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人類は滅ぶべきでしょうか?『透明性』マルク・デュガン

情報を発信するということを人類がし始めてから、その技術が一つの生態系の様に成長し発展するというのはケヴィン・ケリーの『テクニウム』だったか。人類が活動していくなかで発展してきたテクノロジーとはなにか、そしてそれに影響される、生み出す人間とは何かを、小説という形で問いただすとこうなるよ、という印象を受けたマルク・デュガンの『透明性』早川書房、2020年。
はっきり行って、読んでてうんざりするほど地続きなディストピアものである。温暖化が進行した2060年代、人類は余剰な経済活動を避けるために移動せず、個人の旅行や移動したいという欲求はVRで賄う。経済活動の基盤としてますます情報が単位となり、個人情報を提供することである種のベーシック・インカムが支払われる。

語り手はグーグルに勤めたあとに不老不死を研究する会社を起こし、温暖化の影響がまだ限定的なアイスランドに住むエリート。この語り手がどうやってグーグルを転覆させ、ついで世界経済を暴落させ、世界征服を行うのか?というのが前半。
後半は世界征服をいかに成し遂げるかという過程と人間性とは何か?とい疑問について淡々と内生的に語る主人公と激烈に変化する人類社会が描かれる。世界征服をする側の理論を垣間見るのがなかなか興味深い、マキャベリズムや帝王学とは全く異なるが、いかに集団という制御し難いものを御するのかというやり方に背筋が伸びるとでもいうか。
織り込まれたテーマの一つとして不老不死で目指す人間像が既存の人間をそのままにするか、合理性を徹底化しロボットに近いより「進化した」人間を目指すのかという対立を描いているところ。どちらも現状の人類の活動は良くないとする前提でも発展させたい人間像は違う。

詰まるところ、人類はこのままでは駄目なのか?それとも人類それ自体がもんだいなのか、発展してきた方向が駄目なのか?でも進化の針は未来にしか動かせない。では仮にそこから解き放たれるチャンスがあるとき、人類はいかな方向を目指すのか。際限のない消費活動を目指す本能を捨ててより理性と合理の機械的な神を目指すのか、出生する人間の数を減らして穏便な社会を営める人々だけを残してよりよい社会の実存を目指すのか。
結局人間というのは環境の賜物なのか、それとも生物由来のものなのかという古典的なテーマが現代的な言葉で淡々と、ある視点に上り詰めた語り手が綴るこの小説はSFらしい。思弁小説らしい、答えのないことを延々と考える意義に満ちている。

最後の最後まで淡々と人類についてある視点から見ることを許された語り手だが、実はこの語り手とて自身の問からは逃げられないのが最後最後に分かってくる。どこまでが事実なのか、どこまでが創作なのか。読んでてどんどん虚偽の淡いに迷い込み、気がつくとまた普段の日々に戻ってくる酩酊感。いやはや恐るべし。

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