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うっけつだいありー その二

 唸る空調の音でロビーは満たされています。外気の寒さを駆逐しようと躍起なのでしょう。とはいえ春の足音が近づくのは事実ですので、外の気温は10℃手前と言ったところでしょうか。東京では寒い日になるのでしょうが、ここでは、そうでもない日になるでしょうね。
 空気が淀むように感じたので、私は他の部員に荷物番を任せて席を立ちました。立ち上がった私にビバレッジコーナーの店員さんが軽く会釈してきます。まるで「お疲れ様」と言ってくださっているようでしたので、私は開いていたテクストを閉じ、シャーペンを筆入れにしまい、それをテクストの上に重石代わりに乗せました。
 空気が淀むとは言いましたが、恐らくそんなことはないのです。きっと私の頭が冴えないだけです。嫌気が差したのでしょう。私はじっとしていられない人間でして、すぐに苛々してしまいます。そして自らに向ける破壊的衝動を抱えながら歩いていると、エントランスの自動ドアが開きました。
 案の定、外気は澄み切っていました。頬に冷たい風が吹きつけて来る――と思ったのも束の間、耳や目玉やらは、それまで感じていた温度との落差に音を上げて、ささやかな痛みを伝えてきました。
 ひ弱ですね。
 デリケートとも言いますか。
 ですがその痛みはただ単純に痛いだけではなく、僅かにではありますが心地良いものでした。何というか「準備万端!」「我、これより散歩に突入す!」と感じているのです。それってなんだか、自分の生を感じられる行為なんですよね。長い一生のうち、惰性に生きる一生のうち、その一瞬間だけには意味を見いだせた、そんな気がするのです。知覚の後の誤認かもしれませんがね。
 そんなこんなで私は短い散歩に繰り出そうと考えました。東向きにエントランスを構える我々のホテルは、その裏手の数十メートル下に鬼怒川を見下ろします。その水面と我々の立ち位置がかなり離れており、川の両側は岩肌だったりコンクリートだったりが斜面を成しています。土手というわけではなく、山を川が侵食していったかのような地形です。ちょっとした渓谷のようにも見えます(渓谷の定義は知りませんがね)。この渓谷の上には、大きな橋が架かっており、我々のホテルがある西側と、駅へ続く県道か国道はたまた市道のある東側を渡してくれます。私はその上で、人通りの疎らな広い橋の上で、一人虚しく体操をしていました。
 昼飯を食べに行こうにも、バスが来るまで残り90分と時間が微妙です。店は歩いて20分ほどの駅周辺に集中していますし、決して優柔不断ではありませんが、私は守銭奴ではあるので入る店を吟味せずにはいられません。目当てのお店もなかったため、食べるまでに何分かかるか分かったものではありませんでした。断念しました。諦めました。お昼ご飯はゆっくり食べたいです。そもそも食べる気力もありませんでした。
 なぜかって? ロビーで課題をやりながら見ていたニュースが億劫で食べる気力がなかったのです。バスの中で腹を鳴らすのも癪でしたが、部員は悪いようには受け取らないだろう、などと胸算用をすると、元からなかった食欲は一切合切消え失せてしまいました。

 部員のことを考えると、唐突に、サークルの引退まであと半年だな、としみじみ思いました。私がほとんどを決めたこの冬合宿でしたが、生憎冬の日光の寒さを嘗めていたため失敗に終わりました。今触れているような寒さなど比べ物になりません。同期の一人は「葛根湯が欲しい」という程に震えあがり、風邪を引いてしまったと言います。そんな彼女は冗談交じりにこう言ました「コロナだったらどうしようか」と。彼女は結局ただの風邪だったので、それを聞いた時には安心しましたが、新型ウィルスの影は静かに、そして確かに我々を捕らえ始めていました。
 この時だってそうでした。彼女の口から零れた冗談を笑い飛ばしたものの、ロビーでニュースを見ているとなんとなく暗い気持ちになります。いえ、自分の心くらい性格に叙述しましょう。胸の中に何か冷たいものが、しかして燻っているように感じました。冷たい炎とでも言いましょうか、それが何かは分かりませんがね。静かに、黒々と、私の慢心を溶かしていく火。そこから立ち上る、煩く、一寸先も見えぬ濃い煙。それが私の心の大きな部分に引火し、満たすのはまだまだ先のお話です。乞うご期待です。
