【映画感想文】描写される日本映画の恐怖の原点【映画・呪怨】
※サムネイルは「配信サービス-Hulu」様より
はじめに
皆様は邦画ホラーと言うとどの作品を思い浮かべるでしょうか。日本の映画には独特のジメジメ感や、映像による静的な表現などにより、一時は「ホラー映画といえば日本映画」という時期もありました。
そんな中でも、日本ホラーの代表格となっている作品が「呪怨シリーズ」です。
映画「呪怨」は、呪いの家という場所を一つの舞台装置として展開されるオムニバスストーリーであり、場所に染み付いた呪いを描写する映画であり、現在では日本だけではなくハリウッド二までリメイク版が制作されるほど世界的な作品になりました。
勿論それらの作品は当然、各々の持ち味があり、沢山のファンを作るに至ったのですが、本シリーズ郡において最初に劇場で公開された「呪怨」について、いくつかの視点から考察・レビューをさせていただきます。
なお本作はやや特殊な作品で、ストーリー的なネタバレがほとんどの場所で書かれているため、この記事ではいくつかの視点から作品的な考察を主に書かせていただきます。
それでは最後までお付き合いいただけると幸いです。
映画「呪怨」
〜総毛立つ快感〜
じゅおん【呪怨】
強い怨念を抱いて死んだモノの呪い。
それは死んだモノが生前に接していた場所に蓄積され、「業」となる。
その呪いに触れたモノは命を失い、新たな呪いが生まれる。
映画「呪怨」より
・ストーリー
第1章:「恐怖」の対象を描写するということ
1.「恐怖」させる手段
「呪怨」という作品は、恐怖という概念に対して、映画的な表現の答えを返した作品であると感じています。
当たり前のことを言っているのですが、ホラー映画というものは「恐怖」を取り扱う作品であり、「呪怨」という作品はストレートに「恐怖」を表現しています。
どうしてあえて「恐怖の対象を描写する」というふうに表題で明記しているのかと言うと、単純に「恐怖を表現する」といっても、「受け手を恐怖させる方法」というものは幅広くあるからです。
「呪怨」という作品は、「恐怖の対象を描写する」事で始めて受け手が恐怖するような仕組みになっています。
恐怖というものは色々な感じ方があります。自分の身に危険が生じること、恐ろしいと感じること、不安になること、色々な感じ方がありますが、ホラー映画にはそれらを「技法」として昇華されています。
小説の場合は「受け手に想像させること」を主に恐怖演出として使用するのですが、映画などの映像的表現では「描写させる」ことや、「恐怖の対象にキャラクターを襲わせる」などの受け手を恐怖させる直接的な手段を使うことが多くあります。
「呪怨」という作品は、「恐怖を直接的に描写する」ということに特化した作品になっています。
この部分に長けているということは、視覚的表現を主とする映像作品においてはかなり優れている作品であるとも言えます。
しかしその一方で、「恐怖を描写する」ということは、言うほど簡単なものではありません。そもそも人間が恐怖する対象というものは一様ではないので、それを描写するということは「万人が恐怖するかもしれないもの」を描写しなくてはいけないため、一般的なイメージとかなり乖離するでしょう。「呪怨」という作品はそれらの直接的恐怖をかなり正確に描写していると言えるでしょう。
2.キャラクター化された「恐怖描写」
本作の呪いを取り巻く中心人物である「佐伯伽椰子」という人物は、明確に多くの人物に恐怖を与えるように作られています。恐ろしい形相で無差別に呪いを振りまき、あらゆる人間を呪殺していくという設定は、たしかに恐ろしいですが、「佐伯伽椰子」というキャラクターは、行動や背景を「恐怖描写」として昇華させています。
言わずとしれた「佐伯伽椰子」という人物は、ストーカー的気質があり、過去恋をした大学の同級生のことを想い続けた結果、最終的にはその恋は実ることがなく別の人と婚約します。しかし夫である剛雄は、伽椰子の大学での出来事を知り、更に息子である俊雄の名前に伽椰子が愛した人物の名前が含まれていることにより憤慨、呪いとしての「佐伯伽椰子」を作り出すきっかけになりました。
作品においてキャラクターも「描写」することで、読者に伝えていきます。あらゆるキャラクターは、描写がなければそのキャラクターの行動原理や意味合いを表現することができません。
本来であればキャラクターを表現し、感情移入を促進させるために用いられる描写を本作では「恐怖描写」として溶け込ませています。
先程概要を説明した「佐伯伽椰子」という人物は、ストーカー的な気質に加えて、凄惨な殺害方法、悲劇的な結末など、恐ろしげな過去そのものが彼女を「呪い」としての性質を付与させます。
その中で、佐伯伽椰子という人間が「他者との関わりをせず」、「特定の個人に対して強い執着を持ち」、「ストーカー的な異常行動をする」という性格的な描写を同時になされています。
