日本の都市計画の歴史(1)
はじめに
都市計画、というとどのようなイメージを持たれるでしょうか。
まちづくり、再開発、道路や鉄道の敷設、家を建てる時の建築制限……。
普段住まうまちは、歴史や決め事、文化、配慮、主張など、色々なものが複雑に絡み合い、出来上がっています。
人はひとりで生活しているわけではなくて、何らかの社会やコミュニティと繋がりながら暮らしています。その中では諍いは避けられないものです。諍いが起きないようにするため、諍いが起きたときに対処するために、人はルールを作ります。
人が住まうまちについてもルールを作りました。ルールはまちに影響を与え、面的な広がりを持ちました。ルールは建物や土地の寿命に従って時間的な奥行きを持ちました。まちは絶えず変わり続けるものなので、ルールは計画という手段を持ちました。
過去、その時々で目的や制定した人は違えど、都市法とは、そんな人々の暮らしの知恵や経験に基づく、良く住まうための決まり事を明文化したようなものかと思います。
いつまで続くかわかりませんが、そんな感じの分野を記憶と本を頼りにゆるゆると概観していきたいと思います。
日本の都市計画の歴史(1)
日本における近代都市計画は、1884年の東京で始まりました。当時の東京府知事芳川顕正が、内務省に東京を近代都市として改造するための「東京市区改正意見書」を提出しました。内務省はこれを受けて「市区改正審査会」を設置し、内容の検討を行いますが、ここで多くの反対にあい意見書は廃案となります。
しかし、芳川は内務大臣の山県有朋を動かし、1888年、「東京市区改正条例」を公布させることに成功します。この「東京市区改正条例」が、近代日本の都市計画の始まりだと言われています。
この計画では、路面電車の敷設のための道路拡幅、公園の造営など膨大な内容を含んでいたのですが、その後縮小改訂を経て実現化され、日比谷公園などを生み出していきました。
東京以外の都市においても人口の増加は顕著であり、この条例を準用する形で、大阪、名古屋、京都、横浜等に都市計画制度が根を張っていきます。
そして、1919年、この条例を全国化するものとして「都市計画法」が制定されました。
併せて、建物の安全基準についての条件を定めた「市街地建築物法」も制定されました。こんにちの「建築基準法」です。
都市計画法の制定に最も貢献したのが後藤新平だと言われています。彼は制定の翌年、東京市長に就任し、東京の都市改造に取り組みますが、志半ばにして2年の就任期間ののち、その座を去りました。
その後まもなく関東大震災が発生し、東京はその市街の44%を焼失しました。震災の直後に組閣された第二次山本内閣で、後藤は内務大臣に任命され、再び東京の都市計画に取り組みます。
帝都復興の大義を得た後藤は、焼失土地の買い上げを含む40億円超の巨大計画を立ち上げましたが、帝都復興審議会の反対にあい7億円まで減額され、彼が設立した帝都復興院も廃止され、山本内閣も翌年総辞職し、またも彼の思いは頓挫してしまいました。
彼の強い意志は、東京復興のための基本理念に表れています。
1)遷都スベカラズ
2)復興費三十億円ヲ要スベシ
3)欧米最新ノ都市計画ヲ採用シテ、我が国ニ相応シキ新都ヲ造営セザルベカラズ
4)実施ノタメニハ、地主ニ対シテ断固タル態度ヲ取ラザルベカラズ
今の常識からいえば、強権的かつ個人の意図が色濃く反映される手法はおよそ思いつかないものですが、迅速かつ機能重視の都市計画を実現するためには、このような手法も意味があったのかもしれません。
彼の計画は一部実現し、昭和通りや隅田公園として今も東京に残っています。
Tips
明治期の都市計画としてよく話題に上がるのが、日比谷の官庁集中化計画と銀座の赤煉瓦街区です。
どちらも西欧化のための顔としての意味合いが強く、住まう人のためというよりも、国家の威容のために作られた計画であり、当時の日本の焦りを感じさせるものでもあります。
参考文献
参考文献というほど読み込んでいないのですが、以下。
安本典夫(2017)『都市法概説(第三版)』法律文化社.
香山壽夫(2006)『都市デザイン論』日本放送出版.
川上光彦(2017)『都市計画(第三版)』森北出版.
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