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平安時代の解像度 | 榎村寛之『謎の平安前期』

平安時代といえば、貴族文化が花開き、華やかな王朝文化が発展したイメージが強いと思います。しかし榎村寛之著『謎の平安前期』を読むと、その背景にある複雑な政治・社会の変化に驚かされます。この本はステレオタイプな「平安時代らしさ」を改めて考え直すきっかけとなりました。


荘園制と律令制:国家の崩壊か、新たなバランスか

教科書的には、「律令制が崩壊して荘園が広がった」ないしは「大貴族や寺社が開墾した土地を荘園として私物化して班田制が崩壊した」などと語られることが多いですが、著者はこの見方に異を唱えます。確かに荘園が増加すると、中央政府の財政基盤は弱まります。しかし、それは一方で、地域の開発領主が自律的に土地を運営する仕組みを生み出しました。これにより、災害頻発した九世紀においても、民間のエネルギーを活用して国家全体の生産力を維持できた、ということです。

公地制と荘園制の二重支配体制は、むしろ国家負担を軽減し、持続可能なシステムとして機能した側面があるのだと思います。この視点は、従来の「荘園制=律令制崩壊」を超えて、民間活力を評価する現代の経済学的視点にも通じるのかなと思いました。

単純に「律令制が崩壊して悪くなった」という見方ではなく、日本独自の形で制度を適応させていったプロセスだと考えると納得感があります。

『源氏物語絵巻』が語る時間のズレ

私たちが平安時代をイメージするとき、国宝『源氏物語絵巻』の絵が頭に浮かぶかもしれません。しかし、この絵巻は紫式部が生きた時代ではなく、その百数十年後の院政期に描かれたものです。これにより、私たちが思い描く平安時代像は、実際の宮廷文化とは異なる「過去の解釈」が混ざったものになっています。

著者はこれを「暴れん坊将軍が大坂夏の陣で活躍するようなもの」と表現しています。確かに、バクっと「平安時代」とくくるには400年は長すぎます。平安初期の宮廷女性の姿の写真が掲載されていますが、所謂十二単ではありません。『源氏物語絵巻』で源氏物語を想像するのは、生成AIが出力する画像を信じるようなものなのかもしれません。

十二単より活動的な平安初期の宮廷女性の姿

桓武天皇の改革と技術の力

平安時代の始まりに大きな影響を与えた桓武天皇は、自らの正当性を示すため、東北戦争(蝦夷征討)と新しい都の造営に力を注ぎました。ここで重要なのが、渡来系氏族の技術を積極的に取り入れた点です。この技術革新の動きは、桓武の改革が単なる権力維持ではなく、社会全体の効率化を目指していたことを物語っています。

これにより、平安時代の技術的・文化的進歩が加速したことは間違いありません。改革を支えた現場の優秀な官僚たちの姿も描かれ、当時の「実力本位」の政治文化が垣間見えます。

女性の地位と「呪術」の後退

平安時代前期は、女性が「崇高なる存在と一般社会をつなぐ」役割を担っており、女性が男性と対等に宮廷で要職についていました。

しかし、女性の地位は後退し、九世紀以降名前すら記録に残らなくなっていきます。「紫式部」「清少納言」など通称しか残らず、中宮・女御のサロンに活動の場が制限されていきます。これは網野善彦の『日本の歴史をよみなおす』で指摘されていたような「呪術的要素の後退」によるものなのかもしれません。

その後、院政期には女性が「女院」という新たな立場を確立し、天皇や上皇の財産管理を通じて政治的影響力を取り戻します。政治から疎外されて独自のサロンとしての世界を作り上げ、それが転化して女院になったのだとか。確かに建礼門院とか美福門院とか、院政期・源平合戦の頃は「〜門院」が出てくる印象です。

名前に見る価値観の変化

もう一つ興味深いのは、名前の変化です。九世紀後半、文徳天皇の時代に、かつての蘇我「馬子」や藤原「宇合」のような名前から、縁起の良い二文字を使う「良房」や「滝雄」へと変化していきます。この背景には何かしらの価値観の変化があったと思われますが、本書では具体的な内容にまでは言及されておらず、気になるところです。

平安時代の解像度

本書を読んで強く感じたのは、私たちが歴史をどのように捉えるべきかということです。平安前期の社会は、ただの「律令制崩壊」の時代ではなく、新たな社会構造が模索されていた過渡期でした。律令制という「吊るし」の服を着てみたものの、あちこちと体に合わないところがあり、試行錯誤しながら仕立て直していった時代だったようです。

「794年に桓武天皇が平安京に遷都し、菅原道真が遣唐使を廃止し、そのうち摂関政治が始まりました」という漠然とした理解から大きく解像度を高めることができました。

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あめふらし
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