これは性格的な時点で不穏さを醸し出しています。特に伽椰子のストーカー的な行動は極めて恐ろしいもので、明らかに常軌を逸した行動が具体性を持って描写されています。
この「恐ろしさ」をキャラクター性に落とし込んで、「佐伯伽椰子」というキャラクターにおさめてきたのは、本作の面白いところではあると感じています。
3.万人に受ける恐怖の根源
本作は「佐伯伽椰子」を中心とした恐怖演出と、それに裏付けられた恐ろしさがあります。
このキャラクターが素晴らしいのは、作品のみを見ていた場合はたしかに「恐怖の対象」として足るに十分なキャラクターであるということです。そのビジュアルもそうですが、徹底して落とし込まれた恐怖演出の描写であると言えます。
後述するのですが、この作品における恐怖演出の技工は素晴らしいものがあり、それが結果として「万人が恐れる要素」となったということです。
簡単なようですが、多くの人間が恐れを抱くという要素はかなり難しいものがあります。
人間において「恐怖する」というものは複雑な感情です。よく言われるのですが、「ホラーとコメディは紙一重」というものがあります。これは昨今の佐伯伽椰子のマスコット化現象からもよくわかりますし、ホラーというものはその文脈や背景がないと途端に陳腐化してしまうものです。
今となっては、この作品におけるいくつかの描写は「ギャグっぽい」と感じる人も多くいるようですが、当時これらの描写は革新的であり、多くの人が恐れを抱く事になりました。
佐伯伽椰子という人物は、白塗りの顔と奇怪な音声など、表層的な気味の悪さを兼ね備えていますが、それだけではなく、「不可避の死」という要素を徹底的に貫いている部分にその恐怖の根源があると思います。
本作は多くの人間が彼女によって呪い殺されますが、一度でも彼女に接触した場合は逃れることが出来ません。作品においてそこは徹底的にされており、結果として彼女の手から逃れた人間はおらず、その「逃れる方法がなかった」という後味の悪さが多くの人間に恐怖感を与えたのだと思います。
更にそれに加えて、呪怨における呪いの根源はどれも「呪いの家」を発端にしており、転勤であれ、友人の自宅であれ、訪れることでどんな人間にも確実な死をもたらす結果、そして日常生活の中でたやすくそこに溶け込んでしまいかねないというおぞましさが恐怖の根源になっていると考えることが出来ます。
いわば都市伝説的な側面を持つ「不可避の死」を強調したキャラクターが佐伯伽椰子というキャラクターの本質であると言えるかもしれません。
第2章:先進的な「恐怖」の描き方と転換点
1.「プロセス」としての恐怖
先述した通り本作は「恐怖演出」が図抜けて卓越しています。
佐伯伽椰子のキャラクター性と重なるような恐怖描写が徹底されており、主にそれは「伽椰子そのものの精神性」と「相手を着実に追い詰めていく恐怖」をうまく噛み合わせた演出が多様に盛り込まれています。
伽椰子そのものの精神性を表す恐怖演出とは、そのまま彼女の陰湿さや執着性を表現するもので、「佐伯伽椰子とはこのような人物だ」と受け手に対して熱心に伝えています。
本作では基本的に彼女が、呪いの場所を訪れた人間に厄災を振りまくのですが、彼女が手を下すのは殆どの場合は「とどめ」であり、それ以外の人間を陰湿なほどに追い詰めておきます。
本作の演出は「発端」「恐怖」「逃走」「止め」の流れを踏みます。これそのものは一般的なホラーにありがちなのですが、これを佐伯伽椰子の陰湿かつ神経質な性格に重ねています。
呪いの家が放つ凶悪なのりから逃れられるものは決していません。そのためこの呪いは「最初から手を下すことができる」にも関わらず「あえて自らの存在を見せた上で逃げ道を与える」ということをしています。
彼女はジリジリと相手を嬲るように追い詰め、最終的には自ら手を下します。その間のプロセスが恐怖演出となるのですが、その徹底的に恐ろしさを固執するような表現が大量に含まれています。
どんなところであっても、どんな場面においても、徹底的に追い詰める恐怖への執着は、彼女の経験がそのまま投影されているような気すらしてきますし、実際に筆者はそのように解釈していました。
佐伯伽椰子がターゲットを徹底的に追い詰めていくのは美しささえあります。
正体不明の異質に対して、ターゲットたちは各々の行動をとり、嘲るように彼女は息子である俊雄をけしかけて精神性をすり減らしていきます。このときの被害者たちの行動は、我々が現実においておよそ同様の対処をするであろうことを嘲笑するようです。
これはやや小説的な表現であるとも言えるでしょう。小説は文字を使って相手に想像させるのですが、その中に「状況を突きつけることでその後に起こるであろうことを想像させる」という意味合いもあると考えています。
