見出し画像

帰ってきた土星さんのお仕事

実はわたしは、このnoteの他にブログがふたつある。このnoteよりも全然書く頻度が高くないんだが、一つは夫婦のお店の日記、もうひとつはわたしの個人的な日記。

個人的な日記の方に、noteを始めて以降のある日、こんなことを書いていた。

「あなたがもっと自分と対等にならないと」それはわたしがnoteで嘘を書いているということ?「嘘かどうかは、あなたが知っている」嘘は書いていないと思うし、そう思いたけど。「でも自然じゃないよね」自然…。「あなたが見ていることは、全体の中に、アメーバとか塵とか、汚いものと一緒に、育っていく芽とか、勢いのある水、空気、光が混在していることでしょう?それをそのまま書くのが、あなたの見ているものに近いのではないの」それを見たいと思う人がいるかしら。「でもそれがあなたの見ている美しさでしょ」それを美しいと思う人がいるかしら。「それを外に出してみなかったら、あなたと対等になれる人があなたと出会わない。」清濁が全部ある混沌の中で、自分が善きものを芯にして両足で立ってるのって、結構いっぱいいっぱいだよ。必死だからあんまり人に見せたくないんだけど。その渦中を見せる必要があるかしら。「その中で分かっているリアルのところだけを書いたらいいんじゃない。理想じゃなく」理想じゃなくね…。

2021.01.17

BTSが発しているエネルギーの中に感じたポジティブな輝きを、言葉にして、noteの中に並べて置いておけたら、わたし自身にとって良いだけでなく、他の人にも役に立つかもしれない。しかし、それを努力している自分は、決してきれいに輝いている訳じゃないことを自分で知っている。

きれいなものを、上手く書いて並べることが出来ると、それに対して感謝や肯定を頂くと、意味があると思ってしているにもかかわらず、「賛辞を受けている人物と、自分は違う人物だ」と思えた。成果物と自分自身との距離感の取り方が、分からなくなってくるのだ。「わたし自身はそんな素晴らしい人じゃない」ということを伝えずにいたら、読んで下さった人を勘違いさせて、騙していることになるんじゃないか。いつか「信頼したのに、裏切られた」と思わせるんじゃないか。自分に向けられたポジティブが、全部ネガティブに変わるかもしれないと想像すると、それは怖いことだと思った。

その恐怖の気持ちの下方は、さらに掘り下げると、実は、つまり、「わたしのことを良く思ってくれて嬉しい。でも、これがあると知っても、まだ好きですか?」という、相手を試したい気持ちがある。不安定な気持ちの下の階層に、割合静かな情熱。「あなたは嫌悪を持たずに、この部分について、建設的な会話が可能な人ですか?」。

それが、わたしが体感として持っている「率直」だ。

「対等な人がいない」というのは、孤独だ。あなたと対等になりたい。なれるかどうか試したくてペルソナを外す。でもペルソナは守ってもいる。相手への配慮や敬意でもある。ペルソナを外すには、「剥き身のハートを否定されても、自分自身は何も減らない」と感じる、強度のある自己肯定が要る。ペルソナを外した自分を、受け止めてくれる仲間も必要だ。でも仲間を作るために仮面を外す最初の勇気は、自分にしか持てない。

"Why don't we just record this period and you know, just be more honest and frank and just be real, be me?" And yeah, so actually, it's been only like year that I switched my mode. And every day's a lesson right now. And I finally feel like I'm doing something on my own, closer to a hundred percent.

「この期間だけを撮影するのだから、もっと正直に、率直に、ありのままの自分を出してみない?」って。そう、だから実際、モードを切り替えたのはここ1年くらいなんだ。今は毎日がレッスンだ。そしてようやく、100%に近い状態で、自分の力で何かをやっているという実感が湧いてきたんだ。

こんにちは!パクチーです。

RMくんのドキュメンタリーが、封切りになりました〜!わたしは…観に行けないっ…!行った方々のnoteを、羨ましく拝読しております。いいなあ〜♡いつかオンラインで観れる時が来るかなあ。先週は1日3回くらい「Disny+を契約しようか…」と考えてました。が、すべての家事を蔑ろにして廃人のようになる自信満々なので、子供が小学生のうちは、やっぱり自粛…。きっと彼女を情緒不安定にさせるので…。いつかわたしが観られる日が、来るんだろうかなあ〜。

ところで。

noterのももたろさんが、ホロスコープにおける「サターンリターン」について、書いておられました。すてきな情熱に打たれて、わたしも自分の「サターンリターン」がいつだったのか調べてみた。

出生時のホロスコープの位置に、土星がふたたびやってくることを「サターンリターン」というのだそう。わたしの土星は天秤座。土星が天秤座にやってきていたのは、2009年10月30日〜2010年4月7日と、2010年7月22日〜2012年10月6日でありました。と、遠いいにしえ…。

その頃、何をやっていたのか。

と思ったら、前述のブログの、個人的な日記が、残っている一番古い日記が2010年だった。ちょうどサターンリターンの頃の日記が、あったんだよ…。

これが、読み返してみたら、結構面白くて。いや…、面白いのはわたしだけなんかな。

9月が終わってしまった。9月の間に、わたしはなんだかすごく変わったような気がする。今思うと。今現在考えてみたところ。脳みその半分くらいが入れ替わっているように変わった気がする。半分だから全く別人、って訳じゃないんだけど、でも結構違うシステムで思考しているような気がしないでもないような。「何か」が嫌いな時、それは自分の核心に繋がる非常に大切なサインなはずなのだ、嫌いっていう感情に良いも悪いもなくて、自分の生命を生存させ続けるための大切な心の機能。今その「嫌い」の対象がこんがらがってて、なかなか解れそうで解れず、その先の心地よいビジョンがまだ見えない。

