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創作の独り言 子ども向け作品という難題

 創作をしていく上で、ある意味では最も大切なのは「ターゲット層の明確化」である。クオリティの高い作品というものは文脈で多義の解釈ができるのであるが、そのターゲット層を明確にして、どのクオリティの高さを目指していくのかを作り手が考慮して筆を執っていくことが最低限必要な方向性となる。

 ターゲット層は基本的に「年齢」によって大方区分されている。子ども向けの作品は低年齢でも理解できる作品に落とし込んで作ることが要求されるし、逆に年齢層が高くなってくるとサスペンスフルな物語への理解、そして考察させることそのものへの悦楽を考えることが要求される。どの層をターゲットにしていくのかは創作者によってかなり違ってくるが、その中でも今回は「子ども向け作品」について考えていきたい。

 そもそも「子ども向け」というものはどういうものだろう。定義の段階から考えると「子どもを対象にして作られた物語」という当たり前な意見が出てくるのだが、時折「子ども向け」と「チープ」を履き違えてしまっている人が散見される。
 私の意見としては、「子ども向け作品」こそしっかりとした土台で作っていく必要があると思うし、ストーリー性そのものが崩れてしまっているものは見るに堪えないと表現しても差し支えないと考えている。「子どもが見るから」という理由で作品のストーリー性が損なわれてしまえば、それはもはや作品であることを否定していることと変わらないからだ。
 「子ども向け作品」に最も必要なのは、「子どもでも理解できる、子どもであるからこそこれから先に理解していかなければならない事柄を作品に落とし込み、かつ魅力的な面白さでまとめ上げる」というかなりの難題を超えなければならない。逆に言えば、子ども向けは普通の創作に更に「理解しやすい描写」という課題が発生していくる難しいジャンルでもある。

 代表格で言えば「クレヨンしんちゃんシリーズ」だろう。
 この作品は今や国民的な作品であり、普段の内容はどうであれ映画となれば無類の完成度とストーリー性を誇る作品群だ。子供の頃これをこれらの映画を見て、よく理解できずに両親に意見を求めた所、思いもよらず両親たちが感動している。そんな話をよく聞く。実際に渡しも同じようなことがあるが、年齢を重ねた今になってはこれらの現象は至極真っ当であると理解させられる。
 この作品は映画においても勿論子ども向けに作られていると言える。見慣れたキャラクターたちが織りなす楽しい日常、それが一点物語の立ち上がりから日常は歪に割れていって、主人公たちが紆余曲折を経て収束を目指して奔走する。その過程に描かれているドラマは子どもであった私の心を弾ませて、最終的に難しいけれどなにか解決したのだと理解することができる程度の物語。それは、創作者が徹底して計画された面白さが物語やキャラクターに落とし込まれて表現されたものだ。

 先程、「子ども向け作品は難題が多い」と表現しているが、厄介な点は圧倒的な計画性が求められることだ。
 私は創作物を作る際にはその場の空気感にかなりの部分を委ねている。勿論大筋は決めているけれど、キャラクターの動きはそのキャラクターの行動に基本的に任せていて、それに合わせて大筋を少し曲げることもある。
 多くの創作をする人はそのように取り組むかもしれないが、子ども向け作品でそれをしてしまうと「子どもに伝えたいテーマ」が少しずつ歪んでくる。
 そもそも子ども向け作品に盛り込まれるテーマは「今は理解できなくても、今後の人生ではこの作品で描かれたようなことが大切になってくるんだよ」という将来性を見越した意味合いが仕込まれている。だからこそに作品は深みが生じてくるし、大人が見てもしっかりと物語を咀嚼することができる。
 これには最初から徹底して敷かれたテーマが必要であり、それがキャラクターの行動によって少しずつ乱れていくのは本末転倒になる。最悪の場合は中途半端に伝えたいことが表現されたものとなってしまい、出来栄えとしては「チープだ」と判断されてしまう。
 それでは物語にキャラクターをあわせてしまえばよいのではないだろうか。それもまた難しい。そもそも子ども向け作品の場合は、キャラクター自体を子どもでも理解できる、子どもが楽しいと思えるようなものでなければならないし、既存のキャラクターであれば尚の事キャラクターの人格が明確になっているため、不自然な行動に出すことは基本的にできなくなる。

 子ども向け作品に限らず、作品に登場するキャラクターは物語において特に大切である。
 例えば「打算的で利益を重視する」と描写されているキャラクターが特に理由なく誰かを助けて熱血漢を出されると違和感が出てくる。物語的な事情で、このキャラクターがそうしなければ進まないとなって急にキャラクターの行動が生じれば露骨に安っぽくなるし、見ていてご都合主義的だと思ってしまうだろう。
 物語はたしかに一本の筋になっていなければいけないが、それに引っ張られてキャラクターの行動がおかしくなれば、それは作品のクオリティを大幅に下げてしまう行為になる。
 だからこそ、物語にはある程度の柔軟性が最初の段階から必要だと思うし、その一方でそのようなキャラクター性によって落とし込まれたストーリーも存在している。

 「子ども向け作品」は扱うテーマが非常に大切だ。
 どうしてそれをわざわざ子ども向けに作っているのか、それに対して作品が答えを出すことのできないものであれば、それを作る必要性は皆無であると言ってしまっても差し支えがないほどである。
 子どもから大人になっていく過渡期、その中で大人に対しても改めて人生の本質や大切なことに気づかせるための物語。それが「子ども向け作品」には必要な最大のテーマなのだ。徹底された理想論を物語を通して理解していくと言っても過言ではない。子ども向けに必要とされているのは、我々が最も理想的であるべきだ胸を張って標榜することができるものである必要がある。

 その一貫した筋を、キャラクターの柔軟性を織り込んだ上で作品として仕上げていく。これまでの考察の中でそれがどれくらい難しいことであるかはこれを見ている人にも伝わるだろう。
 同時に、「子ども向け作品」に対しての評価も少しは変わっていることだろう。子ども向けだから、作品としてはいかにも子どもが好きそうなキャラクターを使った勧善懲悪ものにしておけばよいというわけでは決してない。盛り込まれるべきテーマがしっかりと作品の中に落とし込まれた上で、結果的に作品として成立しているのである。
 それに対して「子ども向けはあくまでも子ども向け」と安易に断定してしまうのは正直な所、思考の放棄であると言っても良いだろう。作品として世に出ている作品は、それらの安易な感想に対しても明確に答えを出している。しかしそれに対してあえて言及することなく、製作者はただ静謐を貫く場合もある。
 子どもに向けたものだから、その一言で作品を語るのは愚かしいことだ。子ども向けだからこそ、その作品は徹底して作り込まれているかもしれない。作品を臨むとき、また作品を実際に作っていくときには、そんな前提が必ずあるのだから。

 こう書き連ねていくと、私が如何に子ども向けの作品に対して適正がないのかがよく分かる。忘れてしまった理想を追い求めるということが必要になるこの営みの上で、私はすっかり幼い日の感情を失ってしまっているようだ。
 だからこそ、少しずつあの日の記憶を追い求めていこう。作品を通して、自分がどこかに置き去りにしてきたものを探しに行く。またオツな楽しみ方なのかもしれない。

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