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うっけつだいありー その一

始めに

 秋から予定していた留学が中止になったもので、幾分暇になったかと思えば、私の家庭には色々諸々ありまして、鬱々としつつ筆を執る今日この頃であります。茹だるような八月の天気、やる気の湧かない身体。希死念慮に苛まれ、食べ物を拒み、気晴らしに噛みつく親指の付け根はうっ血して常に紫色です。
 どうしてこんなことになってしまったのか、どうしてこんな状況を回避できなかったのか、どうして私は「こんな風」なのか――いや、紛らわしいのでこう言いましょう、どうして私は「わたし」なのか。そんなことを考えるために、後の祭り的にあの日のことを書こうと思うのです。私の精神が崩れ始めたあの日のことを、現実が私に襲い掛かったあの日のことを。
 意味が分からない?
 それは私も同じです。
 よかったですね。
 じゃあ始めていきますね、「じゃぱにーず」な私が、「えまーじぇんしー」な期間に、何を「はーと」に思い浮かべたのか、少しの間お付き合いください。


二月七日

 この日は合宿の最終日でした。私たち明治学院大学文芸部は日光の鬼怒川温泉街で冬合宿を行ったのです。最終日は特に何のイベントも無くそのまま帰る予定だったので、私はおとなしくどこにも行かずに、ホテルのロビーで数時間ほど帰りのバスを待つことにしました。何人かのインドアな方々が一緒でしたが、アウトドアな一年生たちは街へ繰り出していきました。田舎とはいえそこは観光地なので、少し歩けばいろんなお店があったのです。
 彼らを見送った後、荷物番をしつつ、留学に向けての勉強を始めます。テレビが点いていたので新型コロナウィルスのニュースが流れてきます。覚束ないですが、あの頃はまだクルーズ船以外での感染者はあまり出ていない頃だったかと思います。ですが、ヨーロッパでの感染者が徐々に増えていたので、一抹の不安を抱えつつの勉強でした。
 そうそう外国と言えば、前の日に行った東照宮は外国の方でいっぱいでした。皆さん、団体ごとにあるいは相手ごとに違う言語を話し合っていたので、私としては興奮するばかりでした。もちろん、中国語と思しき言葉を話す方も例外なく多かったです(とはいえ英語が最も喋られていた気がしますが)。
 あ、勘違いしないでくださいね。私たちだって愚かではありませんから、中国語をよく知らないくせに、「誰それが中国人だ」などと決めつけることはしませんでしたよ? 中国語を話せる部員にちゃんと確認はとりました。
ですが、列の前に日本語をしゃべる人がいたり、拠点となるホテルのロビーや街中で入った店で日本人が接客してくださったりすると、どこか胸をなでおろすような気になってしまったのは事実ですね。
 もしかするとこれは、「今思えばそうだったのかもしれない」という邪推に過ぎないのではないでしょうか? いえいえ、そんなはずはありません。だって、そんなことを考えているうちに、ロビーの横にあるビバレッジコーナーの店員さんがご厚意でコーヒーを運んできてくださったのですから――あれ? 何かおかしいです。私は自分の家の納戸で日記を書いていたはずなのですが、いつの間にかロビーにいます。
 でもまあ、コーヒーはおいしいですし、まあいっか。難しいことは考えません。ミミズ腫れが増えるだけです――うっ血でしたっけ? どちらでもいいですが。