2010.10.3

なんか良いこと言ってそうな気配があるが、とりあえず、なんかふわっとしている。

福生散歩。霧雨。美味しいものばかり食べる。電車で移動。青梅散歩。パンが美味しい。歩いて帰る。駄洒落を交互に発表し合う難易度の高い散歩。霧雨。しんとした空気と、ダッシュで坂を駆け上がる自転車の中学生。苔。里山の薪。循環型の生活が、最終的には一番遠くまで行けるような気がする。その実現度が高いほど、高いゴールに到達して人生を終われる。そんな気がしています。コンポストと、解決していない過去と向き合うのと、身体にいい塩を毎日使うのと、自分の体質を知るのと、全部同じくらい。作品はいつも人と人の間にある。自分に迷わなければ他人を惑わせなくて済むし自分も惑わされなくて済む。きれいな水辺の生活。循環型。遠いゴール。先日は先輩らと日本茶とバーボンとモルトウイスキー談義。すばらしく豊かな飲み物達!白ビールも美味しい。やっと今かけてる眼鏡が似合ってきた気がする。

2010.11.2

この頃は、まだ、ちゃんとアートに関わろうとしてた頃ですかね。2度目のサターンリターンが始まったばかりの2010年は割合、呑気な感じで書いている。とにかく、なんか自分を探してますね。本人的には一生懸命なんだと思うけど、捉えてることはふわっとしている。

最近のわたしは、自分との約束が沢山ある。沢山作った。3食食べる。夜11時に寝る。朝8時に起きる。毎日ハーブティーを飲む。寝る前に瞑想をする。食事の時、食べ物を口に入れたら飲み込むまで箸を置く。歩く。こうして書いてみると、そんなに沢山じゃなかった。でも毎日のことなので、なんだか沢山のように感じる。今日も一つ増えた。背筋を伸ばして座る。これらが、そんなに意識せずに出来るようになって、徐々にレベルアップした内容になって、いくのはとても遠い遠い未来のように感じる。でも自分との約束が守れなくてもそんなに気に病まない。大体、朝8時に起きる、が決意してから一度も守れていない。吉祥寺のサイゼリアに行ったら、普段関わることのない若者を沢山見ることが出来て、なんだか色んなことを感じた。大まかに言えば、「人と色々おしゃべりしながら食事をするのはいい!」ということだ。若者の会話を聞いてると、彼らの知っていることと知らないこと、わたしの世代の知ってることと知らないこと、の差異を感じて面白い。自分より上の、40代50代の人が本音できちんと会話しているのも是非聞きたい。わたしの世代、30代前後は、何事にもブレない自分の軸をおく、というのに苦心する年代に見える。仕事、出産をどうするか、恋愛、結婚のスタイル、色んな人が色んなことを言う中で、そしてその量も真剣度も年々増していく中で、どういう意見にも振り回されないはっきりした、選択の基準、いつでも選択権は自分にあるんだという気持ち、それを獲得、あるいは持ち続けることに格闘しているように見える。何が自分を生かしているのか。どういう感覚が自分に重要か。この年代で様々な問題に対して自分の本質に近い選択が出来ていると、その後の40代50代が楽な気がする。楽というか、ある煩わしさに苦しまなくて済む、というような。より質の高いものに時間を使えるというような。下らないことは沢山やった方がいいんです。気がすむまで。飽きるまで。

2010.11.15

しょうもない!実にしょうもない自分との約束…。でも確かに、30歳前後、「仕事、出産、恋愛、結婚」で、友達と価値観の相違が、現実に反映されてくる頃だった気がする。

(略)だけどステップの低い階段をいくつもいくつも越えると、全てのマイナスがプラスに変わるポイントが訪れて、音楽も、その他の何かも、自分の言語になると思う。そういう夢を見ながら明日を始めて明日を終える。今そこで絡まってる毛糸を、とにかく一生懸命諦めないで解す。それしか出来ない。それしかしなくていいんだと思う。時間。波形。音楽ってなんだろう。わたしが知っていること、分かることを頭の外に出せたら、みんなで見て欲しい。それから楽しんで欲しい。

2010.12.29

今noteが書けてるのは、この頃のわたしが音楽を真剣に考えてくれてたおかげかもな。

2010年が終わって2011年になると、単発の仕事を転々として一気に迷いの中に。同棲を始めようとして、一気に生活も精神的にもシフトしようと、していた、ようだ。

手が冷たい。1年半続けたアルバイトを辞め、住居を変えようとして、いい加減な感じだけど、中途半端だけど、既存の価値観でいう中途半端な部分に新しい価値があると思わずにはやってられない。多摩川の川っぺりで思い切りフリスビーするのも、飲み屋のテニスサークルで思い切り借りたラケット振るのも、脱力して思い切り振れると楽しい。脱力出来ていないと楽しくない。自分と離れた遠くで起きていることは真剣に考えない。知らない他人の価値基準も自分の曖昧な価値基準もそんなに信用していない。ただ気分がいいか悪いか。乗り気がするかしないか。砂糖入れるか入れないか。眠たい時は寝てみます。起きたくなったら起きます。わたしの気分にお任せします。たまに、寝ていたいのか起きていたいのか、何を食べたいのか食べたくないのか、どうしたいのかしたくないのか、さっぱり分からなくなる時がある。分かる時くらい聞くよ。聞いてみるよ。あなたの。わたしの。どのくらい本能が賢いのか。どのくらい欲望が本質と逆行しているのか。引越すために棚を整理していたら古いノートが色々出てきた。これはどういうメッセージなのかな。過去のわたしの言葉を今このタイミングで改めて知るのはどういうメッセージなのかな。初詣は中吉でした。上上。

