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夢の代償

 還暦を少し過ぎて、ようやく現役から退いた縁側から外を眺めてみる。そんな中で始まる独語は随分奇妙かもしれない。

 思えば、これまで色々なことがあった。その中でも私の最大の後悔と言えば「あまりにも普通の人生に身を投じてきたこと」だろうか。

 ふと、机に視線を移してみると、そこには形にすらならないまま捨て置かれた大量の文字が印字されたディスプレイが逆行に照らされて読むこともできない暗がりが見えた。
 私は物書きを目指して、これまで仕事の傍ら多くの作品を書いてきた。けれどそれは、この歳に至るまでどれ一つも実を結ぶくことなく、井の中の蛙と言わんばかりに、私の端末の中で燻っている。

 夢の代償がこれか。

 私は縁側でひとり、そう呟いた。
 若き日は「絶対に作家になって、世界を変えてみせる」と息巻いていたはずであり、幾多の年数を重ねても「次は、次こそは」とただひたすらに書き続けた。その頃の私に今のこの惨状を見せれば、どんな選択をするだろうか。

 やりたくもない仕事と並列して書き連ねる日々は、実に多くのことを犠牲にしてきたと、今になって初めて思い知らされることとなる。

 私は確かに何かを書くことが大好きだ。けれど、他にも沢山やりたいことがあったはずだ。それらをすべて犠牲にして、沢山の作品を書いてきた。時に大成するためと、様々な助言を聞いてきたが、それらすべてを「自分の書きたいもからずれる」といって退けてきて、結局私に残っているのはこの惨状である。

 何が、私は私の人生の中で何かを残すことができただろうか。
 否である。その答えは既に自分がよく知っている。自分はこの世の中で「作品」で勝負している世界の敗者だった。自分の全身全霊を持って望んで、これだけ膨大な時間をかけて、それで敗北したのだ。

 この事実をようやく認める事ができた。今まではどうしても認められなかったんだ。自分には才能がある、絶対にいつか報われる日が来るんだ、そうやって言い聞かせて、客観的な状態を見ることもせずに邁進する日々。いわば自己酩酊状態とでも呼ぼうか、そんな日々に私は踊らされていた。

 人生は一度だけであるとは何度も言われていることであるが、私はその言葉を今まさに噛み締めている。散々それでも良いと理解した上で、作品に向かっていたはずであるが、今のこの夢の代償を目の当たりにしても、同じ人生を歩むことができるかと言われると自信がない。
 勿論創作は大好きだ。これからもきっと趣味として続けていくとは思うが、それもほどほどにもっと別なことをしてみたいとも思っている。旅行にいって各地の温泉を回ってみるのも良いかもしれない。新しい習い事をしてみるのも面白いかもしれない。

 この世には色々な可能性があって、私に適合した可能性もまたあったかもしれない。それらすべての可能性を無視して、私はこれまでの一切の花を開かなかった作家人生に時間を使ってきた。

 最初は、周りの人と比べて「私はこんなにも有意義に時間を使っているんだ。後悔なんてない」と信じて疑わなかった。だけどそれは本当にそうだったのだろうか。私は、ある意味で自分のことしか見ていなかった。もっと視界を広げて見るだけで、色々なことが、色々な可能性を享受することだってできたのかもしれない。

 このあらゆる「もしも」を、私は捨ててきたのだ。それが、夢の代償であることに気がついたときには、既に後戻りすることができない状態にまで来てしまっている。

 もし、若き日の私に一言だけ伝えることができるのなら、私は切にこれだけは残したい。
 絶対に、一つのことにのみ邁進するな、と。

 多くの才能を持った人間は口を揃えて「一つのことをやり抜け」というが、それにはあくまでも「成功者の意見」であり、我々のような特筆した才能を持たぬ存在には大いなる代償を支払うことになる。身もふたもないことで、若い頃はこぞってそれを否定したがるが、どの世界にも「図抜けた天才」というものがいて、私のような凡百の存在はそれに決して手が届かぬものであることを、若い時点で知っておいてほしい。

 若き日の私は、盲目だった。圧倒的な努力と自分を信じる気持ちがあれば、最後には日の目を見ることになると信じて疑わなかったが、私にはその日は来なかった。作品というもので勝負する土俵で、私は負けたのだ。

 これほどまでに努力したのにと何度思ったことか。しかし私は忘れていた。「成功者は努力している」というが、そもそも「努力なしで成功は絶対にありえない」ということを示していることに、気づくのが遅すぎた。

 これは負け犬の遠吠えに聞こえるかもしれない。だが、すべての世界できっと同じことが言えるだろう。私には無限の可能性がある、そう信じて疑わないからこそ、今の夢の代償があまりにも大きいことを知る。

 のめり込み、たった一つのことに執着するということはそれだけで利子が付く行為である。それは膨らみ、最終的に今の夢の代償と同じような状態になる。

 今から自らの刃を磨き、魅入られたものに邁進する者たちは、僅かばかりの老獪の言葉に耳を傾けてほしい。私のように夢の代償を支払うことのないように、悔いのない人生を歩むことを切に願っている。

 私はと言うと、そんな夢の代償を支払って、残された僅かな時間を愛する人ととも歩むこととする。しかしながら、これもなにかの縁だ。敗残したものの、私は同じ敗残した作品たちと最後まで見を投じようと思っている。
 こんな人生にするつもりはなかったが、それに後悔することもしたくない。若き日の盲信を、無駄にしたくないからなのかもしれないが、そんな人生もまた一興であると、私は思うこととする。

 敗残者の老いぼれの戯言に、付き合ってもらって感謝する。
 ぜひとも、若き凡百の存在に幸があるように、私は願っている。

#今こそ学びたいこと

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