 ところで、私を含め日本人ってなんでこうも日本人であることに安心するのでしょう? 自己嫌悪でもなければ、他者嫌悪でもないのですが、民族なり国籍なり血統に誇りを持つのって「おーるどふぁっしょん」な感じがします。
 それが「ダメ」というのではなくて(実害がない限りそれは個人の勝手ですからね)、なんとなく「ダサい」という感じです。「ぽっぷ」だなとは思えません。どうしてでしょう?
 そもそも、日本人ってどこからどこまでを言うのでしょう? 日本国籍をもっていればみんな日本人ではあるような気がします。たとえ日本人の両親をもたない人たちでも、日本語がネイティブではない人でも、きっと私は彼らを日本人だと認めるでしょう。
 こんなことを言うといろんな方面からお怒りの言葉を受けるかもしれませんが、それは勘弁です。勝手に何かを怒る人がいるように、勝手に何かを思う人がいてもいいはずなのに、一方的に怒られるのは理不尽だなと思います。いやになっちゃいます。
 でも、いやになるけど言っちゃいます。そもそも日本なんて多民族国家じゃないですか。アイヌ民族は北海道の先住民だし、ウチナーだって一民族です。大和人だってもっと細分化できるはずです。だから、大和人が多いから日本人=大和人みたいな雰囲気になるのは違うと思うのです。言いながら自分でも正論を言っているだけで空しい限りなのですが、そこはやはり譲れないのです。
 いや、そういう雰囲気が生じるのは仕方ないと思いますよ? そうやって他民族を虐げてきた大和人は、最近になってようやく「それは違う」って方向に傾いたのですから。まだまだ前途多難です。でも言っちゃいます。それに対応できない「おーるどふぁっしょん」な人たちが、いかにも「自分たちが正しい」というような顔で暴力的な面構えで、我が物顔をしながら日本を闊歩するのが癪です。
 そうです、言ってやればいいんです!
 うがー!
 私に5000兆円寄越せ!
 うがうがー!

「騒がしいわ! 黙らんか!」

「…………?」
 声が聞こえました。
 繰り返します。声が聞こえました。
 低く猛々しい声でした。
「誰?」
 私は震えた声で問います。そりゃあもちろん、私のコーヒーブレイクを邪魔してくれるような、好奇心に溢れた(というよりは溺れた)人間がいるとは思いもしませんでした。もしかすると人間じゃないかもしれませんが。
 あれ? 邪魔されたのは日記じゃないですか?
「誰?」
 もう一度問います。すると先ほどの声の主は答えてくれました。
「倭王、武だ」
「…………え?」
 絶句しました。声は出てますが。
 なんと古墳時代中期の人です。天皇――ではなく、その頃は大王というのでしょうか。まあ、とにかく古墳時代中期の偉い方です。
 日記への干渉どころか時空を超えちゃいました。
 というか、自分のことを「倭王、武だ」なんて、紋切り型の名前で名乗る人、初めて見ましたよ。そんな方がいるとは……。
「一つ忠告なんだが、俺は別にお前の日記に干渉しているわけではない」
 干渉するつもりもない、なんて言いました。そんなことを言ったって、事後通告は万死に値すると思います。
「そもそもここはロビーではなかったのか?」
 古墳時代の方が、古墳スタイルの方が、ロビーなどという「ぽっぷ」な(?)言葉を使うとは、なんとギャップの大きいことでしょう。もはや萌えてしまいます。
「なんか言ったらどうだ?」
 絶句している私に発話を促してくださいました。それはそれは身に余る光栄です。
「ああ、はい……。ここは、ホテルと言います」
 間抜けな回答に頭を抱える武さん。タケルさんでもタケシさんでもありませんよ? ブさんですからね、ブーでもありませんしフーさんでもありませんし――この先は著作権が許さない? じゃあ仕方ありません。
 閑話休題です。