2011.1.7

色々出歩いてみようとチャレンジもしてましたね。行きつけの飲み屋を作ってみたり。

随分前に買ってさっぱり分からなかった『星の巡礼』が、この間読んでとてもよく意味が分かって、むしろとても分かりやすく書いてある、ってなくらいで、スティーブ・ジョブス氏もスピーチで同じことを言っているなあと思って、まるでわたしに向かって言ってるんじゃないかと思って泣いて、指輪につける石について調べてるとまた同じテーマが出てきて、ううう分かってるんだ分かってるんだけども、幸せすぎてパンクしちゃってる、受け取り口が小さすぎて。小さじにひとくちずつお願い。電車の中で手の上にカマキリを載せていた時から、ちょっとした奇跡がいくつも起こって、会いにいかなきゃと思っていた人に道で会い、ずっと何年も会っていなかった人に偶然会い、ずっと十年ちょっと会ってなかった人に突然会い、ずっと二十年弱会ってなかった人に突然会い、『大変』とは大きく変わると書くのだよ、と教わって、大きく変わる時は大変なんだ、イライラして重苦しくて解放されたくてここから出たくて、そんな中にきらきらと小さなサプライズがプレゼントみたいに出てくるので、頂いた商品券を持って椅子を買いに行ったけど高くて買えなかった。

2011.10.11

大変らしい(笑)。はしょってるが、この頃仕事を探したり、変えたり、始めたり、している。混乱しているのが面白い。

11月ですよー、あわ、あわわ、働かなきゃいかん。なんだかわたしはこの2ヶ月、仕事らしい仕事はしていなかったのです。ピアノの伴奏だとか、ピアノ教えたりだとか、映像だとかはしていたんですけど、いわゆるどこぞに所属して、時間分働いて、おきゅうりょう頂くという。1ヶ月フルタイムで毎日都心へ通ったら、貰った月給で2、3ヶ月働かなくても大丈夫だーという勘違いをして今に至る。働かないと同居人に来月の家賃を払えないので。先日のイベントが終わるまで次の仕事のことは考えないようにしようと思って、終わったら友達夫婦が遊びに来てすっごいすっごい美味しい巨峰を頂いた。放射能問題であまり果物食べていなかったのだけど、素晴らしい巨峰、特に皮の裏っかわのとこが旨い、歯で削って食べちゃう、苦くない。農薬みたいな嫌な味も全然しない、とても意識の高い夫婦なので当然のように無農薬なんだろう、旨いよー、とか言いながらも仕事を探さなければいけないということは頭にいっぱいで、彼氏の整体のお供で電車に乗って、泣きそうになりながら図書館で本を読んで待ってる。夜突然目が覚める。その時頭にふと浮かんだことは支離滅裂なのだが、何故か焦りが収まる。わたしは何を仕事にしたいのか、イメージがつかないのです。やりたくないことは色々条件があるのだけど、どんな仕事がやりたいのか、とても掴みにくい。だから探せない。でも探してみる。自転車に乗る。屋台でたいやき売ってるので買う。わたしが今住んでいるところは結構いいところだと思う。アラジンもある。揃ってないものもあるけれど、料理するのにはそんなに困らないし、特に南部鉄の餃子兼すき焼き鍋というのがとてもいい。やっと油が染みてきていい感じだ。健康保険を払っていない。この間下腹部が痛くて、子宮内膜症かな?と思ったらどうやら排卵痛らしかった。病院にも行けない。住民票も移していない。年金手帳も二冊ある。今どんな創作活動をしているのか?これまでは?これからは?聞かれても、特にない。わたしが授かったこの体は何に長けているんだろう?それは知りたいと思う。今後一生続けて行く仕事。とは。なんだ。去年、その前、もっと前のわたしが、断片的に気付いた本質のかけらみたいなものがあって、それが今や説明可能なまでに自分の中でなっている。ある体系が出来てきている。それは誰かと比べたくなったり比べて深度を確かめたくなったりしてしまうんだけど、そいつは普遍的なんだけど、でも一個の体に付随している唯一無二のもの、気付き方も深め方も人の数だけあるから人と比べることは重要じゃない、自分の気付いたものと深まる深度を大切にすることの方が大事だ。「マイペース」って本当にすごい!立山に行った時に、宿泊所の暖炉の脇にあったアウトドア雑誌を見たのだけど、自分のマイペースを計るやり方が書いてあって、理解しきれないものの何となく実践すると、同じ山道でも全く体の感じが違うのだ。マイペースを何物からも自分からも守る方が大切なのだ。(略)フリーで仕事をする時に、相手に舐められない居方のようなものを先輩は教えてくれて、それは戦略というものだったと思うのだけど、若いアーティストはそれぞれ、自分という商品をよりもっともっともっと売るための戦略を考えて苦心していると思うのだけど、まるでいつでも仕事をしているかのように、皆の反応が良かったかのように、都合の悪い事は起こってないかのように、やったことの無い事に不安が無いかのように振る舞うのがいいのかもしれないけれど、わたしは、今自分にとって都合の悪い事は1こか2こしかないや、それはわたし以外の人も関わってる話だから、あとの全部の恥ずかしいことや情けないことや愚かしいことやみっともないことや、とにかくそういうことが、あると思われていていいや、だって実際あるんだし、人に会う時、よそ行きと部屋着が一致してる方が心が居心地がいいや、って思ったのでした。

