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五月雨に臨む
雨音がほとほとと私の周りで湧き立ちました。部屋は曇天のせいか随分と暗く、春先をすこし過ぎて天気や気圧は不安定な様相を見せています。
なんて、窓枠に飾られた五月雨の空に向けて言うのですが、どちらかというと不安定なのは私の方。春先になって新しい環境に入ってすこし時間が経った頃の頃、露骨に心がすり減る感覚があって、いつもこの雨が嫌いでした。
しとしと、じめじめ、それだけで心に陰鬱な一点を落としていて、気がつく頃に心のそこまで根腐れしてしまいそうで、毎年この季節は締め切られたカーテンと部屋の中に籠もっていました。もちろん、それだけでは部屋まで暗いので、人工的な電気を添えて、パソコンを立ち上げて、ついでに撮りためたテレビドラマでも消化するためにそれも流します。
けれど今日はそれをしていても陰鬱な気分が抜けませんでした。雨は未だ、しとしとと振り続けていて、外を一瞥すると雨垂れが窓ガラスをこするように降りていきます。
それを見ていると、どうしてこんなにも、心が苦しいのかと思わされます。私は確かに、好きなことをしているというのに、何処か息苦しさを覚えている。それに気がついた瞬間、あらゆるストレスの根源が視界のなかで半透明のままのたうち回りました。
何処から出てきたんでしょう。
私は率直に疑問にかられます。そこで気にかかったのが、それが「半分透明のまま」視界の中で出てきたことです。もしかしたら、この半分透明の不愉快な視界は、さきほどからずうっと、私の中にあったのでしょうか。仮にそれを見ていたのだとすると、私は知らぬ間に頭の中で苦しみを再生し続けていたことになります。
自分の好きなもので埋めていたからすぐに気がつけなかったのでしょう。私はそれを確認するために、一度すべての電子機器を閉じて、締め切られたカーテンに手をかけて、一気に窓の外、できるだけ遠くの、地平線が溶ける地点で焦点を留めました。
窓から注がれる大粒の雨に視界はすこし阻まれていますが、果てしなく遠くの地平線に合致した焦点を中心に、その外側から、自分の中で締め切っていたストレスの残滓がすこしずつ、はっきりと像をつなぎ始めていることに気づきました。
ぞっとしました。私は休みの日でも、欠かすことなく自分のことを傷つけていたのだ。そう思うと、怖くて目を閉じてしまいます。けれど目をつぶっても、今度は真っ暗な頭の中にいろいろなことが浮かんでくるのです。
仕事で失敗したこと。
教えられた仕事で、何度も同じミスをしたこと。
要領の悪さに陰口を叩かれていたこと。
ありとあらゆる負の気持ちが頭の中に流れ込みます。いえ、正確には、どんなに逃げても自分の中で作っていた大量のストレスの記憶が露見したというべきでしょうか。
どうして今の今まで気が付かなかったのか。それは、無理やり気持ちを作ろうとしていたに他なりません。この世は、雨を嫌う人ばかりです。「雨が好きなんです」なんて話すと、「そんな暗いことを言っていないで」なんて言われて、さも晴れている方が気持ちが良いふうに言ってくるでしょう。
いえ、言われました。私は雨が好きでした。しとしととメトロノームのようになる振り子の音が雨音と重なって、空から降りてくる雨に残光が反射するさまがきれいで、子どものときは雨の日には決まって傘を指してお散歩していたことを思い出します。
いつの間にか、大人になるうちに「雨は陰鬱なもの」なんて思い込むようになっていたのかもしれません。
太陽の光が悪いのだと言っているわけではありません。でも、先の私は太陽の光が眩しすぎて、自分が自分のことを追い込んでいることを見落としていた、そんなような気がするんです。もっと上を、もっと完璧に、そんなことを目指すうちに、私はわたしであることを失っていたようです。
職場の先輩を見て、「あの人はこんなにできているのに」。そう思うことが常でした。でも本当にそれが正しいことなのでしょうか。仕事を充実させることこそが、最良であると言えるのでしょうか。
最良は、私がストレスというものから完全に脱却して、童心のままに雨の旋律を楽しむことであるはず。それなのに私はその単純な答えすらも、社会というストレスに置き去りにしていたのかもしれません。光を放つあらゆるものに、憧憬の皮を被った嫉妬を、理解のふりをした焦燥を見ていたのでしょう。
なんだかこの雨を見ていると、そういう自分の弱さがすべて洗い流されるような感覚を抱くのです。頑張りすぎた心を雨という恵みによって一度もとに戻して、からりと晴れた太陽に望む。それを繰り返すことこそが、雨のほんとうの意味ではないかなんて妄想してしまうのです。
これから先の五月雨は、きっと食傷気味の春に対してのアンチテーゼ。美しく儚い雨音の旋律に踊るように、今日は雨の香りをまとって憧憬という実像に思いを馳せることとしましょう。
大好きな、雨。