〜爪〜職業相談窓口から②|#短篇小説
こちらの短篇は、後篇になります。BRILLIANT_Sのハローワーク勤務時代の実体験から派生したお話です。
先ず、以下をご高覧頂ければ幸甚です。
↓ ↓ ↓
②
カウンターに座ったまま待ち構えていると、獅子尾さんが大きなバッグを抱えて、照れたような顔で1階のフロアに降りて来た。
目の前までたどり着いたとき、私は立ち上がって、
「―――どうぞ」
と自分の前の席を指し示した。
獅子尾さんはぎこちなく座った。
「どうしたんですか?獅子尾さん」
彼は身体をゆっくりと揺らした。
「ああ、いや、その・・・
話がさ、中々伝わらなくってよォ」
「・・・そうなんですか?申し訳ありません。何故2階に?」
「・・・いや、案内されてよォ」
土曜開庁のときは、いつもの嘱託職員でなく、ハローワークの正職員が受付に立つ。きっと窓口を勘違いされたのだろう。
結局その日は、求人票は獅子尾さんから出されず、紹介状も作らなかった。獅子尾さんの「嘆き」のようなものを、ずっと頷いて聴いていた。
平日には―――多分人が多いからだろう―――あまり洩らさない話だった。
誰にでも、社会に対して嘆きたいときはある。獅子尾さんの「嘆き」を吐き出す場所が他にないなら、自分がその場所になっても良いと思った。
その一件があってから、私は「獅子尾さんを治めることが出来る者」と見做され、彼の職業相談は全て任されることになった。
失業保険受給者向けの就職セミナーを担当しており(講師ではない)、5階のフロアまで上がっていても、獅子尾さんの来所の度に呼び出されて、交代するほどだった。
獅子尾さん本人も、腫れ物扱いされなくなった(?)のが良かったのか、精神的に落ち着いてきて、警備員の職種中心に長く勤めることが増えた。
(最近、見なくなったな・・・)
忙しい最中ふと、彼の顔を思い出すような時があった。
―――
その後、私は夫の転勤が決まり、何かと慌ただしい日々を過ごしていた。当然ハローワークは退職することになる。
新しい人への引き継ぎや資料の整理。お世話になった職員の方々や、同僚の嘱託職員の人たちとの挨拶、送別会の誘い。女性の所長は(それまで会ったことも無いのに)所長室に私を呼んで、わざわざ
「辞めるのは残念だけど、仕方ないね」
と告げてくれた。
恐らく私のことを話した職員の人がいる。その人の見当もついたが、またこれは別のエピソードで書いてみよう。
久し振りに、獅子尾さんが姿を現した。閉庁する1時間ほど前で、職業紹介のフロアはもう空いていた。
「―――獅子尾さん、お久し振りですね」
私はにこやかに彼に席を勧めた。
ちょっと照れながら、身体を揺らしてゆっくり座るのは、いつものことだった。
何となく彼は以前よりすっきりしたように見えた。仕事に出る回数が増えて、健康的な生活になってきたのかもしれない。
「藤澤ちゃん、また仕事紹介してよォ」
「・・・はい、勿論ですよ。
どちらを見て来られましたか?」
獅子尾さんは探してきた求人票を何枚かカウンターに広げた。その中に、初めて【介護職】の求人があった。
(介護職・・・?)
私はその仕事内容を熟読した。何故今までと異なる職種を選んだのか、獅子尾さんの心境の変化までは分からなかった。
介護職は「我」を捨てて、相手を一番に立てなければならない。短気では続かない仕事だ。
そして獅子尾さんは・・
私は、獅子尾さんがカウンターの上に両手を置いているのを眺めた。彼はニヤニヤと笑いながら、私の反応を見ていた。
(―――怒るかもしれない。
でも、もし獅子尾さんを身内のように思うならば、伝えなければいけないだろう・・・)
私は覚悟を決めた。
「・・・獅子尾さん。
獅子尾さんが介護職を選ぶのは、良いと思います。
・・・ただ、私も以前ヘルパーをしていたのですが、介護職に就くなら、清潔にしないと嫌がられます。
獅子尾さん、少し気になるのですが、爪を短く切る習慣を持てますか?
爪の中の汚れを取って、綺麗に保つことは出来そうですか?」
―――獅子尾さんの顔が、笑ったまま引き攣るように固まった。
彼の両手は、ずるずると、カウンターの下に退がっていった。
そのときの獅子尾さんの爪の中は、黒く汚れていた。
たしか、そのあと・・・1件も紹介せずに、固まった雰囲気のまま、彼は帰ったと思う。怒鳴ったりはしなかった。どちらかと言うと悄然としていたかもしれない。
―――
獅子尾さんがその後ハローワークへ来られたか、まったく記憶にない。私以外に相談した人は無かったように思うが、違うハローワークに鞍替えしたかもしれない。どちらにせよ、退職した今ではもう分からない。
獅子尾さんにはずっと心残りがある。心根は優しい人だった。
何とか、彼にマッチングした仕事を―――
「私が」、紹介したかった。世の中を嘆かずにすむように、あのぎこちない笑顔が本物になるように・・・などと、厚かましく考えてしまうのだ。
【了】
▶Que Song
ひとり暮らし/憂歌団
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