2011.11.1

大したこと書いてないんだけど…子供の頃からやりたかった仕事を叶えて、それを辞めて以降、本当に自分が何したいか良く分かんないんだな、って感じが良く分かって、面白い…。

未だ仕事は見つかりません。胃が痛くなったり、ずっとインターネットしたり歩き回ったり、辛かったり苦しかったり。この時間は何のための時間なのだろう?と考える。そして自分の価値を、何を基準にどのくらいだと考えていたかに気付く。わたしの場合3万円/月。安い。わたしの価値は無限でわたし自身に価値がある、と本当に思えた時に仕事が見つかる気がする。

2011.11.15

安い笑。可哀想!そして2週間仕事が見つからないらしいが、本当に探したのか?笑

ベランダの戸を開けて、角材にドリルで直径18ミリの穴を空けたり鋸で切ったりしていたら入ってきたハエが昨日から部屋にいる。ハエがいるから少しだけ淋しくない。やや小さいハエなので、努力すればかわいいと思えなくもない。今日はハエにピアノを聞かせてやった。ピアノの上に止まって大人しく聞いている。バッハのパルティータ。ページをめくると飛んで行く。だんだん向こうも慣れたのか、今日は昨日より距離が近い。文庫本を読んでいるとページの上に止まったりしている。だけど頭の上に止まろうとするとやっぱり嫌だ。昨日は欅の赤くなった葉っぱに太陽がぴかぴか光って洗濯ものもぴかぴか光ってきれいだったけれど、今日はしみったれている。金曜日の燃えるごみは1時過ぎに回収に来る。久しぶりに車を運転したら頭をからっぽにしていても体が上手に運転してくれるので面白かった。ラジオをかけた。歌を歌った。株価を聞きながら歌っていたせいか、「えんがわ」を「えんだか」と言ってしまった。五輪真弓の『少女』。ラジオの人のしゃべり方は不自然だね。必要があってああなったんだと思うけれど。浅煎りコーヒーがうまく淹れられたので、嬉しくてパルティータを何度も弾く。卵とちょっとにおうサラミを焼いて、ザータルとオリーブオイルをたっぷりかける。あとトーストと黒ビール。午後1時。いいの。生きていく為にはしょうがないよ。献杯。

2012.11.18

どうして献杯なのか分からないのだけど、愉快な感じになってきている。

今日はお友達がたくさん家に来る。一緒に住んでいる彼の友達だけど、わたしも友達になったからうれしい。親しい人に友達が多いと友達が少ないわたしにも友達が出来るのでありがたいです。先日、以前お世話になった派遣会社からお仕事のお誘いメールが来て、一晩寝てエントリー希望するメールを返信してしまったんだけど、あれは焦った勢いでやってしまったな、落ちて欲しい!全力で選考に落ちてほしい!と思っている。なかなか仕事も金もないと卑屈にならずにいるのが難しく、このエブリデイ休日を楽しい気持ちで過ごすのが難しい。昨日なんかはもう考え過ぎなのじゃないか、何もしたくないと言いつつちょこちょこやり過ぎなんじゃないか、むしろ一日中何もしないで座ってるっていうのはどうだろう、さすがに1週間も続けたら、とにかく働きたいと何か閃くんじゃないか?インドのお坊さんだって一日中座って、米なんか人様にもらって、じゃあ働けよって感じだけど、日本でそれが受け入れられる場所って言ったら精神病院?だったら家でやろうよ、ローコストだし。一日中座ってる、という行為と思想は自分としてもすごく受け入れがたいのだけど、この受け入れがたさの元はなんだろう、この都市化した我が脳よ、てなもんです。すごく、はがしたいんです。苦しいんだけど、でも何でもって自分をアイデンティファイしてるのか、何がないと駄目だと思ってるのか、でもそれは本当にそうなのか、今まで教わってきた事、自分が感じてきた事、それはこれから自分が生きて行くのに本当に必要なのか、誰もこの先の時代を生きた事が無いのに、どんどん価値観が変わって、人生観が、宇宙観が、幸福観が、これをやれば幸せになれる、これをやるのはあなたの為に良くない、こうであれば他人に受け入れられる、それが誰にも分からない、自分にもあなたにも通用する万能な法則なんてなくて、ただただ自分に純化していく以外なくて、無自覚な自分を幸福にさせまいとする思い込みをなんとかはがして、わたしが持ってる言葉にならない大切なものに付加価値をつけてあげたいんです、それで脳みその目一杯、体の目一杯使ってあげたいんです、目一杯使って出来る事をやりたいんです、脳みその一部を、ハートの一部をオフにしたやり方で仕事を長時間させたくないんです。だんだんそういう人が増えて行くと思うんです。月々このお金をもらう為に売ってる物が何かに気付いて行くと思うんです。過去の価値観がばっさり変わって行ってると思うんです。わたしはその人達に宛てて何かをプレゼンしたい、それでもって経験が豊かになる、その人の宇宙が少し広がる何か。そしてそれが一体どんな仕事なのかってぇと振り出しに戻る。