正体不明の力によって生じた命の危機、我々ができる対処というものは本当に少ししかありません。「説明できない超常現象が起きて命の危機が迫っています」と言われて、現実世界はどのような対応ができるでしょうか。
当然ながら、現実は「大事」が起こらなければ決して対処できません。勿論「死」がそれに当たり、その頃にはターゲットは死んでおり、結局救いはありません。
これこそが、「受け手の恐怖」へと繋がってくるわけです。
2.「歩み寄る恐怖」と「死」の描写
本作の特筆するべきは、「歩み寄る恐怖」と「死」の強烈な対比です。
何度も記述している通り、本作は「相手を呪い殺すまでの間の恐怖」を丁寧に描写しています。ネチネチと相手に詰め寄るように恐怖を与えていき、最終的には死をもたらします。
それまでは「静の恐怖」を与え続け、死をもたらす頃には「動的な恐怖」へと変貌します。
本作はこの対比が非常に流麗です。というより、「歩み寄る恐怖」が非常に良く出来ているからこそ、このメリハリのある恐怖感が際立つ印象がありました。
これがはっきりと表現されているエピソードが「仁美」のエピソードです。
このエピソードは本作においてもかなり代表的なものであり、予告映像でもこのエピソードが描写されています。
物語としては、呪いの家に立ち入った兄夫婦らのことを心配した妹・仁美に降りかかる伽椰子の呪いをなぞるというものなのですが、このエピソードは呪怨以外のホラー作品においても、屈指のホラー演出のクオリティを誇ると筆者は感じています。
このエピソードは、「会社から自宅へ戻る」という動的な動きを主人公である仁美が見せながら、ジリジリと追い詰められていくさまを見せられるのですが、このときのホラー演出は極めて秀逸です。
というのも、呪怨における「静的な恐怖から動的な恐怖」へ変わる演出をかなり意識したものです。このエピソードにおいて動的な恐怖は、エピソード最後の「布団の中から顔を見せる伽椰子」を描写して仁美は伽椰子に引きずり込まれてしまいます。
このときの布団の中にまで迫ってくる恐怖演出は、後の作品にも強い影響を与えるほど画期的なものであり、未だ検索サジェストにはこれらの事が出てくるほどです。
本作は「安全地帯が消えていく感覚」というものを恐怖演出としてかなり強調した描き方をしています。
先の「仁美」のエピソードでは、会社から生じた恐ろしい経験に対して「自宅」までのプロセスを恐怖演出で満たしています。その例として、「自宅エレベーターから各階層ごとに俊雄の幽霊が見える」という恐怖演出がまさにそれに当たります。
エレベーターから見える各階層には、俊雄が静かに仁美のことを眺めています。これは当然本来ありえないことであり、各階層に瞬間移動しているという、超常現象的な出来事を一瞬にして受け手に理解させることが出来ます。
これは「異常な出来事が起きている」ということと「自宅という安全地帯がそうではない」ことを同時に印象づけるうえで非常に優秀な意味合いがあります。
呪怨にはこのように、一見するとただの恐怖演出なのですが、複合的な意味合いを常に強調している部分で、非常に演出力の高い作品に仕上がっています。
更には自宅という安全地帯に対して、「自分の兄から連絡が来るが、それも伽椰子の罠だった」という極めつけがあります。これも「自宅」という安全地帯の他に「頼れる味方」が剥奪される恐怖演出です。
そして最終的に、布団の描写に繋がることとなります。最初は静かに、淡々と恐怖描写を撒き散らし、最終的には相手を確実な「死」をもたらす、そんな動的な恐怖とのメリハリが、ここまで効果的な恐怖演出に繋がったのだと思われます。
第3章:「場所」から「キャラクター」へ移る表現
1.「場所」を起点する従来の恐怖
今作に限らず、日本には「土着」の怖い話というものがとてもあります。元来人間にとっては自然が大いなる恐怖であり、だからこそ生贄や呪いなどの概念が生じてきたとも考えることが出来ます。
そのため、従来までの呪いという概念は「土地」に宿っているという考え方が多くありました。
勿論それだけにとどまらず、個人間での呪い合いというものも合ったでしょうが、呪怨という作品はこの呪いのトリガーを「場所」と「人物」にまとめられています。
このような描かれ方はやや先進的な表現であると言えるかもしれません。
従来までの呪いの表現は、より宗教色の強いものであり、自然現象に対して生贄などの人間的な解釈を行った上でバックボーンを作っていきます。このようにすることで、「土着」という土地に対して呪いが染み渡り、そこを起点として呪いが振りまかれていくことになります。
このように日本には、土着によって生じた「呪い」が多くあります。現代社会においても2ちゃんねる等で語られている「洒落怖」には、土着に関する怖い話が跋扈しており、日本の怖い話ではかなりメジャーな存在であると言えるでしょう。