 メタい話はさておき、この頃の感染状況を振り返りましょう。都内の感染者は、2月下旬から緩やかに増加したように記憶しています。
 記憶です。
 この世で最も疑わしいものです。
 それから少し経って3月下旬に爆発的な増加を起こしたものと思います。コロナかもといった彼女に対して私は「そんなわけないだろ」と冗談交じりに言ったものです。今思えば愚かなことですが、当時はそう考えるのが自然だったのでしょうね。誰もこれほどの災害を予測していなかったはずですし、当時の私にとってまだこの災害はクルーズ船や中国、イタリア、フランスでの話でした。
 だから慢心したという訳ではありません。だから気持ちに余裕があった、そう言うべきでしょう。薄っぺらな余裕ですが、私たちはそれをかなり信用していました。感染予防に徹底さえすれば外を歩けるだろう、などと考えるのは、当時においては普通だったのです。私たちは善いサークルですし、コンプライアンス的にもよく考える方なんですよ? 巷では密になりながら映画を撮っていたり、隠れて練習しているサークルがあるなんて実しやかに囁かれますが、私たちにはそんな大胆なことをする勇気はありませんよ。
とはいえ、中国的な美をとり入れたという東照宮のある日光は、中国人客の多い実情を鑑みれば多分に感染リスクがあっただろうと考えてしまった節はありました。
 差別的です。
 善くないです。
 好くないです。
 日本にウィルスが侵入したのは、観光客に限らず、中国帰りの日本居住者だったりするそうですので、ここで先述の邪推を善いと断言することは間違っています。文化で民族や国を分けるのは簡単ですが、人の移動に関して人種や民族がどれほどの影響を与えるかなんて、考えるも不毛です。圧倒的に個人単位で考えるべきです。常に民族大移動していてはゲルマン人もびっくりです。チンギス=ハンもびっくりです。
 人間なんて結局、個々人を観察しなければ何も見えないのでしょう(あれ? さっきの話に戻っちゃってますか?)。人類は自身を測る普遍的な定規をいくつも持っているように振る舞いますが、その原基がどうも変則的で歪なもののように見えます。実際そうなんでしょうね。人類が自身について知っていることなど、全知に比べれば極めて無知に等しいのでしょう。
 ところで、文学は上記のような普遍的な定規ではなく、個人の特異性を描くものであるように思うのは私だけでしょうか。文学は、その点でいえば普遍なのですが、何か一つの基準を持ち合わせるということはないように感じます。違いを作るのは比較される作品たちであって、メモリではない。基準が基準になり得ずすべてが総体的なのです。それは裏を返せば、作品たちはすべて、その局所的な普遍を描いているに過ぎないとも言えます。その総体である文学から人類の普遍を発見しようとするのであれば、それは例えるなら、作品という角が無数にある多角形の石を直線状に切断していき、球体に近づけるのにも等しい行為なのです。我々はそうして球体となった普遍を発見したいのかと言われればそうではなく、全ての人間に共通する、一つの作品も切除されて考えられることのない世界を我々は欲していて、それを為し得る方法を模索しているのだと思います。その方法こそが我々に人類や人類の普遍を語る土俵に立たせるのであり、それが無ければ人間は永久に語れないと私は思います。
 何の話ですか?
 わたしにも分かりません。
「…………」
 そうでした、私は橋の上にいるのでした。私は歩きながら、ロビーで流れていたニュースを再び思い出します。そこに映っていたのはヨーロッパで多発した、アジア人への暴行でした。テレビは何かと「せんしてぃぶ」な映像を写します。
 教育に悪いです。
 心臓にも悪いです。
 ため息をつきながら欄干に――つまり橋の両脇にある手すりのようなもの――に寄りかかります。
 綺麗な川面を見ると、私は身を投げたくて仕方なくなりました。中学生の頃によく聴いた、今でも好きな歌にあったように、眼下に流れる鬼怒川の綺麗な青に飛び込めば、眠れるような気がしました。結果その中に私の醜い醜い死体を捨てることになろうとも、その眠りは私をそんな杞憂から遠ざけて、「ぷりゔぇんと」してくれるのではないかと期待してしまいます。
 ワクワク
 ワクワク!