2011.11.26

「全力で選考に落ちて欲しい」のところで、やっぱり働きたくないんかいってので、笑う。

求人に出会いました!なんだかよく分からないけど、わたしにぴったりなんじゃないかという気がしています。仕事はどんな風になるかな、何年か続けたいな、仲間が出来るかな、働いてお腹の余ったお肉がなくなるかな、という具合に、わくわくしてばっかりです。待っていた甲斐がありました、去年の9月から待っていた甲斐がありました、なぜ働くのか、なぜ働きたくないのか、自分の内なる欲求と無意識と向き合うこと半年、いろいろな階級でこんがらがっていた自我を少しずつ手繰って、後退しているかのような牛歩の歩みで進んで参りました。そして!そそそして!・・・やっぱりね、なんか嫌だな、なんかしっくりこないな、自分のあり方と出来上がった仕事が矛盾するな、という時の、そんな予感のする時のじっとりした体感は、信用して良かったんだな、と思う。それ大切にしないといけないよな、そうだったよな、よかった間違えなくて、そして信じててよかった、矛盾のないぴったりの仕事と出会う、それを実現するのは、それが可能なことだと信じて、そうじゃないものが結局に自分は相応なんだ、という下方に自分をランク付けしてしまわないで、自分には自分にぴったりの仕事をする価値があるんだ、というところに頑張って自分をランク付けしてしてあげる、迷っても、疑っても、ランクを下げないでいるしかないんだな。自分の良いと感じることの良さを、充分に、あるいはわたしよりも深く、理解してくれる人と出会って、結婚もすることになって、それで仕事も自分にぴったりの自分の良さを生かせる仕事を見つけようなんて、どっちにも出会えない人がたくさんいるのに、両方欲しがるなんて贅沢じゃないか、と言われた、そういう風に考えるやり方もあると思う、だけどわたしが持っているなにかきらきらしたものを感じてくれて、大切にしてくれて、そういう人と出会いたい、そういう仕事に出会いたい、その部分で必要とされたい、そしてそれを実行する、フィードバックがある、それは肉体を持って生まれたらそんくらい、せめてそれがあると思って、そんくらいの喜び目指して行こうよ、その為にわざわざ肉体持って生きてるんだよ、それが身体の意味だろう、と思う訳です。皆等しく可能なことだと思う。ところで、先のことを考えないで、先のことを決めないでいる限り、未来は未来として存在しているんだな、ということにこの間気がつきました。

2012.1.19

おお!年が明けたら、展開した!す、すごい浮かれています!

そうだ、昨日の日記に書いていなかったけれど、今自分で日記を読み返していたらこれは書いておいた方がいいのではないかと思ったので書きます。1月に決まった仕事を、先月末で辞めてしまいました。急でした。でも予感はありました。思考の遍歴を書いていないので唐突な感じね。愚痴っぽくなるからね。でも続けたい気持ちを持ちながら、そこに向かってそうせざるを得ない根拠を一つずつ積み上げている感じでした。ぴったりと思ったがゆえにかえってギャップの大きさを強く感じてしまった。でも出会った人たちがとても素晴らしかったので、その為の色々でした。生活を整えるということにもっと意欲が出てきました。ちゃんと食事をとるということ、質のよいものを食べること、季節に合わせて身体を調整すること、空間の気を保つこと、それをするとこうなった、という実感を積み重ねてその感覚を信じること、その日常の中に、他人の世界感が込められたものを使うことで複数の宇宙を介在させること、身体や意識の感覚の中で自然とリンクしている部分をいきいきとさせる工夫をすること、多分、日々の生活を整えることで、自分の中の要素をハンドル出来る割合を出来るだけ大きく保つことが出来る。それがわたしの今のテーマです。

2012.4.3

辞めた〜…!

なんか、カフェとベーカリーとアパレルの3つが合体したお店の新規オープンスタッフだったんだよね。

もしもし…あ、うん、久しぶり~、うん、へーそうなんだ、そっかあ、うん、じゃあ、起業する?いやいや、まさか、そうだよ~、うん、そうかもね、ああ~、そう、そうね、いやそんなでもないけど、まあね、確かにね、それか…起業する?だったらさ、起業する?一人お花見しようと思って、起きて、リュックに詰めて、水と、コーヒーと、コーヒーミルと、やかんと、ドリッパーと、ガスと、ライターと、チョコのパイ買って、そしたらコンロじゃなくてバーナー持ってきてた(分かり辛いか)。初めて行った公園に桜がばーっと咲いていて、ここで一服しようかなと思って座ったものの、なんだかぼわ~としてくら~っとしたので新緑の林の方へ行きました。桜のパワー。花粉かな。何か入ってるかな、トリップ作用。新緑がかわいらしくてたまらん!おいしそう。ちゅっとしてぱくっとしたいですね是非。アルカロイド入ってるかな。生まれた西暦の下2ケタと、今の年齢を足すと全ての人が111になるんだって。びっくり?それってすごいことなの?算数苦手なのでそれがすごいのか普通のことなのかよく分からない。だけどとにかく111ってのがすごい数字なんだって、古いものが出て新しいものが入ってくるんだって、人から聞いたんだよ、根拠なんて知らないよ、そんなすごかったらしい111が終わりました。なんかだらっとしてました。今日から30さい。

2012.4.13

う〜ん。どうすんだ。確かに古いものは出たのか…?

