小説における「隠す」と「騙す」の違い
ミステリーを読んでいると、クライマックスで予想外の真相が明らかになり、「あー、そうだったんだ!」と驚くことがあります。
読者が「驚いた」のは、作家が「驚かせる」仕掛けを作っておいたからです。ミステリー作家は、ミスリードや叙述トリックなどを用いて、読者に驚きを与えます。
最近、小説における「隠す」と「騙す」の違いについて考えることがあります。小説を書くときに、作家は読者に隠し事をします。作家は小説内で起こるすべてのことを知っていますから、登場人物がなにを話すか、ラストがどうなるか知りながら、全てを一気に書くのではなく、読者に少しずつ情報を開示していきます。事の成り行きを最初に書いてしまえばあらすじみたいになって面白くないですよね。
読者を騙すのが目的ではなく、印象を強めて大きな感動を呼ぶために情報を隠し小出しにするのです。
僕は小説を書くときに、ラストがどうなるか隠すことはしますが、不自然な隠し方はしないように心がけています。
できるだけ自然に伏線を仕込み、ラストまでたどりついたときに読者が必然と思ってもらえるようにしています。
読者が騙されたと思わないように工夫しているつもりです。
ミステリーでは、読者を騙すことがあります。
この前読んだミステリーは、さまざまな人物の視点で描かれる、いわゆるグランドホテル形式の小説でした。
複数の人物が接触し会話するのですが、読み進めるとどこか違和感が抱くようになっていきます。
実は、小説内のエピソードは同じ時代の話ではなく、3つの時間軸の物語を1つの時間軸に見せていることが終盤で明らかになります。ひとりの人物だと思えた人が実は親子だったり、コロナによるパンデミックを他の出来事と誤解するように書かれていたり、読者に同時代の物語だと思わせる仕掛けが小説内にたくさん散りばめられていました。
この小説の場合、作家に読者を「騙す」意図があったわけです。
別に読者を騙すことが悪いわけではありません。「騙された!」と思えるのもミステリーの楽しみ方のひとつです。
では、どういうときに読者は騙されたことをネガティブに感じるのでしょう。
そこで大事なのは、読者が騙されることを知っているかどうかだと思います。ミステリーのように騙されることを予め知っていれば、読者は怒らないはずです(不自然な仕掛けだと怒るかもしれませんが)。
「どんでん返し」「意外な結末が……」みたいにラストで驚かされることがわかるような本の説明も多いですよね。
作家と読者の間にある種の共犯関係が結ばれていれば、作家は読者を騙しても問題ないと思います。
今のところ、読者が「騙された」と感じるような小説を書くつもりはありません。まずは「隠す」を多用して、感動的な小説になることを目指したいと思います。いつかは、読んだ人が「騙された!」と叫ぶような本格ミステリーにも挑戦したいですね。
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