辻村深月さんが書く「タブー」の秀逸さについて
*特定の作品の内容に触れるものではありません
辻村深月さんの小説の中には、かつて幼心に植え付けられていた「タブー」とされるものが多分に含まれているように思う。
(韻を踏んでしまった)
たとえば、日常にどれだけ多くの無言の牽制が潜んでいるか、何かを隠そうとする気配に人がどれだけ敏感になるか、一人の頭の中に無数の矛盾する思考が存在するのがどれだけ当たり前のことなのか・・・というような。
私は、こういった物事が社会では「あってはならない事」「見てはならないもの」として無言の理解が下されているものだと解釈していた。
いつの間にか、誰に言われたわけでもなく、空気を察するにそういうことだと思っていた。
「こういうもの」とされる物事の良し悪しなんて小学校に入る頃には大体全員が分かっている気がする。
これは、日本で生まれた大概の子供が、ただ生きているだけでベラベラ日本語を喋れるようになるのと同じようなレベルの「分かっている」だと思う。
リレー大会ではなるべく頑張って走った方が良いことも、謝罪を受けたら許した方が良いことも、仲間外れを作らない方が良いことも、両親への感謝の気持ちを忘れない方が良いことも最初からわかっている。
それでも、実際に「良きこと」の方ばかりを選択することは不可能なのだと私たちは学んでいく。それは偏に、そうすることで自分に不利益が生じていくからだ。
こうして私たちは、正誤の狭間でバランスを取りながら生きていくことになるが、この「狭間」というのが明言し難い分、多くがタブーとして暗黙の了解を求められているように思う。
「そこに答えは無いんだから聞かないでくれ!」というやつだ。
あまり覚えていないが、小学校の頃の道徳の授業についても、やはりそのタブーに触れない範囲で行われていたと思う。
「考えること自体」が目的と言われた記憶があるが、結局は正誤の二択が存在していて、先生に指されたら「正」を答える授業なんでしょ、と私は理解していた。
それが実際と結びつくかどうかというのは、全くの別問題だということも。
そんな授業の中で、ただ一つ思い出に残っていることがある。
肝心の質問は覚えていないものの、「こういう時に自分ならどうする?」という形の問いだった。
他の人たちが「素直になって謝る」「自分が悪いと思うので謝る」といった「正」の回答をしていく中で、一人だけ「開き直る」と答えた男子がいた。
当時の私は、思えば「開き直る」という言葉をそこで初めて聞いたのだが、聞いた瞬間に一瞬でそのニュアンスを理解して、心から笑った。
その時は、先生も含めて見える範囲の周りもみんな笑っていた記憶がある。
どうしてあんなに面白いと思ったのだろうか。それは、単に彼が「正」を答えるというルールを逸脱したから、というわけでもない。
同じ「謝らない」という選択肢でも、「どうでもいい」とか「絶対あやまらねー」などという回答では笑わなかった自信がある。
おそらく、その言葉のニュアンスが示す「人間性の妙」的なものが、自身が捉えるリアルに極めて近かったからなのだと思う。
開き直ることが実際のやり取りの中で自身や他者にとって利益となり得るかはさておき、彼はその瞬間、確実に教室内で「40いいね!」を獲得していた。「良きこと」ではなく「いいね!」だった。
これはきっと、エンタメの一端だった。共感という言葉で表していいものか測りかねるが、彼の言葉は善悪と正誤のはざまを通り抜けて心に飛び込んできたのだ。
強引ではあるが、私が辻村さんの作品に描かれる「タブー」に抱く感情はこの時のものと似ている。
たいがいそれは笑うようなところではないのだけど、心の奥底まで飛び込んでくるその秀逸さを嬉しく思ってしまうのだ。
端から端まで優しい世界を描いた作品に「そうはならないよ」「そんなの現実ではありえないし」と幼い反感のようなものを抱くことが今でもある。
その点辻村さんの作品には「タブー」こと秀逸なリアルが必ずどこかに滲んでいる。現実に対して真摯な物語だと思わせられる。
だからこそ、結末部で一筋の光が射すような終わり方にも「そうであってほしい」と願う気持ちになる。
随所に描かれる「タブー」しかり、物語の構造的にも「あなたの浅はかな理解力で測れるほど人間は単純ではない」というメッセージが辻村さんの作品からは常に発せられている。
・・・という解釈も、もしかしたら浅はかなものであるかもしれないけれど、とにかくどの作品も本当に好きで、読んでよかったと思っている。
共感した、感動した、苦しい気持ちを思い出した、エモかった、痛快だった、遣る瀬無くなった、あたたかい気持ちになった、何かを見つめ直そうと思った・・・
そうした感想を抱かないことはないけれど、自分の感情はそんなものでまとまらない、という気持ちにもなる。だから結局「よかった」という一言に尽きる。
ペラペラに見える言葉だけれど、すべての意味を内包している。私にとってはこれも、「人間性の妙」を感じる言葉の一つなのだ。
この曖昧な世界を生きていく上で、辻村さんの作品が傍にあったことを、私はよかったと思う。