは、良く鳴らない和音構成ばっかり使ってたので、オケのメンバー達の頭に「??」がいっぱい浮かんでるのが、良く見えたもの…これを、「そうじゃなくて、こういうことを起こしたいんです」と、指揮者を通して伝えるのが、本当に、難しいプロセスであった。
リハで、曲の切れ目ごとにオケが拍手喝采だったらしい、リムスキー=コルサコフさん。あまりに感激したんだろな…!はたで見てたけど、あれは嬉しいよな〜!
ドビュッシー 「海」
Debussy : La mer, L.109
マルレの2曲目。え・・・大曲。。。すごく良い…。さすが、二ノ宮さん、やっぱり素敵な曲ばっかり選んでるわ…(そりゃそうか……!)ドビュッシーの「海」、わたくし初視聴でございました。
ドビュッシーさん、単に海を描きたかったんではなく、どうやら「海」というタイトルで、新しい実験的な構成を試みたかったよう。すんごく、良く練られた構成なんだと思います…一聴しただけじゃ分かりませんが…!いやー!むちゃくちゃ美しい、革新的なオーケストレーション!でも新しいだけじゃない、ちゃんと古き形式の型がリメイクされてるから、耳が、頭が、すんなり受け取るんですよなー!良き!
当時出版された楽譜の表紙が北斎の海の絵なので、これ、日本人はきゅんとしますね。
と言う訳で、コンサート終了でございます。オケはボロボロ、千秋、ショックで、帰宅してから、指揮者に感情移入して泣きそうになっている。
前段の通り、わたしは自分の書いた卒業作品のオケを、大学の学生オケで発表演奏してもらっている。初めてのリハで、初めて音になったのを聞いた時、「わたし、こんなものを書いた…?」。全力で、床に穴を掘って入りたくなった。頭の中で鳴っていた音と、あまりに聞こえる音が違って、渾身の力で踏みとどまらなきゃならないくらい、現実から背を向けたかった…。千秋の気持ちは分からない、けど、だから分かる…!
オケの音が「ひとつになる」「イメージを共有する」までには、プロセスがあるんですよ。最初の、一番最初の一歩は、何も成されていないところから始まるんだ…。
信じて、敬意を払って、愛を持って辛抱する。
でも2回目のリハで、ほとんどイメージ通りに良くなってたんだけどね!そう。必ず、変わるんです。そもそも演奏者はパート譜しか見てないから、最初は何が起こるか全く知らないで音を出すんです。でも、そのままなんてことは決してないので。2日、3日でいくらでも良く変わる。最初絶望するけど、絶望する必要は無く、おくびに出さず、前向きなコミュニケーションをとり続ける。信じて、感謝する。それしか出来ないし、それだけが必要なことだった。そういう、貴重な体験でした。
ラヴェル ボレロ
Ravel : Boléro
千秋たちが聴いたマルレの、次のコンサートを、本来振るはずだった指揮者が「二度と来ない」と言って出国してしまったので、次期常任が決まっていた千秋が、急遽指揮者をやることになる。決まったのは本番の3日前。本番までにリハ1回。ゲネ(本番前の通し)1回。千秋が振るマルレのコンサートは、一体どうなるか!?その1曲目。
ラヴェルを知らなくても、「ボレロ」は知ってると言う人は多いかもしれない…。しかし…、ラヴェル好きとしては、「ラヴェル」=「ボレロ」ではない、と、言いたいところだが…!!!…いや〜。すごく、変わった曲です。変わった曲ですよね?楽譜だけなら、ミニマルミュージックと、無理すれば言えそうなくらい。
しかし、実に計算された約15分。これ、やっぱり生の楽器だから成立するんじゃないかな。打ち込みだったら、まるで生き物のようなこの音楽の真髄は、生まれてこないんじゃ。この計算され尽くした緻密さは、やはりラヴェルならではですね。彼の他の曲では、うっとり情緒、ロマンチックなものもたくさんあるが、雰囲気に流れてるように見えて、実は計算され尽くされてるところに魅力があるんですよ…。「変化の過程を楽しむ」という、究極の、超高級な時間の味わい方でございます。
小太鼓(スネア)から始まり、15分まるまるずっーーと同じリズムを叩き続けるってのが、やっぱり特徴です。オーケストラの打楽器奏者のをオーディションは、曲目は「ボレロ」の小太鼓だって聞いたんですけど。本当かな。
のだめは、観客で行くつもりが、トラ(エキストラ)でチェレスタを弾くのを千秋に頼まれて、うきうきだったのに…ならず。でもRuiがチェレスタを弾いたおかげで、まだオケと信頼関係のない千秋の株が上がったところもあるので、実際には非常に有難い助っ人だったはず。
ここまでで、『のだめ』13巻です。
まだまだ続きます!それでは次回!