絶対悪がいない

小説に限らず、「悪」が登場する物語は多いです。物語で描かれる「悪」は、犯罪人だけではなく、いじめや虐待、社会悪、人を傷つける一言、ちょっとした悪意などです。
どうして「悪」が必要かというと、物語に起伏を持たせるのがひとつの理由だと思います(そうじゃない場合も、もちろんありますが)。「悪」を表現することで、登場人物(大体の場合、主人公)の「善」(または正しいもの)が強調される仕掛けです。
マイナスの要素を加えることで、物語に変化が生じます。物語の多くはマイナスのまま終わるのではなく、どこかでプラスに転じます。
主人公が窮地に落ち、そこから這い上がるとか、トラウマを抱えた主人公がそこから回復するとか。

ただ、最近は「悪」が描きづらくなっている気がします。多様性の時代だからか、誰かを安易に「悪」と決めつけることができません。
少し前なら卑賎と思える職業を悪だと決めつける物語もありましたが、現代では許されません。職業に貴賎なしですから。
最近定番の「悪」である「毒親」も「いじめっ子」も絶対悪と描かれることは少なくなってきています。
「毒親」も、そのまた親から虐待されていた過去があったとか、「いじめっ子」の境遇が悲惨だったとか、「その人がしたことは悪いけど、その境遇には同情の余地がある」という見解が作中で披露されることが増えている気がします。

絶対的な悪として描いてよいのは、「政治家」か「大企業の重役」ぐらいでしょうか。
政治家と大企業は無条件に批判しても良いコンセンサスがあるように思いますが、まあ、それも勧善懲悪ものみたいで古い感覚な気もしますが。

突き詰めると、誰かが悪いのではなく、悪いのは人を悪くする「社会」であって人ではないということになるのかもしれません。
フィクションである小説も世の中には絶対悪の人などいないように書かないといけないような空気を感じることがあります。
でも、そういうふうに書いたものが本当に良い物語なのかはよくわかりません。悪は悪としてきちんと描かないと、人が寄るべきところが見えなくなる気もしています。
悪事を働いた人も完璧な悪人ではないでしょうし、同情できる点もあるでしょう。
「罪を憎んで人を憎まず」はその通りだと思いますが、実際の裁判では犯罪者は罰せられます。憎まないことと、罪を罰することが共存しています。
人は憎まなくても、その人の罪はしっかり罰せないと何が正しくて何が間違っているのか定まらないような気がします。
ある程度の因果応報は必要かと思いますが、悪を罰するだけではなく、罪をきっかけにして社会を変える方向に昇華するのが現代の物語に求められているのでしょうか。

現代の社会とそれを取り巻く思想はとても複雑です。悪を悪だと容易に罰することはできないし、社会のせいだと安易に断罪することもできません。
現代の作家が求められていることは、悪を断罪することではなく、ありのままの事象を描き、読者にその想いを託すことなのかもしれません。

初めての商業出版です。よろしかったら。


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