見出し画像

【エッセイ】臆病者、人生初のコインランドリーへ行く。

先日、“コインランドリー”デビューを果たした。


友人や夫が利用するときに、ついて行ったことはあれど、これから先の人生、私がコインランドリーを利用することはないだろうと思っていた。

臆病者で、人目を過剰に気にする人間である私は、他人に“生活”をみられることを極端に嫌った。学生の頃に至っては1人で生活にまつわる買い物が出来ず、食材・トイレットペーパーやティッシュを買う姿をもしも友人、ましてや好きな人に見られでもしたら恥ずかしさで爆発すると本気で思っていた。


 しかし最近になって、思いがけずコインランドリーに行かねばならなくなった。


 事の発端は、夫である。
仕事で必要なものをコインランドリーで洗濯・乾燥までしてきてほしいと頼まれたのである。


 私は「頼まれごとをされること」と、「わからないことをすること」が非常に苦手だ。

長年の自己分析の結果、頼まれごとをされることへの抵抗感は、母親に対する「都合のいいときだけ利用されて使われた」という不信感と、“頼まれごとをやらなくても愛されたい”という幼少期の切実な願望からくるものではないかという結論に至った。


 夫に頼まれたとき、私は真っ先にこう主張した。

「私、コインランドリー行ったことないよ!だからやり方わかんないよ!」


 言いながら、心の中で「でしょうな。」と自分に突っ込む。
行ったことのない場所の操作方法がわからないのは当たり前だ。その当たり前のことを、断る理由として即答しているのはこの私なのである。

自分の発言が意味不明なことも、この発言を聞いた夫の、呆れと優しさをごちゃ混ぜにしたような生ぬるい表情の意味もわかっている。わかっているのだけれど、私の脳みそはこういうときだけ熱心に働く偏屈野郎であり、「もしもコインランドリーに行った場合起こりうるリスク」を次々と列挙する。怖がることを許してほしい。悪いのは、私を脅すこの偏屈な脳みそなのだから。


 しかし、これだけ長いこと偏屈野郎と共に過ごしていると、さすがにいつまでもだんご虫のように丸まってばかりはいられない。何度もこのパターンを繰り返してきて、やり方がわかるかわからなくて怖くても、やり方がわからなくても、やってしまえばなんとかなることは経験済みなのだ。


 ここは日本である。
そして私は日本人であり、文字が読め、言葉が話せる。大抵の場合は日本語で説明が書いてあるし、最悪の場合は日本語で聞けばよい。

そうわかってはいたけれど、やっぱり行きたくなかったから5分くらいはうじうじして、より一層夫を呆れさせた。どうせ行くのだからこれくらい寛大に受けとめてほしい。


 

ところで、私はモデルの“あみしぃ”こと石井亜美さんが好きで、YouTubeをいつも楽しく拝見している。そのYouTube動画で、“海外でコインランドリーを利用するという夢を叶える”という内容のものがあった。人の夢っていろいろあるんだなあ。

ふとその動画のことを思い出し、どうせ行くなら私も“あみしぃ”のようにコインランドリーで素敵に過ごしてみようと思ったのだった。“あみしぃ”はロンドンで音楽を聞いていたけど、私は近所で本を読もうと持っていく。


 始めて利用したコインランドリーは当たり前だが、きちんと説明が書かれている。
館内で本を読んで待とうと思ったけれど、人の出入りが多くて怖気づき、一旦逃げ帰った。

それでも、普通にコインランドリーを利用し終えて「ま、そうだよな。」と思いながら任務完了となると、この段階まで思っていた。


 そろそろ洗濯が終わるであろう時間にもう一度戻る。

表示されている数字がまだあと数十分あることに違和感を覚えながらも、“まあそんなこともあるか”とそれほど気にせず館内に置かれている長椅子に腰かける。全然内容が入ってこなかったけれど、形だけでも本を読む。

しばらくして、もう一度表示されている時間を確認してみると、数字が進んでいない。ここに来たときと同じ数字が点滅しているのである。不安を覚え、隣りの洗濯機をちらりと見て息を吞む。我が洗濯物を託した洗濯機が、明らかに動いていない。