また、土着の呪いというものは、人間原理的な解釈によって「呪いの根源」を作り出しています。土着の呪いは、その根源から何かしらの禁忌を設定して、それを侵してはいけないということで物語として成立させています。
本作における「呪い」のトリガーに関してもそれは同様です。呪いが蓄積した家というものが舞台装置となり、そこに踏み込むものを無差別に呪いが襲います。
そのように考えると本作は一般的な土着的な呪いと解釈する事ができるのですが、本作の最大の特徴として「禁忌」として定められていることが非常に軽く、それがキャラクターにおいて全く周知されていないということです。
これにより、怖い話というよりかは、「明確な死の危険性が描写されている」という生命的な危機を表現していると言えるでしょう。
これは土着の呪いから逆算して表現される恐怖ではありません。本来土着の呪いというものは、明らかにその場所を忌避させるようなものであり、そこから遠ざけるようなニュアンスもあります。
この作品において、「呪いの家」というものは非常にポピュラーでありながら、社会における扱いの上でも作品の中では異質です。家というものは勿論、日常生活では絶対に目にするものであり、更には人生の節目において転居という形で我々に関わるものです。
それが本来であれば忌避されるようなものとして結び付けられるのは少々特徴的です。
本作が抱えている「呪いの家」という場所的な恐怖は「身近すぎる」というところが特徴的と言えるでしょう。
2.「縄張り」を超える呪い
呪怨が取り扱っている恐怖は「確実に死に至る」というところが最も強いのですが、それ以上に本作は「トリガーとなった場所から離れたところでも影響する」という部分がかなり強調されています。
呪いが場所にあるということはよくあることなのですが、それが本作のように「場所を遥かに超えて出現する」ということは限定的です。
それだけ強烈な呪いであるということを強調するのは当然なのですが、本作における禁忌が「呪いの家に足を踏み入れる」という非常に単純であることと絡めて、非常に恐ろしげなものへと発展させています。
呪いが宿る場所以外で何かしらの出来事が発生するということは、「間接的な接近」に近い技法であると解釈することも出来ます。
呪いの根源が別にあって、そこから全く別の場所であるはずなのに、段階を追って歩み寄ってくる、その感覚に人間は非常に強い恐ろしさを抱かせられます。
本作の呪いもそれに通づる物があるのですが、明確に「命を奪う」ように表現されるのは日本の作品ではかなり珍しいと言えるでしょう。大抵はもっと間接的な手段を用いて危険性を伝え、ジリジリと相手を追い詰めるように描写されています。
本作ではその直接的な恐怖手段に加えて、「縄張りを大幅に超えて出現する」ということはかなり大胆なやり方であると言えるでしょう。
それだけ呪いの場所から離れるということは恐怖が薄れることになります。それをあえて「逃れられない恐怖」へと繋げたのはまさに演出の勝利でしょう。
3.「場所」から「個人」に転嫁する恐怖
土着の呪いが明確に意味を持っていることは記述した通りなのですが、本作では更に発展して「土着の呪い」が「伽椰子」という個人に移り変わっていくというものがあります。
これは本来順番が違います。「土地に呪いがあって、何かしらの理由によって人物に転嫁していく」というものが一般的です。それが本作では明確に順番が違っており、「人間が呪いを振りまいてそれが呪いになっていった」という流れになります。
これが反対になるということは、本来「呪い」というものが人知を超えた圧倒的な脅威であったことが、人間の手によって作り出されたということは、それだけ「呪い」というものの身近さを感じさせることになります。
本作における「身近」という言葉は恐怖のテーマ性の一つであると言えるでしょう。呪いの場所から追い詰めるような恐怖演出、それらがはびこっているのは全てにおいて「日常」が取り巻いています。
禍々しい呪いの傍ら、本作ではねちっこいまでに日常的な部分が語られます。呪いの家に足を踏み入れた人間が普通の生活を送っている場面や、そこに関連する多くの人間の出来事はかなり現実的に表現され、だからこそ本作の恐怖は「恐ろしい」のです。
現実に起こりうるはずがないことが、スクリーンにリアルな描写で横たわる現実に、まるで自分たちの日常を切り取っているかのように起こっている。そこに「呪い」という要素が加われば、本作の恐怖がかなりリアルに表現されているのにも合点がいきます。
呪いの根源が場所から個人に変化するということは、それだけ呪いという概念が根治的なものに還元されるように表現しようとしたと考える事ができるかもしれません。
本作が徹底して表現しようとしている「日常的な恐怖」は、このような意図もあるのかもしれません。
第4章:本作の「本質的な恐怖」はなにか?
