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教育界の灯(ともしび):仮説社
ぼくが「推したい会社」は「仮説社」だ。
仮説社? たぶん耳慣れないワードに「???」になっている人がほとんどだと思う。少しずつその魅力を紐解いていきたい。
上のリンクからページに入ると分かる。
仮説社は出版社だ。主に書籍を扱っている。
扱っている本を見てみよう。先のページの上から順に見ると、雑誌『たのしい授業』というのがある。これは教育雑誌だ。そう、仮説社は学校教育にかかわる書籍や物品を売っている。
教育雑誌『たのしい授業』の刊行
『たのしい授業』は、仮説社が刊行している教育雑誌である。読者の投稿によって成り立っている。仮説実験授業という授業実践の実際、子どもたちの反応、感想、授業者である教師の感想などが記事の中心である。教育現場からの「たのしかった」という生の声が感じられる、堅苦しい感じがしない教育雑誌である。
次に出てくるのは「授業書」
これがまた耳慣れないのではないだろうか。
授業書の販売
授業書とは、仮説実験授業という教育実践で扱われるプリント(最近はデジタル版も出ている)のことである。テーマは「たのしい授業」。
日本全国のどこの学校でも、どの先生が実施しても子どもたちが「たのしかった」と反応した発問や実験をプリントベースで保存している。だから、再現性がべらぼうに高い。にわかには信じ難いかもしれないが、令和の子どもたちに実施しても、昭和の子どもたちと同じように「たのしかった」と反応する。
どうしてそんなことが分かるのか、『たのしい授業』に昭和から続く授業記録があるからだ。『たのしい授業』は最新の2月号でNo.565(2025年2月1日現在)。1983年創刊だから、40年ほどの歴史がある。
やや脱線したが、授業書は仮説社が専売的に取り扱っていて、他社では購入できない。
つまり、授業書は、「やれば必ず子どもたちが〈たのしかった〉と反応するたのしい授業」を保障し、『たのしい授業』で実践の交流を行っている。両者は車の両輪のようなものである。
実験道具・おもちゃの販売
授業書の下を見てみよう。「実験道具・おもちゃ」とある。実験道具は想像がつきやすいと思う。仮説実験授業は理科的な分野から出発したので、実験道具が大事になるのは合点がいきやすい。
では、おもちゃはどうだ。なぜおもちゃを売っているのか。とりあえず、おもちゃのページに入ってみる(2025年2月1日現在)。
はじめに出てきたのは、「ペンギンパーティー」だ。さすがに仮説社を推しているぼくでも、なぜこれを扱っているのか謎である。
「ペンギンパーティー」をなおもクリック。説明には、
「ルールはかんたん! でも悩ましい! 自分の手札にあるペンギンカードを、できるだけたくさん場に出してピラミッドをつくっていくゲーム。〈中略〉オトナもコドモもアツくなる、ペンギンたちのパーティーです!」
・・・よく分からないな。
とにかくオトナもコドモもアツくなるのだそうだ。
よし、この際ペンギンパーティーは置いておこう。ぼくにも説明できないのだから。しかし、この「おもちゃ」のページを通して仮説社が「たのしさ」に向けて、ややとんがった出版社であることが少しでも伝わってくれたら嬉しい。
ぼくの無駄遣いシリーズ
仮説社で買ったものはいくつもあるが、とびきりの無駄遣いを紹介しよう。
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手品グッズ。売店で店員さんが見事にやってのけていたので「買います!」と即買い。店員さんは丁寧に「少し練習がいりますよ。」と教えてくれた。「やります!」と言ったが未開封。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172758288/picture_pc_99084d3714bdc125998ede6ac2fad151.jpg?width=1200)
手品のようなもの。リングをいい塩梅で落とすと、チェーンに絡まる。「クラスに置いておこうかな。でも1つじゃケンカになるかも」と考えて3つ買ったが、一度もクラスに置いたことがない。
どうです。あきれるでしょう。無駄遣いでしょう。
赤字と寄付
この仮説社、かねてからの赤字にトラブルが重なったこともあって、一時は多額の借入金を抱えたそうだ。しかし、有志が呼び掛けた結果、これまた多額の寄付金が集まったという。驚くべきことだ。
愛だ。愛以外の何物でもない。なぜ、こんなにまで愛されているのか。お金を出した人たちはどういう人たちなのか。
ここからは大学の講義のようになるが、あくびを嚙み殺して読み進めてもらいたい。
仮説社、唯一無二の激レア会社です。
民間教育運動
日本の教育界では、ずっと以前から「教育を国家の施策じゃなくて、自分たちで考える」ということが広く行われてきた。この時点でレアである。諸外国はそうではないらしい。教育への提言というと「お上」か「大学の先生」と相場が決まっているそうだ。自分たちの頭で教育について考えてきた日本の教育、それ自体がレアなのだ。
今ではこれらの運動は下火になりつつあるが、その財産はまだ残っている。自ら進んで手を伸ばせば、諸外国では得られないものが手に入る。それらは教師の可能性、教育の可能性を広げてくれる。日本の教育の豊かさ、奥深さを感じずにはいられない。
その教育運動の、一研究会が主体になって株式会社を興した。激レアである。おそらく、世界広しと言えど、このような会社は例がないのではないだろうか。十把一絡げにできるものではないが、教育研究という分野はあまり積極的に営利に走らない傾向があると思う。塾や出版社が営利を志向するのは当たり前だ。しかし、「教育研究会」が営利を目的とする株式会社を設立したというのは、仮説社を除いて聞いたことがないように思う。
先の寄付金の多くはこの研究会員によるものである。研究会員はほとんどが現職、ないしは退職した教員だ。なぜ教員がこんなに寄付をするのか。
お人よしなのか?