 私は薄々気が付いていました。ロビーのテーブルで閉じられもせず、出しっぱなしなっているフランス語の中辞典や日本語が一切書かれていない文法ドリルをいくら開こうとも、私が一度は学校に認められ交換留学生に選ばれていたとしても、私はもう、フランスで学友と共に寮生活を送ることはないのです。現地の公園でマロニエやプラタナスの紅葉を目にすることも叶わないのです。私の留学は中止になる。なぜかそれだけは確信に近いまでに推測することができました。
 私は欄干に足をかけ、それからその上で片足立ちをしてみました。思えば空気を吸いに来たのでしたね。折角だからヨガでもやってみましょう。そのまま浮かせた足の裏(本当は靴の裏ですね)を軸足に固定して、手を頭上で合わせ、まっすぐ伸ばします。
 そういえば、なぜ靴を揃えて身を投げるのでしょう。死ぬのに必要な手順ではないと思ってしまいます。あって困るわけでもないのだから履いていけばいいのに。あの世まで歩いていくから、おくりびとは旅の格好をさせるのでしょうし……。
 まあ、何はともあれ立木のポーズです。不格好で、背筋も伸びていなければ、ふらふらと危なっかしいです。悪い姿勢が染みつき、猫背になった自分の身体を申し訳なく思います。産まれてきてごめんなさいなんて、心の綺麗な人みたいなことは言わないし、言えません。両親には私を産んだことを恨みますが、とりあえず日光の澄んだ空気を吸い、頭に酸素を行き渡らせましょう(立木のポーズはそういうポーズではないのだが、こういうのは雰囲気です)!
 スキー場の匂い、と私は呼んでいるのですが、分かる人はいるのでしょうか。冷たい空気を吸い込んだ時に感じるあの薪ストーブのような匂いは何なのでしょう。よく家族で行ったスキー場や、その近くのホテルで夜や朝に開け放った窓に吹き込むあの匂いは、寒さとその施設にある温かな薪ストーブを共感覚的な都合で結び付けた結果なのでしょうか。
 まあいいや、飛ぼう。
「何やってるんだい?」
 呼ばれて私は振り返りました。
 止められてしまいました。
 水を注されてしまいました。
 見るとそこにスピノザがいました。
「……いや、なんでだよ」
 思わず口調もぶっきらぼうになってしまいました。
 スピノザを知るのは5月くらいだったかと思います。仲の良い先生の哲学系の授業です。いえ、名前だけはそれまででも知っていましたよ? でもそれ以上のことを知るのはもっと後です。
 回顧と体験がごちゃ混ぜになっています。
 ぐるぐるーぐるぐるー。
 と、おふざけはそこまでにして、ともかく話しかけなくては、ゲームは始まりません。RPGの鉄則とも言えます。これは現実ですがね。
「神っていると思う?」
 多分あなたはその質問をしちゃいけない人だと思います!
 というか先制をとられてしまいました。電光石火です。
「神はいると思いますよ? だからもう放っておいてください」
「神は身を投げるなっていうさ」
 私は別にユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなければ、神道も仏教も程よく好いとこ取りで信じている冒涜者なので何を言われようと構いません。私の命は私のもの――ではないってのは分かってますが、やっぱり私が自由に決めたいものです。
 そもそも、なんでスピノザさんのオランダ語が分かるのでしょう? スピノザさんもどうして私の日本語が分かるのでしょう?
