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謀略と欺瞞の果てになにがある?ベトナムから見たベトナム戦争を描いた傑作『シンパサイザー』ヴィエト・タン・ウェン
最後の最後まで騙しきれ!南ベトナム軍に入り込んだ北側(共産主義陣営)のスパイの活躍を描いた傑作『シンパサイザー』
一人の人間に歴史が刻印されている。陳腐な言い方になっちゃうけど、読後に抱く感想はまさにこれ。『シンパサイザー』は読むベトナム戦争だ。スパイ小説として読み始めたけど、そんなジャンルにくくるにはもったいない作品なので、紹介したい。
『シンパサイザー』あらすじ
ときは1975年、アメリカはベトナムから兵を撤退させる。国内外の反戦運動と、度重なるゲリラとの戦いに疲弊したアメリカを救うためにニクソン大統領が登場し、北ベトナムと「和解」したからだ。
首都陥落のニュースで混乱が広がる中、米軍に紛れてベトナムから脱出するベトナム人の一行がいた。それが主人公と、彼が仕える南ベトナム軍秘密警察の長官こと将軍の一家だ。ロシアと中国が支援する北ベトナムの社会主義陣営、アメリカが支援する南の民主・資本主義陣営との戦いで主人公側は敗れたのである。
加えて将軍が指揮する秘密警察とは、南ベトナムの中で暗躍する社会主義者や反社会的勢力を取り締まってきたために、もし捕まれば他の兵士達より酷い目に遭うのは必至だ。自軍の敗戦を前に将軍と家族、側近たちは戦々恐々となっている。
そんな彼らを冷静にサポートし、CIAの工作員と連絡を取って脱出を手配する主人公は、優秀な将軍の側近にして南軍の情報将校である。
白人でカトリック教会の神父である父を持ち、教会の家政婦だったベトナム人の母との間に生まれ、「私生児」と揶揄されながら育つ。容姿に関しても生粋のベトナム系にしては、背が高く、人目で外国の血が入ってるとわかるために行く先々で「混血児」と罵倒される。
この出自と語学を始めとした学業優秀さに目を付けたCIAにスカウトされ、アメリカで大学に通う傍ら諜報員としての訓練を受ける。ベトナムへ帰国後はCIAの工作員として働き、南ベトナムの敗北を受けてアメリカに再び向かうことになる。表向きの上司である将軍が今度はアメリカで祖国奪還を目指す活動を補佐するためだ。
というのが話の半分で、実は主人公にはもう一つの役割がある。
それは南ベトナムの動き、つまり将軍の動きを北側の仲間に伝えること。話の冒頭でも触れられるがこの主人公、表向きは南側であるCIAの工作員だがその実態は北側のスパイであり、忠誠心は社会主義陣営にあるのだ。
読者は主人公が南ベトナムの支持者である振りをしながらも、北の社会主義陣営の理想を実現させるために行動するのを追いかけることになる。当然スパイということで主人公の行動には矛盾が伴い、複雑な環境と予想外の事態によって思わぬ葛藤に度々苛まれることになる。
これっていいこと?悪いこと?スパイ活動の実態、教えます
スパイって言うと映画の007だったり、トム・クルーズのミッションインポッシブルシリーズみたいな華やかで、ド派手なアクションを思い浮かべるかもしれない。高級なスーツを着込んで、最新のハイテク機器を武器に颯爽と敵地に単独潜入!みたいなね。
が、実際のところスパイ業務ってすごく地味。映画やドラマのスパイと共通なのは敵地に単独潜入ってことくらい。(ただし、潜入期間は年単位)もちろん連絡を取り合う仲間はいるけど、24時間、全方向に向けて嘘を付き続ける生活なのだから…我が身に置き換えると大変どころか、神経がおかしくなりそうだなって思ってしまう。
実際、主人公も常に嘘を付き続けることのストレスからなのか、飲酒をやめられないと告白している。まして自分の信条とは全く異なる敵方になりきるために、社会主義者でありながらアメリカナイズされた振る舞いに精通すしなければならない。もうこれだけで主人公の内心の葛藤たるや、凄まじい。
読んでて何が悲しいって主人公が敵側に信用されればされるほど、本来自分の姿とは遠ざかっていってしまうところ。潜伏期間が長くなればなるほど、主人公は敵方の文化に馴染み、自分が果たしてどちら側なのかと迷いを抱いてしまう。
これだけでも結構な重圧なのに、スパイの苦労は終わらない。偽装がうまく行き過ぎて、味方からも潜入先からも「実は寝返ってるんじゃないか?」と疑われてしまうこともあるのだ。そうなると疑惑を晴らすために、主人公は自らの行動で身の潔白を証明するハメになる。
味方を売り、ときには自ら手を汚し、更には味方から長期に渡る尋問を受けると言った具合に。
そう、スパイって実は矛盾した仕事なんです。
味方にも敵にも信頼されるためにどちらにもいい顔するけど、優秀過ぎても駄目、下手でも駄目っていう、どう転がってもいい結果が出にくい商売だってのがわかる。
