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村上春樹的「100%の女の子」を具現化した乃木坂46遠藤さくら
遠藤さくらについて短く書いた前記事がこちら。
カップスターと乃木坂46のコラボ企画で「サシメン」という乃木坂メンバー2人の対談が行われている。
vol.6の「つくりがちなふたり」では4期生の林瑠奈と5期生の一ノ瀬美久がトークしている。
私の推しメン、宝塚にいそうなルックスの林瑠奈は遠藤さくらで映像作品を撮りたいという。林瑠奈が大学で映像について学んでいることは、オタの中では周知の事実だ。
そして林瑠奈は、遠藤さくらの魅力をこう語る。
「さくちゃんは概念の女の子」
さすが!さすが多才なるるる様である。遠藤さくらの本質を言い当てている。
異論を承知で言うならば、遠藤さくら以上に「ヒロイン」として完成度が高い女性アイドルは歴代でもそう多くはないはずだ。
「アイドル」として最高の存在はあまた多くいるが、「ヒロイン」となると一気に絞られていく。
中森明菜、松田聖子からゴマキこと後藤真希、なっちこと安倍なつみ、あややこと松浦亜弥、前田敦子や大島優子と女性アイドルは多々いる。
乃木坂46だけでも生駒里奈、白石麻衣、橋本奈々未や山下美月など人気アイドルは多い。
しかし、遠藤さくらのヒロイン感、アイドルとしてのブレなさ、まさしく「概念の女の子」としての抽象化された姿は唯一無二だ。
まず彼女は見る人を萎えさせるような自我を出さない。アイドル業は受け手であるファンが我儘なまでに楽しむことによって成り立っている。いわば、ファンがアイドルの持つ「余白」に塗り絵をする娯楽なのだ。
黒髪で清楚、控えめな性格の読書好き、普段はやや自信無さげに見える。
それでいて自分の芯はあり、笑顔や甘え方や意外な酒豪っぷりは典型的なアイドルファンの心のど真ん中を突く。
更に案外、彼女の肝が座っていることは、ライブで別人のように放つオーラや活動休止が一切ないことでも分かる。
加入して即、センターに抜擢され、乃木坂46という、清楚路線のルックスに定評があるグループの主軸として多忙を極めてきた。
しかし遠藤さくらは不調の影すら表に出さない。控えめと言っても、主体性の無いダサさはなくメンバーへの言葉も心がこもっている。
好きな本や音楽(リトグリやaikoとか)もしっかりと自分の好みがあるが、潔癖なアイドルオタを失望させるようなエグい趣味では無い。
寧ろ、男が聞いたら喜ぶようなラインナップだ。それでいて狙ってます感も出さないのだからすごい。
まさしく、漫画やアニメや小説に出てくるヒロインそのものなのだ。
もちろん生身の人間だから、あざとい演出もあるだろう。見せていない感情も表情も沢山あるはずだ。
しかし、男女共に多い「プロのアイドル」にありがちなストイックな演出ゆえの闇を感じさせないのだ。
彼女には作為がない。タモリの言葉を借りるなら、「やる気のある者は去れ」をクリアしている。
堂本剛の記事で引用した、『エースをねらえ!』のお蝶夫人が主人公・岡ひろみに伝えた名言を再び。
「わたしがやる」とか「わたしにならできる」とかいつも自我が表面に出る者は頂点には登りきれない。
天才は無心なのです。
堂本剛の記事はこちら。
そう、アイドルが1番高みに上り詰めた境地は「無心」なのである。
でも考えてみてほしい。実際に生きている人間が、特に売れなくては生き残れない芸能界の典型とも言えるアイドルが無心でなどいられるだろうか?
そう、遠藤さくらは「天然」では無い。考えた末に「概念の女の子」として振る舞えるのだ。少なくとも画面越しに芸能界を眺める一般人の私には、そう映る。
策を練ってアイドルになることは他の人にもできる。スイーツや果物が好きだと言ってみたり、異性ウケする髪型や言動を貫いたり、ファンサービスを欠かさなかったり。
しかし、どうしてもそこに綻びは避けられず、ファンに受け入れられるための「自我」や「作為」が透けて見えてしまう。
そこを透明に見せる、無心に見せることが自然にできてこそ「アイドルの天才」だと思う。遠藤さくらは天才だ。
本当に何も考えていない「天然」にも、自我を確立させた「秀才」にも出来ない離れ技である。
話は変わるが常々、秋元康の書く乃木坂46の歌詞は小説家の村上春樹や新海誠の映画と似た世界観だと思っていた。
その村上春樹の短編小説に「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という作品がある。
新海作品『君の名は。』のモチーフにもなったショートショートほどの長さの小説だ。
あらすじを記す。
4月のある晴れた朝、原宿の裏通りで「僕」は100パーセントの女の子とすれ違う。50メートルも先から「僕」には、彼女が100パーセントの女の子であることがちゃんとわかっていた。正直に切り出した方がいいのかもしれないが、あなたにとって私が100パーセントの女の子だとしても、私にとってあなたは100パーセントの男じゃないのよ、と彼女は言うかもしれない。
花屋の店先で、「僕」は彼女とすれ違う。彼女はまだ切手の貼られていない白い角封筒を右手に持っていた。彼女はひどく眠そうな目をしていたから、あるいは一晩かけてそれを書き上げたのかもしれない。
振り返った時、彼女の姿は既に人混みの中に消えていた。
心のどこかに運命の人、100%素敵な相手がいるかもしれない。そんな淡い思いを抱いて生きている人もいるだろう。
そんな話なのだが、当然のことながら100%の恋人など存在しない。
多くの人が10代の頃、好きになったら理想の人と思える恋について友人と打ち上けあってきたのではないか。
しかし、現実を知り、相手を美化することを止めることを覚え、夢幻ではないパートナーとの将来を知人に報告する。
そうやって人は大人になるが、心のどこかで「白馬に乗った王子様」のやって来る音や「自分だけの白雪姫」を待つ気持ちも淡く残っていたりもする。これは人によって程度が違うだろう。
村上春樹、あるいは新海誠的ヒロインは多くの男子の心にいながらお目にかかることのない幻想のはずだった。
しかし、遠藤さくらは男子が持つ「100%=理想の女の子=概念の女の子」の最大公約数を保ったまま具現化して存在している。
考えた末の無心のアイドル。それは、中森明菜のカッコよさや松田聖子の透明感、ゴマキの唯一無二の媚びない魅力やあややのプロアイドル振りとはまた違う。
清楚がコンセプトの乃木坂46が軌道に乗った4期生、ガツガツせずに乃木坂メンバーでいられる状況だからこそ許された、一ミリの隙もないヒロインっぷりは、ときめくと同時に少し底知れない怖さも…いや、怖いとすら感じさせない。
すごいよ本当、さくちゃんは。