砂浜で落としてしまったダイアモンドのビーズを探している感じ。海に落とした訳じゃないから、諦めない限り息しながら探せるのだけれど。ヒグマに食われる、と思った時、ヒグマを殺して自分が生きることの正当性が分からなくなる場合もあるだろう、自然に寄り添って生きようとしたら、ヒグマがより自然に寄り添って生きていることが深く分かるのだろう。これは憶測だけど。やっぱりわたしには生きるということや仕事ということがよく分からない。わたしは何の為に五体満足なんだろう。これまでの仕事のいくつかは、楽しかったし、すばらしい経験もした。そして? 古い画集のシリーズを見ていたら、あまりの重さに頭がくらくらした。アートは、特に近代のアートは人の暗さにアクセスする、掘り出すものなのね。映画も、コンテンポラリーダンスも。中世の音楽家が、標題音楽は絶対音楽よりも低く格付けしたのも今なら共感する。テーマを作品としてある形式に昇華させる実力が必須だったのだろう。だけどそんなルールが無用になってしまって、今や心の傷を、えぐられた痕を、生々しい、塞がらない穴を、乾涸びた、変質した、すべすべの美しい肌への渇望と不安を、どうしてこれを見て以前のわたしは平気だったんだろう。本当に危機を感じたことがあると、悲鳴の意味が分かってしまうので聞きたくないの。わたしのする何かが誰のどこにつながっていくワークか分からない。土を均して、自分の食べる物を作るために五体を使うのだったら、分かるんだけどな。色々そぎ落としたらそんなことしか分からなくなってしまった。

2012.5.23

う〜ん。なんか混乱してるね。混乱してるけど、なにか、獲得しようとしてるね。

書き始めてアップしないままの日記を2日分溜めているうちに月が明けてしまった。なんだかもやもやしているのだけど、分かったこともある。この世界について分かったこともある。自己肯定感の弱さと異性に対する憎しみ、あるいは不信、あるいは要求の満たされなさ。自分の見える範囲に起きているいろいろなこもごもの動機になっているもの。その分量。自覚の無さ。わたしは今働いていない。働いていなくて毎日どうやって生きているんだろうと思う。何をしているんだろう。特にどうということもないのだけど一日はあっという間だ。すぐに夜。一日が足りない。色々な思考、色々な先入観、一つずつ引きはがして、矯めつ眇めつ、捨てていく、やりたくないのにやっていることを全部辞めてみよう、本当にやりたいことだけに力をかけよう、そう思って、時間をかけて、やりたくないことを全部辞めたら本当にやりたいことだけが残ると思って、実際にやりたくないことを全部辞めたら、そこには別に何も無かった。驚いた。最初は本当に驚いた。最近よく雨降るね。それであれーと思ってもやもやはしているのだけど、なんだか気持ちがくるっと一回りして、でもこれで良いんだと思った。生きてるし、いいや。自己肯定感の弱さと、異性に対する憎しみを動機にすると、他人の心にダメージを与えてしまうから。どんな仕事でも、どんな表現でも。大きなものでもかけらでも、ダメージ。満たされていて、心に欠けがない状態にまだなっていないうちに、何かを人に与えられるものが何も無いのは良しとしよう。追われてないし、やらされてないし、満たされていない心の状態には適時向き合って行くとして、何も無い、何も無いけど、パソコンで情熱大陸の動画を見て、同じ人を2回見て2回とも泣いて、他にもたくさんの人を見て感動して泣いて、何も無いけど、洗濯した洋服に着替えて、スーパーに行って、安かったアジの刺身が楽しみだなあと思いながら帰って、光が眩しくて目を細めて、ああ、わたし生きているなあ。いっか。これだけあれば十分か。自分が、こうしてみようと思ってすることは全部正解で、それ以外に正しいことって無いんだな、正しさって、比べられないんだな、やらされてやったことでなくて、したいと思ってやったことがその人を作って行くんだな、その人を導いて行くんだな、それだけでいいか。自分の生きている時間。全部辞めたら何も無かった、ただ生きている肉体と心があるだけだった、それを体感している、今わたしが感じていることが他人と共有出来ない、する必要の無いわたしの財産なのだ。わたしの中では、世界の社会のシステムも政治も金融も既存の価値観も崩壊しているので、直感にそってクリエイトしたものがわたしの世界になる。だからもう勉強もしなくていいし、常識、セオリーは生ゴミみたいなものだ。そこから始まるざんす。もう大丈夫。というわけでよろしくね!

2011.6.4

待った挙句にドンピシャだと思った仕事にフラれ、真逆にシフトし始めますね。

なんか、今初めて、この日記書いてる人と一緒に暮らしてた婚約者どのが、「えらいな」と思った…。

帰りの混んだ電車の中で、文庫本を読み始めて、そのまま、人にたくさん囲まれたまま頭が本から受け取ったイメージの世界に体半分浸かった軽い興奮を続けたくて、電車を降りずにこのままずっと読み続けていたい、と思う。初まりも終わりもなくて今がずっと続く、ずっと子供のままみたいな、そういう時間の感覚をわたしはもう嫌じゃなくなって気に入り始めている。たまに外に出ると、空が突然ものすごく美しかったりするので、そんなすごいものを見せてくれるの、ありがとう、と思う。今週は外に出る用事が多くて、毎日外に出るとメモリがいっぱいになっちゃう感じがして、次の日は一日寝ていたくなる。毎日仕事に出てた時もあるのにな。でも過去の自分の感覚は他人みたいに遠い。今感じているものがわたしにとって真実だし、本当は、誰にとってもそこにしか真実はない。