お金が余ってしょうがないのか?
ぼくみたいに無駄遣いが過ぎるのか?
いや、そうではない。寄付の動機は危機感だ。そして、愛だ。
危機感
研究会の多くの人は危機感をもっている。あれほど高い再現性を保証し、子どもたちが「たのしい」と反応する授業実践は他にない。その再現性は「授業書」としてプリントベースで保存されている。
仮説社が倒産すれば専売的に扱っている授業書はどうなるのか。
『たのしい授業』が無くなれば、40年間に及ぶ教師と子どもたちの笑顔の記録はどうなるのか。
多くの出版社が倒産や廃業をしている昨今である。紙媒体のものは読まれなくなっている。出版業界の売り上げの多くはマンガだという。教育現場の先生たちも最近ではネットやSNSを通じて教材研究をすることが多く、書籍を手に取る先生は少なくなっていると聞く。仮説社のような出版社には逆風ばかりのように感じられる。
しかし、先にも触れたように、仮説社の代わりになれるような会社はないのだ。仮説社のように、「研究会発」「たのしい授業に一貫している」というような会社はないのだ。
明るくならざるを得ない ~教育界の灯~
仮説社が、およそ半世紀の長きに渡って、教育界に明るい話題を提供し続けたことは特筆すべきことだ。なぜなら、教育界は今も昔も暗い話題に満ちているからだ。
以下に紹介するのは、仮説実験授業の提唱者、板倉聖宜さんが1988年に同研究会の全国大会で行った講演の言葉である。
いま、科学の未来について、世間では暗い話題がたくさん聞かれるけど、この研究会、私たちは底抜けに明るい存在です。
私たちが提供する科学を子どもたちが楽しんでくれる。
子どもたちの笑顔が見える。
自分のやることでまわりの人たちの笑顔が見られるのに、私たちは暗くなんかなれません。私たちは明るくならざるを得ないのです。
1988年には、すでに暗かったのだ。1988年の教育界のトピックといえばどのようなものがあったのだろう。どのようなものがあったにせよ、今の方がもっと暗いのではないだろうか。
「ブラック企業」「教員不足」「教育格差」・・・
そんな教育界にあって、明るい話題を提供し続けてきた仮説社は、まさに教育界の灯である。
教育界の話題は暗さを増しているように思うのに、明るさを提供し続けた仮説社の方は体力が落ちているように感じるのだ。
そして、愛
この記事を書いていて思い出した風景がある。
あれは、ぼくが中学生のときだった。当時住んでいた家が台風の影響で停電してしまったのだ。仏壇のろくそくを出して火をつけた。いつもは思い思いの時間を過ごしていたはずの家族が、そのときはみんな居間に集まった。「まずは落ち着こうか。」ということで、一緒にお茶を飲んで、「すごい風だね。」などと他愛のない会話をした。
あのときの、あの灯。
生涯のなかで、あれほど小さな灯の力強さを感じたことはなかった。個々の時間を過ごすことが当たり前だった家族が、一つのテーブルに集い、小さな灯を前に、少し照れたような顔をしている。まだ小学生だった妹は、明らかにウキウキした雰囲気を醸し出していた。バラバラだった心が久しぶりに一つになったような感覚。小さな灯があることの、あの安堵感。
あたりの闇が深いほど、小さな灯は尊い。
暗い話題に満ちた教育現場で、ぼくは仮説実験授業という教育実践を実施している。
授業書を開くたび、実験道具を準備するたびに、これまで受けもった子どもたちの笑顔を思い浮かべる。その記憶は、束の間、ぼくを幸福感で満たしてくれる。吹けば消えるような小さな明るさだ。きっと日曜日の午後には、また悲しい気持ちになっている。雨の日は気持ちが下がるし、今は花粉症で頭がボーっとしている。
どんなに決意を固くしても、人間はやはり感情の生き物だ。揺るぎない明るさを維持できない。そんなぼくの日々とは対称に、揺るぎない明るさを灯し続けた仮説社。この存在がどんなにありがたいことか。
毎月送られてくる『たのしい授業』で、教師と子どもたちの笑顔の記録に触れることができる。それに何度勇気づけられたことだろうか。
愛だ。
大した取り柄のないぼくでも、子どもたちと一緒に笑顔になれる機会を与えてくれた授業書に、仮説社に、ぼくは心から感謝している。何か恩返しがしたい。きっと先の寄付金も、そのような思いで集まったのに違いない。
今回の記事は「推したい会社」とは、ちょっとズレてしまったのかもしれない。「推し」というと、もっと胸がドキドキしてキラキラした感じを受けるからだ。
「胸」の感覚ではなく、もっと下の方、そう、丹田のあたりで、「推し」ではなく「意思」に近い感覚でこう思う。
「この灯を、絶やしてはならないのだ」と。