 とはいえ、ブさんとは呼びにくいので倭王さんと(もちろん大王とか、雄略天皇とも)呼ぼうとしましたが、あくまでも武と名乗ったからには倭王の武さんなのでしょうと一人合点し、結局、武さん、と呼ぶことにしました。別に私が実際にその時代で目の当たりにしたり関わりをもっていたわけではないのですから、呼び名は適当でも妥当なのでしょう。
 適当すぎますか?
 すみません、適当な作者で。基本的にフィクションに甘えれば何とかなると思ってます。
「日本人ねえ……。なんだろうね」
 蓄えた髭を撫でながら武さんは考えます。人は考えるとき、あらぬ方向を向くらしいです。あらぬ方向と言っても、目を合わせたり、何かを見たりはしないというだけですが、露骨に現代人のように見えるので少し微笑ましかったです。
「日本人って、見た目で日本人かどうか見分けがちじゃないか?」
 言われればそうです。ぱっと見で「あ、この人日本人じゃないな」とか思ってしまいます。いやな話ですが。
「思うんだが、そうする割にはその精度って良くないよな」
「そうですか?」
「そうなんだよ。あれって先入観らしいんだ。自分は日本人であって、中国人じゃない、朝鮮人じゃない、タイ人じゃない、モンゴル人じゃない、って思うと、自分のなかに日本人の基準となる顔を作るんだか何だかってこの間テレビでやってた」
「武さん、テレビ見るんですか?!」
 驚きですが、死人に口があるのだから目もあるだろうし霊界にはテレビもあるのでしょう。第一こういう風に顕現しているのなら、日本中、いえ世界中を旅しているの可能性だってあります。幽霊のできることは無限大です。
「俺は幽霊ではない。君が勝手に作り出した幻想だよ」
「ああ、そういうことですか」
「だからこの知識も、君がどこかで見た断片的な知識が私という幻想の口から漏れ出てるに過ぎないのさ」
 これはメタという領域に入るのでしょうか。大筋ではないのでツッコミを入れるのはもうやめますが。
「まあ、君の知識が適当だから、私の言葉はすべて信憑性の無い話だがな」
 全部君の創作かもしれない、と武さんは言いました。まったくもって適当です、自分というやつは。嫌いです。本当に嫌いです。
「君の言う大和人は、南方からの縄文人と朝鮮半島や中国からの弥生人とそこから世代を挟んだ渡来人の混血である場合がほとんどだ。そのうち、圧倒的に弥生人の割合が多い。血でも、人口でもな。我々の時にはまだまだ分化されていたのだろうがな」
「だろうがな、って、あなた当事者でしょ?」
「お前の知っていることしか知らん。人間の知り得る範囲など世界のうちの何割もないはずだ」
 たとえ彼に問いかけたところで出てくるのは私が持っている知識だけです。不毛ですね。これじゃあわざわざ武さんの姿で出て来なくとも、自分の姿で出てくればいいじゃないですか。
 とはいえ、知っていても思い出せないことは多いので、この対話を続ける価値はやはりあるのでしょう。
「つーかさ、誰がどこの出身だからっていうのが分かったところで、何だっていうんだろうね。日本人がみんな謙虚で誠実なら、今頃滅んでるはずなんだがな」
 日本人の特徴として誠実と謙虚は二大巨頭ともいうべき特徴です。素晴らしいですね。私は自分のことを誠実とも謙虚とも思いませんから、そんな日本人を見かけると「ああ、マジモンだ~」などと恥じ入る思いをするものです。半分以上嘘ですが。
 ともかく、誠実と謙虚だけで生きていけるほど人間社会は楽じゃないでしょうね。強引に話を戻します。
「俺を見てみろよ。俺強いから朝鮮半島くれって中国皇帝に言ったんだぜ?」
「大胆不敵ですね」
「無鉄砲ってほどに無策だったわけではないけどさ、謙虚でもなければ誠実でもなかっただろうさ。こんな感じで、日本人って一括りにして性格なり気質を十把一絡げにするのはおかしな話だよな」
「二重に括ってますね」
「ややこしくなるから突っ込まないで……」
 切実なお願いでした。
「面白くないって言われるんだろうけどよ、そういう民族性とかって、その集団において目を引く特徴であって、多く見受けられる特徴ではないんだろうな」
 そうです、おもてなしの精神を持っているのは日本のホテルや旅館、観光業の方々の特徴であって、一般の方々がそうであるわけではないのでしょう。道を行くサラリーマンのうち、何割が道を聞いた時に嫌な顔をするでしょう。私は絶対に困った顔をします。
「とはいえ、社会ごとの常識は違うだろ? たとえば、豚を食べる社会もあれば、豚は汚いので食べないっていう社会もある。昆虫、タコ、エビ、魚とかでも同じことが言える。あとは、人との距離とかだな。パーソナルスペースは、個人差があるとはいえ、人口密度が大きな要因の一つだったりするらしいし」