2012.6.14

ほう。なんとなく、感性が本質的になり始めてる。

苦しい、喉が渇いて。言葉を、言葉を。梅雨の終わりは頭痛が辛い。これが明けるとうんと暑くなる。視界の隅に黒いもやがたまに飛んでいるのが見える。雨の向こうでソナチネ。一日で映画4本見たので、あたまが水吸ったスポンジみたい。みんなで赤いカレーを食べて幸せだと思ったけど、言葉にするとずれてしまう。感情が生まれて、言葉になって、頭の中で、一度、留めずに、そのまま感じた瞬間に外へ、自由にさせてあげて。制約を外す事が出来れば、外せた分だけどこへでも行ける。美しい湖がある拓けた、緑の美しい場所、空が広くて、短い間でも長くでも、求めたら行ける、自分が自分に科している制約さえ外せれば、それぞれ違う現実を摺り合わせられない社会のシステムから、植物の放射能汚染を気にする日々から。放射能の問題といつまでも付き合って行くのは嫌だな。それがわたしの生活だということをわたしは受け入れない。ということを決める。わたしの居場所は東京でなくても、日本でなくてもいい。子供の頃の方がそのことをよく分かっていた。日本の裏側の国だって、指が5本で、ボタンのシャツを止めて、歩いたり走ったり、キスしたら興奮して、裏切られたら傷つく、こんなにも同じ生き物が住んでいる。不思議だなあ。現実がずれていく。目の前にある家、マンション、道路、街路樹、車、草、それがそうじゃなくなっていく。そしてそうなるのを待っていた。ずっとね。子供の頃からずっと。祈るの?何に?願いを叶えてくれるのは自分だよ。感謝?全てに。ここにある全てに全てのものがある。わたしが、足の裏をくっつけてるこの世界と同じ場所に。今はまだ…全ては見えないけど、多分、多チャンネルになってて違うチャンネルに死んだ家族とか、わたしの発した言霊とか、植物の発してるエネルギーとかが、同じく共有してるんだと思う、地球を。まだ見えないけどね。生きているのに死なせないで、あなたが赤ちゃんの時に持って生まれた感受性を。そして生きたまま死んでいく、社会人としての人格。そんなによく出来ていない、そんなに成熟していない、人の心を支えられる程の強度は無い、今わたしの選んで住んでいる社会はね。人の痛みは共有出来ますか?見た事のない遠い国で起きている悲劇を、想像したり自分の痛みとして理解したとしてもそれは嘘だからね。作ったものだからね。「分かる」というのは、今この瞬間に自分の身体が体験していることしか分からないんだよ、それ以外のことは頭が作った疑似なんだよ。だから、許してあげて。自分で自分に罰を与えることから、自分を許してあげて。

2012.7.3

なんだか、抽象的になってきました。仕事してないんでリソースがそっちに行ってるんですかね。

自分が人と結婚するなんて数年前まで考えられなかったが、結婚式の準備をちょこちょこ進める。全然知らない世界だが、ちょっとずつ知って行くしかない。そしてこれまで育ててきた自分の感性や価値観を使って、新しい世界に対しての理解を育てて行くしかない。「理解」とはなんと主観的なものよ。ゴミを出しに外に出たら、歩道の真ん中で蝉が広がってつぶれていた。蟻のごちそうになっていた。家族を亡くしてから3年経って、このままこういう風に働いて行くと自分の嫌なものになるな、と思って、やりたくないことをやらないことに決めた。後から身についたものでなく、わたしが生まれた時に持っていたはずの好奇心と感受性でぶれようの無い一番下層の気持ちをキャッチするのは、自転車に乗れるようになるみたいに難しい。でもきっと、一度出来るようになったらハンドルし続けるのは難しくないのだと思う。仕事は楽しかったし、本当に楽しかったし、面白いものも素晴らしいものもたくさん見たし、とてつもなく美味しいものもいくつも食べた。刺激的で、脳の隅々まで使って、身体を使って、移動して、わたしは世界と関わっていた。働き始める前の学生の、わたしは学校という空間が本当に嫌いで、そこでは眠っているようだった。本当に長い事眠っているようだった。働き始めて、わたしは持っていると信じていた自分自身で自分を生き始めた。肯定されていた。受け入れられていた。それは眠っているような状態でいる時に感じられなかた、わたしの望む事が自分を作るという感覚だった。野心があった。人の心を計算した。身体を無視し続けて、心の悲鳴も聞いた。そこに存在し続けられないくらい、他人が怖くなったり、失望したりした。あの時受けたさまざまな刺激が、もう充分とか、わたしは見るものは見たとか、そういうことではないのだけど、数年という短い時だったけれど、わたしは自分で選んだ仕事をすることを、誰からも求められなかった。肯定もされなかった。自分が選んだ。そういう人ばかりが集まって仕事をしていた。家族を養っていた。誰にやらされたのでもない。自分で選んだことだった。そういうステップだった。今は違う。今年の夏はエアコンを買ったから千客万来。そこも去年の夏と違うところ。作業効率の上がる事と言ったら。先日友人が来てくれて、4人で一緒にお腹いっぱいご飯を食べた。ディズニーシーのシンドバッドの歌を何度も歌っていたので気になってネットで探して聞いてみた。あれに感動する人がいるのは真実だからだ。損得、利害、のニ極したレイヤーで物事を見るより、損得、利害を超えたその一つ上の階層で物を見た方がより多くの情報を扱えるからだ。という側面からこのことを子供に伝えてくれる人がいたらいいと思うけどどうだろう。

2012.8.7

そして、結婚するんですってよ!!全てをリセットしてのち!!