さすがコインランドリーの洗濯機は静かなんだなあ、とうっかり感心すらしていたが、私より後から洗濯を始めた隣りの洗濯機は、立派な音を立てて回転している。


扉を開けようにも開かず、運転を再開させるようなボタンも一切ついていない。お金が足りなかったのか、とふと不安に思ったが、幼い子どもみたいに「いーち、にーい、さーん…」と小声で呟きながら100円玉を投入したのだから間違えているはずがない。臆病者だって、数くらい数えられる。


慌てて写真を撮り、夫に異常事態を報告した。内心、「ああ、大丈夫だよ。いつもそんな感じ。あと少しで終わるよ。」みたいな展開を期待したが、残念ながら「こういう時のために店内のどこかにスタッフを呼ぶボタンがあるはずだ」という返事がきた。“やっぱり異常事態なのだ”と確信し、絶望的な気持ちでさほど広くない館内をさ迷う。
予定通りいけば、そろそろ乾燥も終えて帰る頃合いであった。


 館内にボタンは確かにあった。
「緊急ボタン」と書かれた赤色のボタンである。

これか?
これなのか?

確かに今の状況は「緊急事態」以外の何物でもないけれど、このボタンが示す「緊急」はもっと命の危機を感じたときのような絶体絶命のタイミングで押すものではなかろうか。


 私は仕方なくスマートフォンでコインランドリーのHPを調べる。なぜ初めから調べなかったのかというと、面倒くさかったからである。いざ調べてみると、利用状況なんかも確認できて“便利な世の中だ”と感心したが、感心している場合ではない。


コールセンターに繋がる電話番号を見つけた。番号を見つめ、数秒ほど躊躇する。私は電話が苦手なのだった。
「解決して早く帰りたい」という気持ちと、「人と話したくない」「電話が怖い」という気持ちがせめぎ合い、往生際悪く“自分の力でなんとかできるのではないか”と考える。しかし、なんとかならないからこうしてコールセンターの電話番号を調べているわけで、危機的状況に陥ってもなお解決を先延ばしにする己の臆病さに呆れる。


 電話が繋がったと思い、必死に現状を訴えようと息を吸い込んだ瞬間「電話応対の品質向上のため、この通話は録音させていただきます」というガイダンスが流れる、というやり取りを何故か二回もさせられ心が折れかけたところでようやく電話が繋がった。


 お金は指定の金額を支払っているかと確認され、先ほどまで“間違えるわけがなかろう”と自信満々だったにもかかわらず、改めて問われると自信がなくなり、「えっと、あの、いれたと…思うんですけど…」と歯切れが悪くなる。お金を入れたときは動いていたかという質問に、まさか「初めて利用するコインランドリーに舞い上がって、きちんと動いているかろくに確認しなかったからわからない」と答えるわけにもいかず、「いやあの…、すぐに蓋をしめてすぐに帰ったから…」とこれまた歯切れ悪く答える。私がコールセンター側の人間であれば1000%「この人、大丈夫か?」と思うほどのふがいなさを発揮し、消えたくなった。


洗濯機の番号を伝え、エラーとなっている原因を突き止めるために表示されている番号を教えてほしいと言われた。私が残り時間だと信じていたものは、エラーを知らせる番号であった。


 どうやらエラーは、洗濯物が洗濯槽の中で偏ってしまったことが原因で起こったらしい。扉を開けて洗濯物を少しほぐせば良くなるとの話だった。が、扉が開かない。「何度試しても開かないんですよ」と先ほどまでとは打って変わって自信満々に言った瞬間、ばこんと音を立てて扉が開いた。「……すみません、開きました。」と伝えなければならない。私は今ごろになって開いた扉を憎たらしく思いながら、その言葉を吐き出した。また、消えたくなった。


 心身ともにへとへとになった私は、洗濯が終わるのを数十分待ち、乾燥を10分したところで力尽きた。まだ湿っている洗濯機を乾燥機から取り出し、逃げるようにコインランドリーを後にした。

帰宅し、湿った洗濯物を干しながら“私は何をやっているのだろう”と思った。


 
齢30歳。このデビューが遅いのかどうかはわからない。
確かなことは、私がおっちょこちょいだという事実だけである。臆病さで忘れ去られていた己の性質を、思い出せただけでも行った価値があるというものだ。


 

それにしても、館内の緊急ボタンを押さなくて本当によかった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?