 パーソナルスペース、懐かしい言葉です。今は何かとソーシャルディスタンスという言葉を使うので、温故知新です。
 あれ、私は二月のロビーにいるのですよね? やはり時系列が混線しています。
「思うんだけどよ」
 混乱する私と混線する日記を脇に、武さんは続けます。
「日本人だと思う人が日本人でいいんじゃねえかな」
 これは何とも斬新な考えです。「らでぃかる」な話です。
「日本人っていうのは国籍を以て決まるんだ。ただ、俺は思うんだよ。それは地縁的な縛りじゃねえかってな。外国籍を取得した元日本人国籍の人は日本人じゃなくなるし、日本国籍を取得した元外国籍の人は元の国の人間であることを放棄しなきゃいけなくなる。そんなのはいけないんだ。みんな、自分が思う〇〇人であればいいと俺は思う。それに、それらは重複してもいいんだ。自分は日本人でもありフランス人でもあり、アメリカ人でもある、なんて主張でもいいんだよ」
 少し呑み込めませんが、悪い考えではないと思います。血統や出自が民族の単位ではなくなるというのは良いと思います。それなら、地縁という偶発的な単位でその民族に属するか否かを決めなくてもいいのだと思います。それに照らし合わせるなら、私は生まれも育ちも湘南の神奈川県人で、父方も母方も千年以上は居住してきた日本に生きる日本人でもあり、フランス語に感銘を受けたフランス人であり、幼少期に米軍パイロットと交流があったアメリカ人でもあるのでしょうね。逆に武士道に感動したアメリカ国籍の人が日本人を主張してもいいですし、ジャポニズムに魅せられたフランス人が日本人と主張してもいいような気がします。
 あれ? 何か忘れている気がします。
 前提条件として何か抜けています。
 ……あ! そうです!
 いけません、いけません。日本とは何かという問いを放置していました。
 思考放棄です。
 職務放棄です。
「武さん、大変です。日本が分からなくなりました」
「そりゃあ大変だな」
「では日本って何でしょう?」
 私は頭を抱えます。こんな口調ですが、深刻に悩んでるのです。
 足りない頭を巡らせて、嫌いな自分に鞭打って、考えを放棄する自分を罰せよといわんばかりに自分を追い込みます。
 そうです、逃げようとする自分は罰さねばなりません。
 そんな脆弱な私の指の一本や二本、噛み千切ってやればいいのです。
 ガブッ――っと一噛みすると、私の指に激痛が走ります。次第に肉が痺れて、顎の筋肉の力が入らなくなってくると、その強弱の波に合わせて筋繊維が擦れ合う音がします。
 ザリザリ、ザリザリと――
 考えることが嫌いなら、自分も嫌いなのです。嫌なことばかりです。
「そんなに嫌ならなぜ考える」
 武さんが見かねて尋ねます。
 何でと聞かれましても、考える以外に何があるというのでしょう? 不思議なことを訊くものですね。生きている限り考えずにはいられないじゃないですか。だって私たちはいつか死んでしまうのですよ? 時間がいくらあったって足りないじゃないですか。訳の分からないまま死にたくないです。全部を知れるとは思いませんが、際限なき敗北を少しでも被害少ない様に生きねばなりません。
「私のことは次の章でやるつもりだから、とりあえず先に進んでください」
「粗雑な伏線を貼るな……」
 ということでまた閑話休題です。なんだか、話をぶつ切りにしすぎているような気もしますが、それは御愛嬌ですね。それとも稚拙ですか? どちらでもいいですが。
「行政区分的には、日本というものを定義しやすいな。君が言ったように、ウチナー、アイヌ、大和、その他いくつかの人々が住んできた地域が含まれる雑居の国、それが日本だ。そこから始めれば、ことは簡単になるんじゃないか? つまり、その中で起こってきた歴史が日本史であり、そこに出てきた人々や思想を自らのアイデンティティに加える人が日本人なんだろう」
「なるほど」
 生返事をするその実、あまり彼の言葉を理解できていません。「らでぃかる」過ぎて追いつくのがやっとです。
 つまり、現在の日本という行政区画の中の出来事や人々、思想が、ほんの一部でもアイデンティティになっていれば日本人というわけですか。
「自由やら技術の発展で縛りの少ない時代がやってきたんだ――いや違うな、関わりの少ない時代がやってきたんだ。ただ単純に何にでも関われるという状態は、すべてに深く関われないという状態でもある。物事って差別化が起こらないと始まらないのさ。自分たちと自分たち以外、あるいは自分とそれ以外かもしれないが、いずれにせよ、別けようと思うから別かれるんだ。分けるではなく別ける、だ。だからその線引きなんて別ける側の意図するような、都合のいいような線引きにもなるのさ」
