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短編小説を読む──芥川龍之介「羅生門」(2)

前回の続き。


羅生門

第六段落

雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍(いらか)の先に、重たくうす暗い雲を支えている。

芥川龍之介「羅生門」

 羅生門に雨の音が集まってきている。羅生門の下で、魚眼レンズで空を見上げたようなイメージか。
 時刻については、第一段落では「暮方」と書いてあり、第四段落では「刻限が遅い」とあった。ここではさらに暗くなっている。でも夕闇だからまだ完全な夜じゃなくて、雲の暗さと合わさって鬱々とした感じがする。

第七段落

どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑(いとま)はない。選んでいれば、築土(ついじ)の下か、道ばたの土の上で、饑死(うえじに)をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊(ていかい)した揚句あげくに、やっとこの局所へ逢着(ほうちゃく)した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人(ぬすびと)になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

同上

 第五段落で「何をおいても差当り明日(あす)の暮しをどうにかしよう」というのが「どうにもならない事」だった。明日の暮らしもどうにもならない、どうにかするために手段を選んでいる余裕もない。あれこれ選んでいたら死んで羅生門の上に……。「選ばないとすれば」要するに好む好まざるに関わらず、「盗人になるよりほかに仕方がない」。
 あれこれ考えていては死んでしまう。盗人になる以外に生き延びる道はないと結論したのだが、とはいえ積極的に「盗人に俺はなる!」と肯定する勇気はない。困っている。
 羅生門は「狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た」(第三段落)場所でしたから、どちらにも片足を突っ込んでいる。狐狸になれたら楽なのかもしれない。

第八段落

下人は、大きな嚔(くさめ)をして、それから、大儀(たいぎ)そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶(ひおけ)が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗にぬりの柱にとまっていた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行ってしまった。

同上

 下人が暇を出されたのは「四五日前」(第五段落)。多分それからご飯もまともに食べられていない。体力も落ちているし、しかも「火桶が欲しいほどの寒さ」で風も吹いている。そりゃくしゃみもでるし、立ち上がるのも大儀だろう。荒廃した雰囲気に花を添えていた(?)きりぎりすすらおらず、孤独な感じ。

第九段落

下人は、頸(くび)をちぢめながら、山吹(やまぶき)の汗袗(かざみ)に重ねた、紺の襖(あお)の肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患(うれえ)のない、人目にかかる惧(おそれ)のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子はしごが眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄(ひじりづか)の太刀(たち)が鞘走(さやばし)らないように気をつけながら、藁草履(わらぞうり)をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。

同上

 汗袗というのは下着のことで、下着の上に襖を重ねているのは、やはり寒いのだろう。首を縮めて、肩を高くするのは、やってみるとちょっとだけ首周りが温かい。
 流石に屋根があるとはいえ風が通るから、石段の上で寝るわけには行かない。それに門の下にいたら人に見られる可能性がある。「盗人が棲む」(第三段落)と言われた羅生門、しかも自分もそうなろうかどうかって瀬戸際だからほかにも同じ境遇の人がいることは想像に難くない。物騒。
 「上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである」とあるので、盗人は死体が置かれるようになってからいなくなったのだろうか。そうすると、羅生門に近づく下人は盗人より死人に近いのかもしれない。移動しようとしたら階段がなんて、ホラー小説だったら「呼ばれてる」ような感じがする。
 「腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らないように気をつけながら」というところは、着物着てるだけではなく、彼が刀を持っているということがわかり少し驚いた。藁草履も履けてる。「鞘走」は鞘から刀が抜けてしまうこと。

第十段落

それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子(ようす)を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿うみを持った面皰(にきび)のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括くくっていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛くもの巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

同上

 ここでちょっと視点が切り替わり時間も少し飛ぶ。二文目、三文目では「一人の男」「その男」が下人なのかどうかがわからないようになっている。カメラが切り替わって、薄暗い中を「誰か」が動いている感じですね。そして、四文目で「面皰」が登場し、そういえば第四段落で下人は面皰を気にしていたなとなり、五文目で「下人」と指名されることで、我らが下人だということが確認できる。
 それにしても、「これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛くもの巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。」という描写はいい。頭にぱっと浮かぶ。
 この時代、夜の明かりは貴重なものだと思うのだが、それを死人しかいないと思っていた羅生門の上で使っているのだから、自分のことをさておいて「どうせただの者ではない」と思ってしまうのも無理はない。

次回に続く


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