1.用いられた「現実混合」の捉え方
本作では「日常的な恐怖感」を表現した作品であるということは常々記述しているのですが、その中でも本作はリアルに日常生活を表現することで、「現実に溶け込んでいく」ような感覚を巧みに利用しています。
繰り返し記述した「日常的な恐怖」というものは、突き詰めていくと、「現実とフィクションが曖昧になっていく」という意味合いもあり、異様にリアルに表現された世界と、自分が過ごしている世界と重なっていくような現実が混合する感覚が生じます。
この作品において、「現実とフィクションが曖昧になる感覚」というものは非常に効果的です。
なぜなら、本作の呪いは一切の対処が存在しないものとして表現されており、対処不可能ということは、絶対に触れてはいけないという禁忌を「現実もそのようなところがあるのかもしれない」という戒めを与えることになります。
現実とフィクションが混合していく感覚というものは、ネットフリックスにて配信されている「呪怨〜呪いの家〜」にてこちらの手法がクローズアップされた作品があるのですが、呪怨という作品の原点である本作が用いているのは直感的です。
映像作品というものは小説と比べると圧倒的に「想像できる余白」が少ないです。本来映像作品とホラー演出というものはかみ合わせが悪いものであると筆者は考えており、その中でも本作は凝った恐怖演出を用いて恐ろしさを引き出しています。
本来であれば映像作品は「想像の余白を小さくすることで、よりはっきりとしたイメージを伝える」という良い点があるのですが、それは裏を返すと「恐怖という主観」を損なわせてしまうことに繋がりかねません。
それに対して本作が出したアンサーは、「圧倒的な視覚的恐怖」と「リアリティの創出とそれによる現実混合」であると感じています。
当然ながら前者は「伽椰子というキャラクター」であり、後者は徹底的にリアルな現代社会を表現することで成立させています。
主観的な恐怖感というものをあえてかなぐり捨てることで、「はっきりとした恐怖対象となるキャラクターの創出」に繋がりました。
2.伽椰子というキャラクターに込められた恐怖
本作の顔である「伽椰子」というキャラクターは圧倒的な恐怖演出として本作どころか、それ以降の日本映画においても山村貞子と並んで絶大なインパクトを残し続けるキャラクターです。
伽椰子の圧倒的な恐怖感は、確かに「足を踏み込んだ時点で確実に呪い殺す」という逃れられぬ死の恐怖にあるかもしれませんが、このキャラクターに込められた恐怖の要素は実に多岐にわたります。
伽椰子の圧倒的なビジュアル、恐怖演出、背景、彼女には複合的な要素はあるのですが、その中でも伽椰子が最も恐ろしいのは「人間という個人がここまで強いの呪いを残したもの」というものだと筆者は考えています。
本作において絶対的な恐怖の対象である「伽椰子」という人物は、作品を見たことがある人にとって「呪いの家に足を踏み入れると必ず殺される」という、非常に攻撃的なニュアンスを持ったキャラクターであるという印象は強いでしょう。
しかしそれは裏を返すと、「人間という個人が、それほどまでに強い呪いを残した」と解釈することも出来ます。
自分が死んだ自宅に足を踏み入れた人間を問答無用に、しかも縄張りから大幅に離れたところにまで影響を及ぼして確実に死を与えるキャラクター、その事実がすでに恐ろしげな要素を持っています。
従来までの土着の呪いや、怖い話は「人間以外の理解不能のなにか」がメインに語られることが多くありました。自然現象や神などの人間よりも遥かに高次元の存在だからこそ、「理不尽な呪い」に対してある意味での説得力がありました。
しかし「伽椰子」というキャラクターは紛れもなく人間であり、その個人によって引き起こされた事件の数々は非常に陰惨に描かれています。当然そこには、伽椰子が呪いに転じた理由にまで及びます。
本来であれば「人間以上の存在」に対して適応され、一定の説得力をもたせる「呪い」という概念に対して、本作では「人間であっても強烈な感情さえ残れば呪いになる」という新たな解釈を与え、それで見事に恐怖演出へと昇華させることができている作品であると言えるでしょう。
更に伽椰子には、そのような攻撃的な呪いを持った背景に対してかなり陰惨な背景が提示されています。元々のストーカー気質と、それに対しての夫からの勘違いという非常に凄惨な事実が、「呪いとしての伽椰子」という存在を作り出し、我々に「呪いを持ったことへの説得」を与えてきます。
この佐伯伽椰子というキャラクターそのものの恐怖性を作り出したのは、日本のホラー映画においてかなり先進的であると同時に、明確に「ホラー映画」というジャンルを確立した作品であると言えるかもしれません。
3.すり寄ってくる「呪い」
本作の恐怖演出がかなり現実に対して親和性のあるものであるということは、再三の記述の通りなのですが、この「徐々に近づいてくる恐怖」というものは、ホラー映画だけにとどまらずあらゆる場面で見られる恐怖であると言えます。
映像的な恐怖感というものは、人間の解釈次第でかなり変わってしまうのですが、打って変わって本作は映像表現の中で「恐怖演出に緩急をつける」ことで、呪いが近づいているという感覚をかなり客観的に表現しています。
先述の「仁美」のエピソードはまさにそれであり、一瞬で超常的な現象が起きていることを受け手に理解させ、それが安全地帯にまで及び、最終的には呪いがくだされる、この間に存在している「いつ来るかわからない間」というものは、それそのものが恐怖となります。
