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フラッシュバックの覚え書き

自分自身を研究対象として、睡眠時間や体調、気分、フラッシュバックのトリガーや内容など、いろんなことを毎日記録している。
そのなかで、ふと何か規則性や法則に気づいたり、新しい発見があったりして、自分の抱えているトラウマについて理解が深まることがある。
今回は、フラッシュバックについてまとめてみる。

フラッシュバックとは?

フラッシュバックの理解に役立つ本。

タイムラグ

日常の中で、トリガーに出会ってからフラッシュバックが出現するまでの間に、時間が空くことがある。空かないこともある。
これは割と大きな発見だった。

それは数時間のときもあれば、2日くらいのこともある。突然に思えるフラッシュバックも、数時間前や昨日、一昨日のトリガーのせいだったりする。
ラグがない場合はトリガーを認識しやすいから、長らくこれは「トリガーのない、突然やってくるフラッシュバック」だと思っていた。

解離が日常に馴染みすぎているので、トリガーに出会ったその場ではフラッシュバックを起こさずにサラッと乗り切れるのかも知れない。それでもやっぱりトリガーはトリガーで、パーツたちは刺激はされているので、一人になって落ち着いた頃にフラッシュバックが始まるという原理かなあと仮説を立てている。

記憶と感情、フラッシュバックの種類

私の場合は、「辛い記憶」と「当時の感情」は別々に保存されているようだ。『トラウマと記憶』はまだ読めていないが、記憶にも種類があるらしい。

自転車の乗り方は言葉では説明できないけれど、いざ乗ろうとすれば、なんとなく身体が自然に動いてしまうわけです。(中略)
この「言葉ではうまく説明できない記憶」というのは、専門的には「手続き記憶」と呼ばれています。これとは反対に、いつどこで何をしたか、といった記憶は「宣言的記憶」と言われます。(中略)
トラウマも「手続き記憶」として記憶されます。

『その生きづらさ、発達性トラウマ? ポリヴェーガル理論で考える解放のヒント』花岡ちぐさ

私のトラウマに関する記憶は、宣言的記憶(こんな出来事があった、という文字的な情報)と手続き記憶(フラッシュバックなどのトラウマ反応)に加えて、映像記憶もある。
例:「○○をして、親にひどく叱られた」というのは「宣言的記憶」、親に似た人を見かけるとドキッとするのは「手続き記憶」、「親に叱られているシーンの映像」という映像記憶がある。

映像記憶はたくさんあるのに、それが繰り返し再生されても、どれも感情が思い出せない。
逆に、感情フラッシュバックの時は、映像も宣言的記憶もなく、ただしんどいだけなので何のトラウマかさっぱりわからない。

外的感覚のフラッシュバックでは、音が聞こえたり、匂いがしたりする。音は頭の中、耳の中で鳴っている様な感じで、現実の音と混同はしない。右耳、左耳と左右がはっきりわかる時もある。
匂いは現実と区別がつかないため、フラッシュバックなのか定かではないが、私だけ嗅いだ、一瞬フワッと香った、現在の状況からしてその匂いはあり得ない、といったことからフラッシュバックかなーと思っている。

こうやって記憶が分断されているからこそ、トラウマになっている出来事を特定しにくい。フラッシュバックという言葉は知りつつも、これらが当てはまるとは長らく思っていなかった。

トラウマ持ちはその出来事に関する記憶がないこともあるという。解離していて一切思い出せないどころか、宣言的記憶すらなく、出来事自体がなかったことになっているらしい。
私にはそんな風に解離している記憶はほとんどないだろう。分断されてはいるが、宣言的記憶はかなりある方だと思う。

感情フラッシュバック

私の場合、感情フラッシュバックが一番キツい。色んな出来事の感情が全部一つになっている様な感じた。「なんて自分はダメなんだろう」と思うような出来事が何度も繰り返しあったとして、それらが毎回処理できずにどんどん溜まっていくようなイメージだ。100回分くらいの出来事の感情が全部押し寄せてくるようなフラッシュバックだが、宣言的記憶は全くない。色々な映像記憶がチラチラ浮かぶが、どれもこの感情の大きさには見合わない。トリガーも特定しにくくてなんとも大変である。

感情フラッシュバックに苦しむと他のパーツも刺激され、触発されて別のフラッシュバックを起こす。フラッシュバックのループが始まり、希死念慮も出てくる、どうにか逃れるために解離したり、ショート動画を何時間も見たりといったひどい状態になる。日常生活すら大変だ。

最近はフラッシュバックがかなり減ったが、今日もまた新しいタイプのフラッシュバックがあった。出来事は特定できているし、やらなければならないと思っていたテーマだ。

数ヶ月前はこの研究をやらないと希死念慮に負けて本当に死ぬかも知れないという怖さがあって、キツい思いをしながら本を読んで勉強したり、ノートに書いたりしていた。例え気休めでも、進んでいる感じがしないとやってられないレベルだった。

フラッシュバックはかなり減り、トラウマの出来事もだいたい検討が付き、全体像も見えたし、治療が進んでいる感じもする。今はトラウマ治療に対してかなりゆるく構えていて、あと1年くらいで終わるのかなーと思っている。希死念慮はまだあるけれど、乗っ取られて本当に死んでしまうかも知れないというシリアスな心配はもうしていない。

フラッシュバックは、希死念慮はあの時代を生き延びた証だ。癒すべきパーツ、和解すべき防衛者がまだまだ眠っている。

終わり。