「中国人だって日本人だって、同じ化学物質ですものね」
「それはなんかマッドな雰囲気になるからやめろ……」
 せめて同じ人間くらいの括りにしろ、と怒られてしまいました。
思想で別けるから、住むところで別けるから、言葉で別けるから、歴史的経緯で別けるから、別けようと思うから別者になるのです。
「とはいえ、無意識下でも別けようという意識は働くから、あんまりそう思えないかもしれないけどな」
「違い自体は存在しているわけですからね」
 違いに気づけば線引きをしてしまうのも無理はありません。
 むしろそれが自然なのです。
 我々の見方は無意識下でも認識してしまう違いを無視して、他者たちと自分を大きく括って捉えている方が、むしろ不自然な捉え方をしているということになるのでしょう。
「例えば地球外生命体が人間と猿を見て見別けを付けられるかは怪しいだろう。彼らがヒト型でもない限り、二種の霊長類を見別けるなんて、ぱっと見ではできないはずだ。違いは存在するのに、それに気づけないんだ」
「ああ、エイリアンとプレデターって見別け難いですよね」
「あれは人間のための映画なんだから頑張って見別けような」
 興味持ってあげてよ、とのことです。模範解答ではなかったようです。
 もしかすると、宇宙人が彼らに似ていれば、私たちよりも彼らを見別けられるかもしれないと思うのですが……。
「じゃあ、ほら。量産型の化粧をした女子高生なり女子大生の見分けなんてつかないだろ?」
「…………」
 それもそれで言葉に問題があると思います。棘もあります。
 せめて、同じような化粧、と言ってほしいです。
 というか、人間と猿の例の方が解りやすかったです。
「彼女らのことをよく知ってる人間とか、そういう化粧に詳しい人なら細部の違いに気づけて判別もできるだろう。けれども、そんな人間や化粧に疎ければ興味もない。ましてや見ず知らずの君に、彼女らの判別はつかないだろ」
「でもなんとなくだったら違いは見つけられますよ?」
「そのなんとなくは先に挙げたような勝手な基準なのさ」
 そこに正当性なり合理性をこじつけるのは難しくないがな、と武さんは続けます。
「そもそも、彼女らと街中ですれ違ったとして、君は彼女らを判別しようとも思わないだろ」
 その通りです。そんな人間や化粧に疎ければ興味もないのですからね。
 ……こう言うと、なんだか私が冷たい人間で、彼女らを見下しているかのように聞こえますが、そうではないですよ。
 当然です!
 たとえ、私が作り出した幻想である武さんが彼女らに辛辣な叙述を当てたとしても、きっとそうです。それは私のせいではないのです。全部アクマの仕業です!
「だからな、部外者が彼らを見別けられないのは当然なんだよ」
 武さんは話を戻します。
「話は少し変わるが、彼女らと親しい友人が互いの違いを意識せず、自分と他の子を混同するというのは問題だと思う」
「? 混同っていうのは、何を指すんですか?」
「俺はあくまで、個々人が思う民族なり国をアイデンティティとするべきと思っている。この『べき』は義務ではないぞ。問題はな、人と人、カテゴリーとカテゴリーの見別けの線が消失してしまうことは違うと言ってるんだ。線は消えない。だからこそ、無視をするのであって、見えなくするのではない。ましてや取っ払うわけじゃない。さっきの化粧で言うと、Aという娘のアイシャドウ、Bという娘の髪留め、Cという娘のチーク……というように、自分がいいと思ったものを使ったり買ったりして自分のなかに取り込むのはありだ。そういった、人と人の線を越え、所有非所有の線引きが消えていくのは良いと思う。それによって自らの体が偶発的に持ち合わせた自分や自分の周りのものだけじゃなく、全く関係ないけど自らが望むところのA、B、Cを含むようになったとしてもいいのさ」
「アイデンティティのサイボーグみたいですね」
「精神は自由でなければならん。その分、身体が不自由なのだからな」
「じゃあなんですか、次の議題は身体のサイボーグ化はありかという話ですか?」
「それは今の時代では議論の材料不足だろうな精神の活動場所が身体を離れる時、恐らくその議論は過熱するだろうが、人間はまだ身体に縛られている」
 いいか悪いかは知らんがな、と武さんはにかみました。
「では、そろそろお邪魔するよ」
「あ、待ってください。何であなたは私の幻想に現れたのですか?」
 蓄えた髭を撫でながら武さんは考えます。
「知らん」
 言うや否や、彼の姿は消えました。

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