恐怖というものは、人間だけではなくいろいろな生物が感じ取るもので、それはストレートに「命に関して重大な危機がある」ということを示すものでもあります。
そこから逆算していくと、「命の危険を与えるものが少しずつ日常的な何かに混じってやってくる」ということはかなり効果的に思えます。
それに加えて本作では、「命を奪いかねないなにかが、日常のふりをしている」という部分にもすり寄ってくる呪いの断片が存在しています。
この部分は映像作品でありながら、受け手の想像性を刺激した恐怖演出であると言えるでしょう。
あえて日常的な部分を強く残し、そこに軽い違和感をちらつかせることで「あれ? これってこうだったっけ?」という小さな不信を与えて、呪いというものが前提に存在しているからこその猜疑心を与えることに成功しています。
冒頭からのエピソードである「理佳」はまさにその小さな日常の違和感を強調し続けるものであると言えます。
ヘルパーの仕事で件の呪いの家に足を踏み入れる理佳ですが、彼女はその家に対して明らかな違和感を抱いている描写があり、ネグレクト状態のような老婆の姿を目にして仕事が始まります。
明らかにおかしな家、老婆、そこにまとわりつく怪奇現象、それらはすべて「理佳の知っている日常から少しだけズレている」というものを的確に表現していると言えるでしょう。
更にはこのエピソードが最序盤で入れられているということも有効な手立てであるといえます。「理佳」のエピソードではぼんやりとした輪郭をしていた「呪い」が、エピソードを重ねるごとに明らかに存在を強調していきます。
たしかに本作では、オムニバスとして呪いが降りかかる作品郡として描かれているのですが、同時にもっと大きな視点で見ると、「伽椰子という呪いの存在が徐々に明確になっていく」という、受け手側の「すり寄ってくる呪い」というものを知覚できるように作られています。
このようなエピソード運びというものも、本作が優れたホラー映画である所以なのかもしれません。
第5章:どうして本作は「邦画ホラーの金字塔」になったのか
1.映画作品としてのホラーの土台
ホラー映画というものは、それらの恐怖を持続的かつ効果的に与えながら、それでいてエンターテイメント作品として昇華させる、いわば二律背反的な難題を取り扱っています。恐怖というものは基本的に人間にとって不快なものであるため、それを感じさせるだけでは「作劇的な面白さ」につなげることが難しいと言えます。
本作はあえて「作劇的な面白さ」を恐怖演出全面に押し出したことで、「ホラー映画というものはこういうものだ」という、いわばテンプレートを明示したような作品になったのではないかと考えることができます。
物語としての起伏をクオリティや、単純な面白さではなく、本来エンターテイメントとは真逆の感情を与えることで、お化け屋敷的な恐怖感を擬似的に作り出したとも言えるかもしれません。
だからこそ本作は「映像作品としての恐怖感がずば抜けている」という評価が各所でされているのでしょう。
恐怖が主観的なものなら、それを解釈次第で如何様にもできてしまうことになります。だからこそ映像媒体とホラーというジャンルは元々かみ合わせが良くなかったのですが、そこで視覚的恐怖として伽椰子というキャラクターを設定したわけです。
故に本作は「近代的なホラー映画の土台的な立場」になったと考えることが出来ます
ホラー映画を考える上で「主観である恐怖をどのくらい万人に対して受け入れられるようにするか」ということをカバーしなくてはいけません。
本作ではその難題に対していろいろな方向からの恐怖演出を入れて高水準で収めているからこそ、いろいろなホラー作品の原点的なところに落ち着いたのかもしれません。
2.視覚的恐怖の難しさ
そもそも映画として恐怖を演出するということはかなり難題です。
ホラー作品というものに対しての評価が現在においても賛否両論的な声が多いのはまさにこのせいであり、「恐怖」という概念は受け取る気持ちで如何様にも変化するものです。
これは今までの記述の通りなのですが、本作の素晴らしいところとして、そんな評価がバラけてしまいがちなホラー映画という作品群の中で圧倒的な大多数から「怖い」という声が上がっているということです。
後述しますが同年代に同じような評価がなされた「リング」は作劇的な面白さもあり、それを評価する声があるのはある意味で当然なのですが、本作では徹底的に「恐怖させること」に特化した映像作品です。
そのため、「怖いか怖くないか」ということは完全な主観によるものになってしまい、評価がばらついてしまうはずです。
本作においてそれが少なかったのはひとえにここで考察したようなホラー演出として秀逸さに尽きるでしょう。逃れることのできない呪い、日常を侵食する上で恐怖が接近してくる感覚、最終的な追い打ちとしての凄惨な最期、絶対的な呪いとして君臨する陰鬱な背景、それらすべてが収斂された本作はまさにホラーの王道を地で行っていると言えるのかもしれません。
視覚的表現がホラー映画との親和性に乏しい理由として、「理解の難しいものに対して人は恐怖を抱きやすい」からだと筆者は思っています。小説の分野において恐怖が深化しやすいのは、活字が持っている部分的曖昧さ故の出来事でしょう。
活字で状況は記述されているが、細部については自分の想像性や知識によって補完することしかできない。この曖昧さこそが「理解不能」の感覚に人間を最も近づける要素になっていることは間違いありません。
