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【エッセイ】波風が立っていないように見えるだけで本当は隠れて泣いている誰かがいるかもしれない

 最近目にしたニュースや閲覧したnoteの記事から思うところがあったので、過去の体験を交えて記すこととする。


あるパワハラ

 2019年11月のこと。
 当時私はある職場における庶務課の部署で働いており、特に物品管理に関しては私の担当だった。
 各部署で必要な文具などの消耗品について、記入してもらった注文表のそれぞれの種類と数を集計して、まとめて発注したりしていた。
 しかし、発注と発注の間の期間に緊急に必要になる人もいて、各部署にて保管している在庫分も丁度切れていたりすると、庶務課の在庫分を回してもらえないかという依頼も時々あり、在庫分に余裕がある場合は応えていた。
 ある時、他部署の課長クラスの人から内線電話があった。
 内容は、紙ファイルが必要だから今すぐに庶務課の所から持って来い、という一方的で恫喝的な要求であり、言いたいことだけを言うと叩きつけるように電話は切れた。
 一体何なのか。
 立場は私より上の人とは言え、直属でもない人に一方的な暴言を吐かれる理由が全くわからなかった。
 例え何か機嫌が悪い事情があったとしても、他者を使って憂さ晴らしをしていい理由にはならないはずだ。
 念のため過去4回分ほどの注文履歴を確認したが、相手が注文した形跡はなかった。
 私は、「在庫分に余裕があるので今回は庶務課から1つお譲りしますが、今後はご自身でも注文されるようお願いします」という内容のメモをつけ、要求のものを2階下のフロアーの、離籍中の相手の机の上に置いておいた。
 それからしばらくして、ドタドタという大きな足音を響かせながら階段を上って来た件の相手は、庶務課の扉をバンを開け、大きく振りかざした手のものを床に叩きつけて、再び階下へと下りて行った。
 床に叩きつけられたものは、私が書いたメモのついた紙ファイルだった。
 庶務課にいた他の面々は、呆気に取られて「何あれ……?」と言いながら顔を見合わせていた。
 私はショックだった。目の前で繰り広げられたのは、明らかに怒りの発露だったからだ。明確に、私に対しての。
 それでも、私に非があるとは到底思えなかった。どう考えてもこれはパワハラだ。
 私は、直属の上司とその上の上司に、その場で事の次第を説明した。
 2人は相手の行動に呆れ、「意味がわからないよね」、「投げなくてもいいだろうにね」と私に共感を示しながらも、「忘れた方がいいよ」という何の解決にもならない言葉で状況を締めくくった。
 その後その職場を辞めるまでの1年7ヶ月間、もう2度と会話したくない件の相手との、職務上どうしても必要な最低限のやり取りを、私は全て筆談にした。
 立ち止まり一瞬の時間を共有することすら嫌な私は、歩きながら相手の机に回答を求める旨を記した紙を置き、しばらくしてそれを回収してやり過ごした。
 本当は、上部組織のパワハラ対応担当者にも、直接訴えればよかったのかもしれない。
 それでもそれは、直属の上司とその上の上司がパワハラ対応担当者も兼ねているにも関わらず適切な対応をしてくれない、という訴えの意味にもなり、その後2人から職務上の不利益になるようなことをされかねない危惧へとつながるもので、実行しようとは思えなかった。
 結局、相手の言動は何一つ追及されることなくお咎めなしで、傷つけられた私だけが我慢を強いられる結末だった。


