創作の独り言 低完成度な作品とは
昨今の日本では、「作品としてのクオリティ」として、低レベルな作品に対して目が行きがちである。
小説だけではなく、映像媒体などを始め、多くの創作物についてレベルが語られ、少しでも他の作品と見劣りするようであれば容赦なく捨て去られる世界がまさに今の世界であると表現できるかもしれない。
私もこれについては非常に身近な問題かもしれない。作品を投稿しても、大量にある多くの作品に埋もれていき、自分の作品が全くもって見られない事を嘆くときもある。
しかし、その一方で「作品の程度」というものは如何にして決まるものなのだろうか。この記事ではそれについて考察してみよう。
作品の完成度はどこで決まるか
まず語るべきは、「作品において何が基準で評価されるのか」という部分である。
昨今では色々な媒体で「作品に対してのレビューや評価」をすることができるようになっているものの、それぞれの作品の評価というものは非常にマチアチであることは気になるところである。
彼らの評価は基本的に「論理的な評価」であるが、例えばその基準としてどこに重きを置いているのかは全く違う。
そもそも、Twitterなどの匿名性の高い媒体などで流されている評価というものは、「主観的側面」がかなり強くあるため、考える上で「好み」となってしまっていることも少なくないだろう。
作品の完成度とは、この記事においては「全体的な要素が高い段階であり、かつまとまっていること」であるとしたい。
どんなものであっても作品はいくつかの要素があり、それぞれが調和的に保たれていることが前提条件となる。具体的に言うと下記の通りだ。
・作品の軸となる物語
・媒体ごとの描写の技工
・物語そのものの描写の深さ
・作品そのもののメッセージ性の有無
色々な要素があるが、小説や映画など色々なジャンルで考えていくとこのような事になってくるだろう。
これについては概ね他の「独り言」でも語っているとおりであるが、この中で最も賛否が分かれるのは「最後のメッセージ性」の部分である。
作品としての完成度が高いことは勿論大切であるが、私はこの「メッセージ性」の部分が作品というより、作りての意識を分ける部分であると思っている。
私は特に「物語」を考えることが中心であるが、その中で自分が考える「伝えたいこと」ということは概ね中心にあると思う。
その作品を作る上で、自分の好みというものはやはり大切な要素であるのだけれど、それを作品として発表するというところに意味がないと、私は正直作品として作られることに対して懐疑的になってしまう。
作品として世に出ることということは、それだけの責任が伴うのだから、もう少し考えたほうがいいことは勿論である。(これは昔の私に是非言いたいことでもある)
回り回って、私は作品そのものの完成度は「核となるテーマ」をどれだけ適切に描写・肉付けできているかだと思っている。
・低完成度な作品は「核となるテーマ」が希薄
私が思うに「この作品は低クオリティだ」とか、「完成度が低い」ということは、勿論作品として面白いか面白くないかや、要素の調和も大切なのだが、個人的には表題の「核となるテーマの希薄さ」を最も推していきたい。
この世には様々な作品が存在していて、なんなら「攻撃的な意見を受けやすいジャンル・作品」というものもあるかもしれない。
勿論これらの作品をすべて手放しに喜べるわけではないのだが、私はこれらに対して少なくとも「駄作」と一言で烙印を下すことは自分ではできない。
私も多くの作品に触れてきて、自分でもいくつも長編的な作品を作ってきたし、創作というところにもう少しで10年以上身を置くことになるからこそ、このような結論に至っている。
どの作品も、「これを作りたい」という意思を帯びている。
アマチュアの作品ほどその思いというものは強くあって、あらゆる柵に対して背を向けた「狂気性」というものがどこか備えられている。
そこには核となるテーマとして「自分はこれが面白いと思った」という力強い主張があると思っている。
作品を作るということはそれだけ熱量がないと難しいことであり、何十時間とかけて作られたそれを、利益もないのに行うのはまさに「凶器の一言」である。
アマチュアの作品というものは多かれ少なかれ、そのような狂気性が秘められている。
だがそこから手を離れて「利益のために作り出されたもの」というものは、その狂気性が薄れて、代わりに「意識的な核となるテーマ」が出現する。
今までは純粋な狂気性や渇望が作り出していた「作品」が、利益という客観的な指標と打算的な思考によって作り出されることはそれすなわち「作品としての存在意義」を薄れさせる。
だからこそ、世に打ち出されている多くの作品は「核となるテーマ」が必要になる。
打算的で、絶対的な利益を出さなくては行けない状態において、我々創作者は作品の背景にあるものを「利益」であることを知ってしまっている。
それを覆すほどの「核となるテーマ」と、それをしっかりと私たち受けとる側に届くような「テーマの肉付け」が必要となると私は思う。
・利益が透けて見える作品は「存在意義が薄い」作品となってしまう
だからこそ、私たちは世に打ち出されている多くの作品に対して非常に懐疑的かつ、作品としてのクオリティを求めている。
映画やアニメとして、「コンテンツ」として成立した作品達は、私たちアマチュアからすれば「一定のレベルがあると判断されて選別されたもの」である。
そこに立っているのはいわば、ライバルでもあり、アマチュアとして必死に身を削って書き続けている人たちの憧れともなるのだから。
一方で創作者として「世に出ている作品」はそれ相応の責任も同時に存在しているのだ。利益というものが透けて見えるという前提すらもひっくり返すほどの面白さや描写技法、そしてそこから迸る「テーマ性」を私たちは常に作品に対して要求している。
面白くて、素晴らしくて、考えさせられる、そんな作品たちを私たちは目指して常々躍起になって作品を綴り続けている。
しかしそんな状態で、それらの作品が「テーマ性の感じられないただの金稼ぎ」に成り果ててしまったら我々アマチュアはまさに絶望するしかないと思っている。
それを目指しているのに、結果的に自分が個人的に楽しむほうが自由に作品を追求できるということを知ってしまえば、多くの作者は筆を折るかもしれない。
テーマ性の薄い作品、いわばここで言うところの「完成度が低い作品」というものは、背景にある利潤の薄さを感じ取れてしまう、もしくはそのように誤解させてしまう時点で、創作の界隈において大きな悪影響になってしまうかもしれない危険性を孕んでいる。
一方でこれは単純に特定の因果関係に収束するようなことではない。現代の膨大なコンテンツと情報化社会など、無視できない素因は沢山あるといえる。
それに対していかに「創作の力を持って作品を作り出せるか」ということが、多くの創作者にかかっているのかもしれない。
とは言え私は作り出された作品の程度だけで、人が変わるとは思っていない。作品を認識するためには、それを認識できるだけの認知レベルがあって初めて成立することであり、異なる解釈をする人も大勢いる。
それは事実である。
けれどもいわば理想として、「テーマ性の薄い作品」というものは淘汰されていくべきなのかもしれない。創作そのもののレベルが極端に低下する可能性も秘めているそれを、野放しにしていれば最終的に創作というものは少しずつねじれたものになってしまいかねないから。
・最後に
色々話しているが、勿論これは最初に前提にした「数ある意見の主観的なものの一つ」ということを忘れてはいけない。
そんなことは妄想だ、理想の押し付けだとする人がいてもしかたないし、むしろそのようにあるべきだとすら思っている。
これを見て「低クオリティな作品」に対して色々な考えが発起していくことを願うばかりである。
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