 そんなことならフランス語と英語が分かるようになりたいものです……。
「普遍文法というものがあるらしい」
「17世紀の人間がどうしてそれを知ってるんですか?!」
 普遍文法って20世紀とかの話ですよね? 言語がいい加減なら、時系列は破綻してます。
 それと地の文を読まないでください。
「本題に戻るけど、物事って何にでも理由があるって考え方あるじゃん?――」
 スピノザさんもそこに片足を突っ込んでいるはずです……。
 スピノザを読んだことがない人のために言っておくと(私の疑わしい記憶なんかにとよらないことをお勧めしますが)、確か神様ってのはその内側にあらゆる「法則」のようなものを持っている唯一の実体で、それ以外の事物はすべて神様から派生したものに過ぎないって感じだったはずです。まあ、『エティカ』しか読んでない私なので彼の全部を知ったわけじゃありません。徹底的にニワカです。
「――物事に何でも理由をつける人、嫌いなんだよね~」
「…………」
 あーあ、言っちゃいました。
 この人が言っちゃいけないことを言っちゃいました。言わせちゃったのは私です。
 スピノザさんの信者がいるかどうかは知りませんが(たぶんいるのでしょう)、その人たちに刺されかねません。先制はできませんが宣誓はできます。心より謝罪します。
 ところで、です。
「何の理由もないことがあるということですか?」
 私はスピノザさんに訊きます。
「理由のないことなんてあるように思いません。理由が無ければ発生はしませんし、存在もしないはずです。例えば、人間は理由のない行為をとれるって旨のことを言う人がいたり、『理由のない行動をするな』っていう、子どもに対する頻出の台詞があったりしますが、それは想定される理由とは別の行動をとる理由があっただけのことじゃないでしょうか?」
「それはそうなんだよ。物事には理由がある。それは絶対だ――」
 残酷にもね、とスピノザさんは言います。
 私はというと、歯を食いしばりながら呟きました。
 残酷――それには覚えがあります。
「――だけどさ、その理由や意図とは関係ないところで、被った不幸についてはどうよ? その結果もたらされた不幸だったらってことな。当然、被った本人には何の結果からもたらされた不幸かは分かるさ。でも、それは必然じゃない。偶然、結果からもたらされた不幸なのさ。だから、その理由に目を瞑りたくなるんだよ。自分が受けた不幸は理由のあることじゃなくて理不尽なんだって。たまたま運が悪かっただけだって、偶然なんだって……。まあ、そんな風に思う場合ってのは何も偶然だけでなく、必然性のある理由を抱える場合にも言えるんだけどさ」
 君はどうだい? そう言いたげな彼の横顔が、私の隣に並んでいました。
 いつの間にか彼も僕と同じように欄干に上っていたのです。
「一つ一つ、整理してみようか」
 足元を見ると水面と欄干との距離がかなりあって目が眩みそうでした。その間を、周りの山々から吹きおろす北風が吹いています。
 ここらへんで私の紹介をした方がいいですね。大遅刻ですが。
 私は大学生です。趣味は読書、得意なことはありません。しいて言えば、外国語が好きです。英語、フランス語、アラビア語を習いました。もちろん習得したわけではなく、アラビア語は文字が分かる程度、フランス語と英語は少し話せる程度です。性格は自分でも分かりません。一つ、気分屋だということは分かります。他人は私のことをまじめな人間だと思うらしいのですが、私は自分自身のことを信用していません。
 ああ、一つ私のことを表す言葉がありました。
 ズバリ私は、取るに足りない人間、です。
 そんな私は取るに足りる人間になるべく学校の留学プログラムに応募しました。2年の時に申し込み、3年の秋から派遣される予定です。正直フランス語のレベルは足りていませんでした。そりゃあそうです、まだ習い始めて2年目でしたからね。それでも何とか参加することができ、あとは派遣までの間フランス語力を高めるだけでした。
「でも迷っていた。辞退したいくらいに不安を抱いていた。そうだね?」
 なんということでしょう!
