【ショートショート】トシオのバタフライ
大切な家族に見守られ、トシオは今長い人生を終えようとしている。
薄れゆく意識の中で、トシオは1つだけ心残りなことがあった。
トシオは、家族から嘘つきだと思われていた。
トシオは昔、水泳の強化指定選手であったのだが、そのことを家族が誰も信じてくれなかったのだ。
オリンピックも夢ではないと言われていたが、
怪我の影響で、志半ばにして引退を余儀なくされた。
トシオのバタフライは、当時日本一の速さを誇っていた。
しかし、トシオの過去を知るばあさんが早くに亡くなってしまったこともあり、子供達、孫達は、トシオが自身の水泳の栄光時代の話をすると、「また始まったよ」とケラケラ笑い出すのだ。
98歳。老衰で亡くなる。
大往生だ。
ただできることならば、当時日本一だったバタフライをみんなに見てほしかった。
そう思いながら、トシオは息を引き取った。
目が覚めると、トシオは川をまたぐ橋の前に立っていた。
トシオは直感で気づいた。
橋の下を流れる川が"三途の川"であると。
そして、この橋を渡った向こうが、”あの世"であると。
(楽しい人生だった…)
トシオは橋の上を歩き始めた。
橋の上を歩いているとき、ふと空を見上げると、先ほどトシオを看取ってくれた家族の映像が空に浮かんでいた。
みんなトシオを囲んですすり泣いていて、孫のタカシは、「おじいちゃーん!」と泣き叫んでいる。
(みんな…ありがとう)
そう思いながら、トシオは現世の映像の流れる空を眺めていた。
すると程なくして、息子のシンタロウが、話し始めた。
「お父さん…なんであんな嘘ついてたんだろうな」
トシオの顔が一瞬で険しくなった。
空を流れる映像の中の家族は、みんなクスクス笑い出した。
娘のチカコも、
「きっと天国でも、水泳日本一だったっていう嘘、ついてるんでしょうね」
と言っている。
(まだ言うか!!あいつら…!!)
トシオは怒った。
気づいたら、服を脱ぎ、パンツ一丁で橋から飛び降りていた。
そして、
三途の川をバタフライで泳ぎ始めた。
バタフライを泳ぐのは、実に80年ぶりくらいだった。
しかし、身体が覚えていた。
トシオはバタフライで三途の川をどんどん上流に向かって泳いでいく。
(みんな…見ておるか…これがわしの、これがわしの日本一のバタフライじゃ!!!!)
そしてトシオは、
生き返った。
「ブハー!!!」
布団から起き上がるトシオ。
家族はみんな驚いて言葉を失っている。
トシオはそんな家族を見ながら、言った。
「・・・な?本当じゃったろ?」