ピースオブケイクを観た。まったく運命ってやつぁよ。

こいつらの「好き」には理由がなさすぎるだろ、と憤りながら観ていた。
京志郎の豊かな笑顔に新しい風が吹いたような感覚がして一目惚れ。この人となにかある気がする、だって風が吹いたから。これって運命かも。志乃はそんなマインドで、たいした情報も関係性もない彼女持ちの京志郎に惚れやがった。そんでお互いに都合が良いとわかった上で付き合いやがった。志乃も京志郎も全っ然良い奴じゃない。エゴエゴのエゴである。あかりさんが一番倫理的だなと思いながら観ていた。しかしあかりさんも別に好きではなかった。魅力だけは全員底抜けにあった。

まあでも、恋愛って、よく言われる「運命」って、こういうものなのかもしれない。彼女持ちとか関係なくて、偶然が重なって惹かれちゃって。そういうのが運命なのかもしれない。証明するかのように、志乃と京志郎はお付き合いを始めた。ふーんって気持ちだった。うーんって気持ちでもあった。

常々言うように私はロマンチストである。「好き」には理由があってほしい。惹かれるのには理由があってほしい。その人じゃなきゃダメな理由があってほしい。そうやって「好き」になって恋人になって永遠を誓ってほしい。

だから、「なんかある気がする」っていう運命っぽさに振り回されて、たいした話もしていない京志郎に惚れる志乃にも、あかりさんが出ていってほとんど間もなく寂しさを埋めるために志乃を好きってことにした京志郎にも納得がいかなかった。それでも2人は旅行の計画を立てるくらい恋人として上手くやっていた。うーん、やっぱり2人は少なくともこの話の中では「運命」の扱いなんだな……とか思いながら観ていたら志乃と京志郎が別れた。テレビの前の私、仰天。そして笑った。「ほらみろー!!」と叫んだ。やっぱりな!ロマンチストの私の大優勝である。前の恋愛を乗り越えずに付き合ったら前の恋愛が原因で別れる。こんなの常識だ。「なんかある気がする」なんて当てにならない。やっぱり大事なのは人間関係じゃないか。私は私の理論が崩れなかったことに悦に入っていた。志乃ちゃん、上手に乗り越えるんだぞ〜そうやって大人になるんだからな〜なんて思っていた。そしてその理論を後押しするかのように訪れた座長から志乃への告白。
「新しい音楽が流れたんだ」
中々のパンチである。全く意識してなかった人から、あなたをひと目見た時から運命を感じていましたと言われたのだから。志乃が京志郎に感じた「新しい風」にも意味がなかったのだと思わされるのには十分だった。

風が吹いても、新しい音楽が流れても、言ってしまえばそれは一方的な運命なのだ。「運命の出会い」なんて言葉はいつも我々を勘違いさせくるが、運命はふたりではなくひとりで感じるものだった。ひとりが勝手に出会ってるだけ。それを運命と呼んでいるだけ。運命は出会ったその後のことなんて全然担保してくれない。

ふうん、やっぱり運命っぽい風なんかに左右されないで着実に人間関係築かないと駄目なんじゃん。それで終わりかと思った。違った。なんと京志郎は別れて一年経っても志乃への愛を育んでいた。え、じゃあ今までの説教じみた展開はなんだったの?と思った。

京志郎は志乃へ運命は感じていなかったはずだ。多分新しい風も音楽も彼の中にはなかった。あったなら再開してやり直したいと申し出る時にそう言うはずだ。しかし京志郎は代わりにこう言った。
「俺志乃ちゃんとの付き合いの方が、たくさん笑ってよっぽど楽しかったって!」
これを聞いて私はおおいに納得した。そういうことかあ、となった。京志郎は運命こそ感じないが、手に転がり込んできたちょっと可愛い女を大事にできる才能には優れていた。これは多分あかりに対しても同じだ。前半、志乃のアプローチにあんまり揺らがずにあかりとの関係を続けた京志郎だったが、それでも「あかりのことマジ愛してるから有り得ない!」とは言わなかった。それは手元にあるものを愛おしく感じられる才能がネガティブに働いた結果だろう。
だけども、そうやって理由のない好きから始まった恋人だったとしても2人で過ごしていれば2人にしかない歴史が生まれる。志乃と京志郎で言えば、晩御飯の電話、お風呂のキス、夏祭り、小鍋、仕事中の会話。そんなひとつひとつが、笑顔になって情になって、もしかしたらふたりの愛になる。片方だけの運命から始まっていたとしても、だ。

志乃の親友に「大体さ、やらしいよねその男。同棲しておきながらそんな思わせぶりなことしといて。たいした男じゃないよ。」なんて評価されていた京志郎が、一番、相手に左右されず手元の生活に水をやって株分けまでして愛を大きく大きく育てた。この映画は、手元にあるものを愛おしく感じれるやつが運命の鍵を握っているんだよと教えてくれていた。

やっぱり、この世にふたりの運命なんてないという考えは変わらない。運命を誰かに感じても、その誰かはまた違う誰かに運命を感じている。志乃から京志郎、座長から志乃のように世の中そういう風にできている。「運命」がしてくれるのは出会うところまで。「この人となんかあるかも」と予感するところまでが、運命の仕事だ。出会って運良く付き合えた後はもう運命の手から離されている。
そこからは丁寧に丁寧に、そうまるで緑を育てるように、2人にしかない歴史を愛おしんで愛情を育てていくのだ。

始まりなんてなんでもいい。運命っぽさなんかどうでもいい。綺麗なだけの恋愛なんて多分どこにもない。どれだけの愛があっても、好きって気持ちは「大っ嫌い」と常に一緒にあるものだ。そういうもの、ぜーーんぶ含めて「あー、人を好きになるって最悪!」だ。

志乃が京志郎に告白した時、私の倫理が志乃に対して「お前さ〜!」と叫んでいたが観るのをやめなくてよかった。登場人物のことは誰ひとり好きではないしキュンともきゅるりんともしなかったが、人間関係に対する覚悟がまたひとつ決まった。

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