 スピノザさんは意地悪です。私の本心を言い当ててしまいました。
「そりゃあそうだ。不安がない人なんていないさ。でも君は、たとえこのウィルス禍が無かったとしても、その不安を募らせ、こんな風に欄干の上に立ってたんじゃないか? 逃げ出したくて、後に退きたくて――いや違うな、いつも上っていたんだ。ちょうど今日のようにね」
 核心を突かれた気がしました。いや、自分でも分かりません。ただ、私は下に流れる真っ青な鬼怒川に飛び込む情景を思い浮かんで、安心を感じていました。
「まあ、君の場合死にはしないだろうし、流されるまま向こうに行って、劣等感に苛まれつつ日本に帰ってきて、それから一か月くらいは優等生として扱われて内定もらって働くけど結局ボロが出て誰も寄り付かなくなる。そんなもんでしょ?」
 ぐうの音も出ません。そうです、それが関の山です。そして正論です。
「君はその劣等感を一生一人で死ぬまで味わい続ける。そういうように作られてるのさ」
 この期に及んで私は自嘲的なことを思っていました。
ほらね。こんな私なんだ。惨めだな。――なんて、他人事のように、神の視点から見るかのようにです。
「それって、私が身を投げる後押しをしてくださってるのですか?」
「さあ、どうだろうか。でも劣等感を消せる方法はあるぞ」
 粗野な言葉だった。きっと本物のスピノザさんはこんなことを言うような人じゃないでしょう。目の前のスピノザは、私が作り出し、私の一部になってしまった、可哀そうな模造に過ぎないのです。
「目を瞑れば楽になる」
 だから彼は微笑みました。陰惨に、凄惨に、悲惨に微笑みました。
黒々として目も当てられません。わー! 真っ暗――いえいえ違います、真っ黒だ!
 コイツは、結局私を肯定するのです。腹立たしいです。苛立たしいです。この期に及んで自分を被害者だと思っているのです。死んで全て終わらせちゃえ、などと、私に甘言を囁くのです。
 それが、私が作った幻想です。
 全くもって怒りを覚えます。
「君はフランスに行けるだけの能力はあった。でも運が悪かった。理不尽だ。仕方がなかった? どうだい、魅力的だろ?」
 甘ったるい言葉。
「君は努力なんてしなくてもいいのさ。劣等感を抱く必要もないじゃないか。やるだけのことをやってこの結果だ。誰も僕を否定しないさ。神はそういう風に作ったんだ。それじゃあ仕方がない。なあ? そうだろ?」
 彼はヘドロのように黒々と、どろどろと溶けだします。
 彼は私を抱いた――というより、のしかかってきました。そして耳元でつぶやきます。
「早く死なせてくれよ。目も当てられない私なんだろ? なんでのこのこ生きてんの?」
「悪いけど――」
 私は天災を呪うほど自分に甘くありません。直向きに努力し続けるほど謙虚・真面目でもないですが、すべてを自分のせいにするくらいには分際を弁えています。結局、自分に降りかかる不利益なんて、総じて自分の能力不足でしかないのです。
 ならば私は罰するべきです。
 全ての不利益を生み出した私自身を、未来の私という被害者のために裁くべきなのです。
「――私は私が嫌いでいたい」
 どろどろになった彼の腕を肩からはがし、僕は欄干から、橋の方へと降りた。
 彼はまだ欄干の上にいる。
「そうやって現実に逃げても痛みは消えんぞ」
 違います、私は痛みを、違う痛みで紛らわすのです。
 自分を罰する痛みを、生きることで生じる痛みで上書きするのです。あるいはその逆でしょうか。もしかすると一緒かもしれません。
 私は自分の分際を知っています。私が立つべき場所は、現実という拷問器具の上なのです。
 私は橋から、欄干から、飛び降りれば救われますが、それでは未来の自分に示しがつきません。私には、ちゃんと過去の清算を償ってもらわないと。
 降りかかった結果に対処できないような自分は、そのような私にした自分は、罰を下されなければなりませんもの。
 私はロビーに戻ります。現実に戻ります。いえ、現実から逃れられるなんてことはありませんし、欄干ごときで現実から距離を置けるわけではありません。訂正しましょう、私は救われることを拒みます。
「そうかい。なら、いいことを教えてやろう」
 振り返ると彼は元に戻っていました。変幻自在ですね。
「この世は最も善い世界らしい。すべてがいい様にできているんだとさ」
「…………」
「神は自らを助ける者を助けるのさ!」
「生憎、神は信じないたちでね」
 聞こえませんし聞きません。無神論者じゃないけど、神を信じたところで、私はこんな世界を善いとは思えません。結果に過ぎないこの世に善も悪もあってたまるか。

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