ある虐待

 2020年12月のこと。
 私は元美容師の母に髪を切ってもらうという名目で実家を訪れていた。
 実家には父と母、そして妹と妹の子である姪の、計4人が同居している。
 母は、家の外ではいつも他人に愛想笑いをしているが、家の中ではいつも、父に怒鳴り散らし、ブツブツ文句を言ったり扉をバタンと音を立てて閉めたりするなどの言動で不機嫌をまき散らし、家庭内を不穏にしている人だ。
 私も妹も、幼い頃から長い期間、母の機嫌を悪くしないように、という思いで常に顔色を窺って過ごして来た。
 私が小学生の頃、学校でいじめに遭った時にそれを母に話したことがあったが、我慢するよう言われただけだった。それは、いじめられたことよりも悲しいことだった。
 母の暴言を聞き流して過ごす父も、私に対しては一方的に「~しなさい」と指示し要求する強権者で、「養ってもらってるんだから親の言うことを聞きなさい」と言ったり、間違っていることを指摘されると言い返す言葉がなくて「もういい!」と簡単にキレ、時に電化製品のコードを引きちぎったり花を生けたコップを床に投げつけるなど、物に当たる人だった。
 そんな、子供の気持ちに寄り添うことなど全くない、むしろ親の気分や要求に寄り添うことばかりを強く求められる、冷え切った機能不全家庭である実家は、子供にとっては牢獄のような場所だった。
 既に実家を出てパートナーと生計を共にしている私ではあったが、実家で親と同居している妹と姪が気がかりで、1ヶ月半毎くらいに訪問していたのだ。
 相変わらず母は、聞くに堪えない罵声を父に浴びせていた。家中に響き渡る怒声を無理矢理聞かされる状況に、げんなりと嫌な気分になる。
 1ヶ月半ぶりの私でも充分気分が悪くなるほどの状況だ。毎日一緒に暮らしている妹と姪はどれほどだろうか。
 頼ることができる大人が他にいなかった子供時代、私は耐えるしかなかった。シングルマザーである妹も、同居させてもらっている分言いにくい状況なのだろう。
 姪のために、日常的に繰り返される母による精神的虐待を止められるのは私しかいないと思われた。自身も苦しみを知り、そして今は大人だからこそ、守るべき者のために戦わなければならない、と決意した。
 私は母に、「当事者でもないのに怒鳴り声を聞かされるのは嫌な気分になるから、お父さんだけに聞こえるような音量で言えばいいことなんじゃないの?」と言った。
 まさか私に窘められるとは思っていなかった母は少し驚いた様子だったが、言い返す言葉が見つからなかったようで、不貞腐れたように「わかりました~」と言ってその場を誤魔化していた。
 意を決して母の暴言を止めた私は、とても大きなことをやり遂げた気分になっていたが、その出来事が実家で話題になった際に母は妹に、「あの子はお父さんの味方だからああ言ったんだよ」と話したそうで、私は母のあまりの無理解さに呆然とし激しく憤った。
 母に都合良く歪められて受け取られていることが許容できなかった私は、母を説得するためのメールを送ることにした。対面での会話だと、結局その場限りの誤魔化しでうやむやにされてしまうからだ。
 内容は、客観性を保つために下書き状態でパートナーに確認してもらった。
 私は両親のどちらの味方でもなく、妹と姪の味方であること。
 母が日常的に行っている、逃げ場のない中で継続的に暴言を聞かせ続ける行為は精神的虐待で、科学的にも子供の脳と心を傷つけ続けることが証明されており、私も妹も酷く苦しんで過ごして来たこと。
 それは加害行為と言えるものであり、嫌な思いをさせられ迷惑している被害者である家族のためにやめてほしい、ということ。
 読んだパートナーからOKをもらった私は、母にそのメールを送信したが、メールを読んだ母は激昂し、父・妹・姪の前でその文面を読み上げて、迷惑に思っているのか尋ね、詰め寄ったそうだ。
 そんな母を前に明確にそうだと答えられる者はおらず、私を悪者認定した母は、年の明けた2021年1月に、夫婦のコミュニケーションに意見することは許さないし、私のような子供を持ったことは人生の汚点だ、と罵る絶縁状を父と連名で送って来た。
 私は、常日頃他者の迷惑にならないように、と言い聞かせながら、同じく他者である家族には一切配慮がないのはおかしい、と反論した上で、それでも育ててもらった礼と別れの言葉を綴った手紙を送った。
 頑なに読まない、と拒む母に、父は礼と別れの言葉だけを読んで聞かせたそうだ。
 こうして、私は両親と絶縁した。今後実家を訪問することもなければ、両親の最期を看取ることも、両親の葬式に参列することもない。
 関係は変わらないと宣言した妹と姪とは、今も交流が続いている。
 私が勇気を持って一石を投じたことは、妹が両親との関わり方を考えるきっかけになったようだった。