小説という媒体の最も興味深い部分がここでしょう。同じ物語であっても、その時の知識や読解力、社会背景によって全く異なる物語が受け手の中で展開される、そのような個別的な物語展開が小説には存在しています。同時に、そのような細かな点で異なっていく物語展開のズレは、絶対的な主観である「恐怖」とかなり親和性が高いはずです。なにせその都度の感覚で、恐怖感というものは変わっていくのですから、一貫した評価を必要としないとする考え方もできるでしょう。
だからこそ視覚的に描写してしまうホラー映画の評価が賛否両論になってしまうのは本来普通の出来事です。にも関わらず本作ではそんな要素を押しのけたということになるため、いかに本作が緻密に恐怖演出を積み上げてきたのかがわかります。
本作における恐怖演出は視覚的な部分をうまく利用しながらも、それ以外の間接的な部分も恐怖演出に取り込んでいます。伽椰子の陰鬱な背景の描写では、直接映像に見せるのではなく、あえて背景音楽を抜かして効果音を強調する作りにするなど、想像性の余白を多少残した部分もあるのですが、それでも圧倒的に視覚表現が利用されています。
そこで違和感を拭うために、本作の恐怖演出は「一目で超常現象である」と理解できるものに留めています。布団の描写もそうですし、仏壇の中に引きずり込まれるといった描写がまさにそれであり、今までに見たことがない視覚的描写だからこそ可能になった恐ろしさであるとも言えるかもしれません。
そのような工夫が、本来であれば主観であった恐怖を客観的なレベルにまで引き上げたのかもしれません。
3.明確化された「リング」との対比
本作と同様、日本映画には「ホラー映画の金字塔」とされている映画が「リング」であると筆者は考えており、そのような評価がなされていることも見かけます。
本作と「リング」は、同じ年代のホラー映画ではあるのですが、この2つの作品は深く考えてみるとかなり毛色が違います。「リング」は言わずとしれた呪いのビデオによるタイムリミットの間で、呪いを解く方法を模索する作品であり、同じ呪いであっても、本作のように「逃れることのできない」ものではありません。
また「リング」は呪怨と比べるとミステリー要素が強く、全く情報がない中から少しずつ「呪いのビデオの根源」へ近づいていく作品でもあります。呪いというホラー要素をベースとしながらも、作品の根底にはどこか「真実を探っていく」というミステリー要素が抜きん出ている作品であると言えるでしょう。
実際「リング」の中で、キャラクターが真実に迫っていくさまはどこかサスペンスフルなところがあり、理路整然と小さな違和感を浚っていく感覚は、見ていて作劇的な楽しさがあります。
それに対して本作は、「リング」が表現した作劇的なエンタメ性を極力抑え、「不快さ」を全面的に押し出した構成になっています。本来同じようなジャンルを臨む時に、どこか部分的に意識してしまうというものが絶対的にあるのですが、本作はその意識を「真逆の作品性にする」という部分に向けられているように思わせます。
呪怨の中には、「わからない何かを解明していく」ような作劇的な面白さはかなり弱いものになっています。勿論ないわけではなく、「呪いの家で何があったのか」という見えない部分を探っていく楽しさはあるのですが、本作ではキャラクターたちが能動的にそこで起きた事実を探るわけではありません。
あくまでも呪怨のキャラクターは「被害者」であるということを一貫させて表現されており、だからこそ「そこで何が起こったのか?」という問いかけに対して「呪いに触れた過程で知ってしまう」というスタンスで返されています。
これは「主人公たちが自ら物語を解体している」という感覚からはかなり乖離するもので、従来までの物語の体系とかなり違う表現であると言えでしょう。物語というものは「主人公」という一人の語り手が掴み取っていく変化のプロセスを、受け手の感情移入や理解を持って楽しみに繋げていく性質があります。それが本作は極力抑えられ、「恐怖」というものに一点集中した作り込みは、大胆かつ勇気のいる選択だったでしょう。
ここまで大胆な決断に至ったのは、筆者は「同年代の作品にリングがあったから」というものも一つ噛んでいると感じています。勿論これは真実ではなく筆者の妄想に近いことなのですが、映画作品・リングは1998年に公開されているのに対して、呪怨は映画公開こそ2003年ですが、その原点であるビデオ版は2000年制作です。
この時間的距離感の近さはどこか考えさせられるものがあります。元々「リング」は、原作にあった強いミステリー要素をホラーに転嫁させることで、日本のホラー映画において圧倒的なクオリティを叩き出し歴史に名を残した作品であり、ミステリー的な要素を残しつつも明確に「ホラー映画」として作成された作品でもあります。
呪怨シリーズもまさにそのような「ホラー映画」を作ろうとした試みであり、リングとは明確に作品性が異なっているのはそのような部分的な意識もあってではないでしょうか。
呪怨とリングを比較すると、実は対照的な部分が多くあり、「身近な存在が呪いになるが、持ち運べるものと持ち運べないものである」ことや「呪いへの対処法の有無」、「能動的に拡散する呪いか否か」など、真逆のアイデアを採用していると捉えることも出来ます。
このように、呪怨シリーズは「リング」と明らかに対比的なイメージを持って作られているような感覚を覚えます。
素晴らしいことに、その試みは周知の通り、「日本の2代ホラー映画」として邦画の歴史に名を残したことでしょう。
第6章:「呪怨」が拓いた恐怖
1.最近のホラー映画が面白くないは事実か?