うまく行ってるときは自分しか知らない秘密を掌握する全能感が快感かも知れないけど、一度躓いたら終わりのない猜疑心に苛まれる。そんな因果どころか、生き地獄にも程がある世界、それがスパイ稼業の実態みたいです。
ベトナムから見たベトナム戦争とその時代
さてそんな読んでるだけで胃痛案件な本作ですが、他の有名なスパイ小説(ジョン・ル・カレとかイアン・フレミングとかマーク・グリーニーとか)とは異なる特色がある。
それは主人公がベトナム人であること。ただし、フランス人の父とベトナム人の母という異なる文化背景を持っているのがキーポイント。
主人公は生まれ育ったベトナム社会では白人の血が入った私生児として疎外される。軍部でも見た目を理由に揶揄され、信頼する上司の将軍ですらも出自を理由に主人公を自分の娘には近づけたがらない。
アメリカではベトナム人だからとアメリカ国籍を取得した後も、事あるごとに「外国人」の扱いを受ける。就職面接や飲食店で門前払いを受けたり、主人公が流暢な英語を話すだけで驚かれたり。
南ベトナムへの支援を求めて生粋の「アメリカ人である白人」たちとの食事会に参加すれば、アジアへの無理解と無自覚な人種差別的な発言に晒される。
将軍とともに脱出した仲間たちも散り散りになり、軍での職歴に見合わない酒屋の主人だったり、ベトナム料理やの店主といったほそぼそとした仕事についている。希望の国アメリカってなんだ?っていう現実にこれでもかってほど主人公は打ちのめされる。
ベトナム戦争の主役は自分たちベトナム人のはずなのに、アメリカではアメリカ兵しか話題に上がらない。あの戦争はつまるところ大国が、自分たちを駒にしたっていう現実が見えてきてしまう。終わりのない悪夢みたいな現状を延々と耐えなければならい。
それでも主人公は耐える。出口の見えないアメリカでの日々にくすぶりながらも、ベトナムに残ったスパイ仲間に手紙で将軍たちの動向を報告し続ける。主人公の直属の上司である男は学生時代からの親友で、血を分けた兄弟と言っても過言じゃない仲で、名前をマンという。
社会主義を主人公に教示し、北のスパイに引き込んだのもマンだ。そのマンは妻子ともどもベトナムに残り、南北統一後のベトナムを見守る任務についている。命を分けた大親友のためにも、主人公はアメリカで孤独に活動を続けるのだ。
再びベトナムへ。欺瞞と理想の追求の果に主人公は何を見る?
物語後半になると、将軍は祖国奪還へと動き出す。アメリカ国内に散った仲間たちから有志を募って、タイからラオスを経由してベトナムへと侵入するのだ。ゲリラ活動ゆえに、生存は絶望的なのは明確だ。ベトナムに辿り着く前に死亡する可能性も大いにある。
当然のごとく、ベトナムのマンからは絶対に参加するなと指示される。お前はアメリカにいてこそ役立つ人間だからと。
ところが主人公は意図的にこの命令を無視して、この行軍に参加するのを決意する。それにはある明白な理由があって…この先ははぜひ読んでみて頂きたい。
主人公がスパイであることの設定がものすごく効いているし、この後の展開がこれぞスパイ小説!っていう超絶技が炸裂するので。
読後の感想及び、押し売り
読みやすい本ではない。一人称の語りでスムースに文字は終えるけど、内容がとにかくヘビー級。さぁ読むぞ!って気力と、ある程度まとまった時間でがっつり取り組まないといけないだろう。
読後だって読んでよかったーと爽快感があるというよりは、消化不良に近いようなモヤモヤ感が強く残る。それでも、いや、だからこそこの本をお勧めしたい理由がある。
それはスパイっていう、常に嘘を付き続けなければならない立場の過酷さであったり、そんな仕事に従事する人間の哀しさがあったりするからで。なにより、そんなスパイ活動を要してまで結果を出さなければならない戦争とは何か?と著者が真剣に問いただしているからだ。
主人公の皮肉交じりのユーモアと、いつ偽装がバレるかバレないかの緊張感に、思わぬロマンスや予期せぬ友情ととにかく面白さ満載だけど、その背景にある著者の発した「ベトナム戦争とはなんだったのか」あるいは「ベトナムとはどんな国か」という問は読み手のどこかに残るんじゃないだろうか。
絡み合う他者との、他国との意図を読み、ときにはあえて読み違えてそれでも必死に前に進んでいく主人公の行末をぜひ最後まで見届けたい。そんなしんどいけれども、読んでしまうとんでもない作品でした。
おまけ
著者のヴィエト・タン・ウェンはベトナム戦争時に両親がアメリカに渡ったベトナム系アメリカ人。アメリカで育つ中でベトナム戦争を扱った映画で、ベトナム人の描写に意義を抱いて育つ。その答えを見つけるために、綿密な取材に基づいてこの本は書かれた。
2016年にピューリッツァー賞も受賞しており、他にもエドガー賞最優秀新人賞など計六冠の賞に輝いている。
https://www.pulitzer.org/winners/viet-thanh-nguyen
なお、ドラマ化もされています。