共通するのは人権侵害

 この2つの出来事に共通するのは、強い立場の者が弱い立場の者に向けて行う人権侵害だ。
 私にパワハラを行った他課の課長クラスの人も、両親も、自分が上の立場であるという強烈な意識がある。
 だからこそ、下の立場と認識していた私からの、忠告的な意見や、非や間違いを指摘する言葉に、上の立場が脅かされたように感じて憤り、不必要に苛烈な反応をした。
 上の立場の者と下の立場の者の人権は同じではないという感覚で、上の立場の者が下の立場の者に向けて行う人権侵害は、むしろ上の立場の者に許された権利とさえ思っているのだろう。


人権を尊重する社会へ

 かつては理不尽ながらも、パワハラは「指導」と、セクハラは「仕事や人間関係を円滑にするために求められる性的な忖度」と、虐待は「躾」という言葉で、社会に許容されて来た。
 波風を立てることの方が良くないと思われ、平穏を取り繕う陰で一方的に忍耐を強いられ涙を流して来た人も少なくないはずだ。
 それが、人権を尊重する社会へと変遷する中で、少しずつ被害を訴えることができる環境が増え、被害者が一方的に人権侵害に耐えなければならない状況は変わって来ていると感じる。
 私も1999~2001年頃は、当時webサイトに掲載していた、親に関する苦しい思いを綴った日記を読んだ人から、事情を知らないにもかかわらず、「親不孝だ」とか、「もっと親の気持ちを考えて」などといったお説教メールを送られることがあった。
 世の中に毒親という言葉が広まり、精神的なことであっても虐待なのだ、という認識が世間に浸透して来たからこそ、受け入れてもらえる話も増えた。
 言うなれば、私にとっては生きやすい、住みやすい世の中になって来た、というわけだ。
 それでも、冒頭部分のパワハラのような、傷つけられた私だけが我慢を強いられる人権侵害も、未だに多く存在しているのは確かだ。
 最近は、テレビに出演するタレントが引き起こした、強い人権侵害が疑われる事案をきっかけに、各局で同様の事案がないか調査が行われたようだ。   
 そして、ラジオに出演するタレントのセクハラとパワハラが発覚し、迅速な対応が取られたというニュースを目にした。

 このような迅速な対応が広く世間に知らされることが、少しずつでも、一方的なハラスメントに苦しみ、人権を傷つけられている人の、希望となるように感じられる。


いつかは、と願いながら

 ところが、ある方のnoteの記事を閲覧しとても強い違和感を感じる、ということがあった。
 その方は記事にて、上記のタレントのラジオ番組降板、および芸能活動休止を受けて、何だか住みにくい世の中になったようにも感じる、とのこと。
 寛容さがなくなってきている、という共感のコメントを残す方に、その通り、という返事をされていた。
 確かに、誰も訴えられることなく、争いもなく、誰もがのんびり穏やかに、平穏を感じられる世の中が住みやすいとは思う。
 それでもその、波風が立っていないように見えるだけで本当は隠れて泣いている誰かがいるかもしれない世の中は、真に住みやすい世の中なのだろうか。
 もちろん、泣かせている人にとっては、咎められないから住みやすい世の中だろう。
 どんなに酷い目に遭わされても、泣く方が悪い? いじめられる方が悪い? 寛容になれない方が悪いのだろうか?
 私は圧倒的弱者として生きて来た人生が長いので、とてもそうは思えない。
 かつて許容されていた体罰が、今は当然やってはいけないものと認識されている。
 同じようにいつかは、ハラスメントなんて論外、人権侵害なんて人としてあり得ない、という認識に世間が変わるように、と願いながら、使わせていただいていた3枚の見出し画像を、別のものに差し替えさせていただいたのだった。





ありがとうございました





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瑳月 友(さづき ゆう)
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