本作が劇場で「恐ろしい」という評価が席巻していたのは今から20年と昔のことであり、まさに日本では「ホラーブーム」として一大ムーブメントを引き起こしていた時期であると言えます。
それに対して現在はそのような動きは明らかに下火であり、「最近のホラー映画は〇〇で面白くないし怖くない」というような意見が散見される様になってきました。
これに対しての客観的な事実について筆者が語ることは難しいのですが、あくまでも「呪怨と比較した時のホラー映画」としてであれば考えることができるかもしれません。
そもそもですが、「最近のホラー映画が怖くない」というものは、作品のレベルよりもどちらかというと受け手のレベルの高度化ということが一つの原因であると筆者は考えています。
ホラー映画として絶大な地位を獲得した呪怨ですが、本作は現在見ても怖いと表現する人は存外に少ないでしょう。それは近年のコンテンツ量がその時と比べると圧倒的に増えており、媒体の時点から大量の選択肢が生じてしまっていることも原因の一つとして考えられます。
恐怖というものは何度も述べた通り主観的なものですから、それに対しての見解は常に異なります。そのため、受け手の経験にかなり影響してしまうところが多くあります。近年ではリアルなホラーゲームが世を席巻しており、「恐怖に対しての経験値」というものが当時とは比べ物にならないほど上がっていると考えることができます。
今ここでいろいろな角度から考察をしている呪怨ですら、映像のレベルとしては現代社会で通用するものとはいい難いのかもしれません。それほどまでにコンテンツ量が爆発的に増えており、それらの中で競争が発生していると考えれば、必然的に主観に委ねられる「ホラー映画」というコンテンツそのものがダメージを受けていると考えることができます。
また、呪怨と比較してわかることとして、「視覚情報の明度の違い」というのもあるでしょう。
昨今で映像技術やレベルが桁違いになったのは言うまでもないのですが、そこで最もシンプルに影響するのが画質です。前述の通り恐怖というものの根源は「理解不能さ」であると考えると、作品の画質が向上するということは、ホラーにおいて決して良い意味ばかりを持つものではなく、「よりはっきりと伝わってしまう」ということでかみ合わせが良くないでしょう。
そもそもかなり明確な視覚表現がされていると言える呪怨ですら、あえて曖昧な伝え方をして恐怖を駆り立てる手法を選んでいる時点で、多くのクリエイターにとって「ホラー作品は考える余白を残す」ということが絶対的に必要であることは周知であると言えます。
そんな中で「画質が上がりました。いろいろなものがはっきり見えます」というふうになると明らかに恐怖心は減るでしょう。昔の映像が少し不気味な雰囲気を持っているのは、画素数が少なくぼやけているため、錯覚でいろいろなものに見えてしまうからにほかなりません。
このため、現代において革新的なホラー演出というものは、従来までとは異なる視点から考える必要が出てきてしまいます。
タイトルである「最近のホラー映画はつまらない」ということに、あえて二元的な判断をすると「今までのホラーの手法から見ればつまらない事が多い」という結論に至るのかもしれません。
2.提示された「可能性」と「ハードルの高さ」
前項よりの続きになりますが、ホラー映画の名作「呪怨」は、ホラー映画という作品群の中において、「可能性」と「ハードルの高さ」の二つを示していると考えています。
「可能性」とはストレートに、今まで難しいと考えられている出来事であっても、やり方の工夫次第では圧倒的な恐怖を作り出すことができるということです。
呪怨にあった極めてレベルの高い恐怖演出は、ここで解説させてもらったいろいろな方法や考え方を利用して圧倒的な恐怖感を出していると言えます。
しかしそれは、「従来までの方法とは異なり」、「現代のクリエイティブフォーマットの中で」「人間の心を十分に理解し」「恐怖させる」というかなり難しい工程を越えていかなくてはいけません。
呪怨は確かに2000年代においてこれらのハードルをすべて超えたことで圧倒的な名作となったのは周知ですが、これを現代において越えていくことはその当時のハードルを遥かに凌駕するものになるでしょう。
これはホラー映画にとどまらない話で、クリエイターは無限の創造力があるかもしれませんが、現代のクリエイターは「それまでの経験と作品」すべてを考慮した作品を作り出さなくてはいけないという部分で、今後のクリエイターは非常に辛いことを強いられていると筆者は感じています。
素晴らしい作品というものは世の中に沢山存在して、それらは他のクリエイターが全身全霊をかけて作り出したものです。それらを凌駕するものを今後作らなければいけないという、名作故のハードルの高さというものが確実に存在しています。
それらのジャンルの中でもホラー映画はよりハードルの高さがあります。
絶対的な主観に対して我々が考慮するべきものはあまりにも多く、恐怖を生み出していくことの難しさを強調します。
更にはクリエイターが相手をするべくは、それらの圧倒的な恐怖感を味わい尽くした猛者たちなのですから、そのレベルの高さはひとしおです。
ですがそんな中でも、本作の残した功績というものはかなり大きいものでしょう。まさにこれを超えるような作品を作っていくことが、私を含めて多くのクリエイターに求められていることのなのかもしれません。
終わりに
今回は映画「呪怨」に付いての感想文を書かせていただきました。本作はホラー映画というややニッチなジャンルながら、その道の圧倒的なレベルの高さを誇っている作品でもあります。
内容そのものはかなりショッキングで、恐ろしげなものなのですが、新たな創作物の可能性として、一度拝見してみるのはいかがでしょうか?
今回はここまでご覧いただきありがとうございました。筆者の個人的な気持ちを述べさせていただき、それが素晴らしい作品の足がけになることを切に願っています。