そう。ちなみにここで「仕事」と書いているのは、大学3年時から初めた舞台の仕事のことだ。そこでは演出助手と作曲と指導者と演者をやった。超ド級の俳優さんの長回しを日々見るような仕事で(舞台だから)、しばしばお供に指名され、不相応なお店や、隠れ家的なお店の美味しいものも、たくさん食べさせて頂いた…。

この日記を読み直すのを機に、自分が出演した作品のDVDも見たよ…!良い曲書いてた。セリフも言ってたよ…ほとんど忘れてた…。演奏もして、悪くない、けど「良い!」という程でもねえか…。その後、つながりのある人とは引き続き音楽や、映像の仕事、フライヤーを描く仕事を引き受けたり、は、少しあった。

そして、やっと、サターンリターンが、長い長いリターン期間が10月6日に終わり、その2週間後挙式…。

その後。

確か、もやもやした重たい水の中を進んでいるような感じがあったはずだったけれど、今思い出すのは、何を思い出しても幸せな気分だ。すっきりした、少し見晴らしの良い丘の上にいるような、少しだけ冷たいいい匂いの風が顔に当たって流れて行くような。自分が使えるお金は本当にちょっぴりしか無いけれど、自分と向き合う時間はたくさんあるのだ。無駄にしなかった。そんな気がする。やや薄着の人ごみの中を、厚着してもこもこになったわたしが一番昼の短かくなる日に向かって歩いている。肉体は両親と深いつながりがあるけれど、魂は全然別のところからやってきたのだという気がする。父親と母親同士には魂の結び付きしかない。人間の脳が10%しか使われていないらしいみたいに、自分の本質を掬い取っている分だけ、同じく掬い取っている他人と出会うような気がする。自分の思考パターンや、対象のあいまいな不安や焦りを、少しずつ時間をかけて紐解いて行くと、少しずつその下に埋もれていた、子供みたいな小さな好奇心や、好きという気持ち、楽しいという気持ちが見えるようになって、それをもっとよく見えるようにするのを、迷いながら、後押しされながら、やめずに来て、あらかた社会と関わる部分にまつわる自分の謎が解けて行き、そろそろ最後かなということろで残っていたのが、「三つ子の魂百まで」。いかにも…。三つ子の魂三十まで、としたい。「愛」とは、というのはわたしは結構謎だったのだけど、「好き」とか、小学生の時隣の席の男の子が利き腕を骨折して、わたしはその子が好きだったんだけれども、結構甲斐甲斐しくお世話を焼いて、世話を焼く、というのと「好き」を勘違いしたんだな、と思った、勘違い?「好き」に勘違いはないんじゃないのか?「好き」だったら「好き」じゃないのか?そこには自尊心とかエゴとか庇護欲とか他のものも色々混ざっているのだろうけど、「好き」もあってそれは嘘ではないんじゃないか?そしてさらには小学生の時、大抵3人くらい好きな男の子がいて、それをよく日記に書いていたのだが、等しく並列に3人、それぞれ違うように好きで、でも本来「好き」という気持ちは自由にいくらでも生まれる気持ちなんだ、ただ純粋に、ものでも人でも、「好き」だなと思う瞬間や時間や思い続けることは、人の感情の中でもとってもいい事で、世界を続けて行くとっても大切な気持ちだ。柔らかい土に水を撒いて、ぽこぽことたくさんの芽が、出たり、出なかったり、まちまちに出たり、枯れたり、伸びたり、するのと現象としては同じような、そしてそれはその人を守るあたたい気持ちだ。大切なものだ。じゃあ「愛」は?なんだか気持ちのよい風のようなもの。相手に向かって生まれて、そのまま流れていくもの。どちらも概念じゃない。身体の状態なんだ。言葉は手に取って触ることができない。どこまでもひたすら曖昧なものだ。粘土のような、絵の具のような、子供の工作のような、ラフさがあって厳密じゃないものは得意だけど、定規で測るような厳密な物はわたしは向いていない。言葉というツールは好きだけど、どこまで行っても厳密になれないところが扱いやすいんだと思う。だけど、触って、温かい、丸い、ちょっとごつごつした、まだ香りのする木彫りのボール、という手に取れる実感はない。地に足のついた、という状態がずっとあこがれだった。誰とハグをしても、いつも薄皮一枚挟まっているような違和感があった。それが無くなった時、ああ、「愛する」も「愛される」も自分しか出来ないんだな、誰にも手伝えないんだなと思った。だけどそこまで至る道を、何人もの人がたくさん手伝ってくれた。そうこうしている日々の中に、素敵な友人たちが、心からにこにこして、楽しそうで、幸せそうな顔をしている日があった。結婚式ってその日で何かが終わるのじゃなくずっと続いて行くんだなと思った、そのことが本当に嬉しい。

2012.11.9

これが…サターンリターンを終えた翌月の日記ですね。「誰とハグをしても、いつも薄皮一枚挟まっているような違和感があった。それが無くなった」なんて、実に感動的じゃあないか…。

この期間のぐにゃぐにゃをですね。覚えているような気もするけど、すっかり忘れていた。多分、覚えているような気がするだけで、体感はもう思い出せないんじゃないか。読み返してみればなるほど、今のベースになっている部分もいくつもある。そういえば、考えてみれば、ここで仕事を辞めて以降どこか外で働くということを一切してない。考えてもない。そして夫婦でお店を持って今に至る。

いやあ…。

無茶苦茶脱線しちゃったんだけど。

自分の日記を読み返していて、「おや?なんかどこかで見たわ」と思ったんだよ。RMくんの言ってることと、ちょっと似てるなあ…?……似てもないですか。なんか、ニュアンスというか、いや、似ていると思った部分だけ引用しようと思ったんだけど、似てない部分がなんか、自分で面白くて、つい全体を引用してしまった。


…………。

RMくん、サターンリターン中なんじゃ…ないかな?


…と思ったら、案の定!!
彼は、魚座の土星でした!

ちなみに土星が魚座に滞在する期間は
2023/3/7~2025/5/25、 2025/9/1~2026/2/14

note : サターンリターン🪐と、2025年のももたろ

ですってよ奥様、

映画『RM:Right People, Wrong Place』です…

なるほど…!!


それでは、また!




いいなと思ったら応援しよう!