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ネギをのせ 紅ショウガをのせ 年の夜|Essay

今年一年、拙文を読んでくださり、どうもありがとうございました。
最後の投稿ターンが大三十日に当たったので、年越しそばの話題で締めくくります。


沖縄では年越しそばとして沖縄そばを食べる。私の聞いた範囲では、少なくとも30代より若い人たちは、子どもの頃から大晦日には母親がつくった沖縄そばを当たり前に食べていたという人が多い。

しかしこの習慣は、本土の年越しそばを真似て戦後に生まれたもので、製麺会社のサン食品が1968年に、煩悩の数と同じ108食を売り出したのが最初である、と書いたことがある。いわばマーケット主導で創り出されたもので、旧暦で正月を祝っていた頃まではあまり浸透していなかった。

もちろん、そうした商業主義に踊らされる前から、年越しには沖縄そばと決め打ちしている人たちもいた。時代に先んじる力、ゼロからイチを生み出す力を持った人たちだと思う。

次の記事に登場する伊波南哲もそのようなタイプだったのだろう。伊波南哲とは沖縄の伝説の詩人である。

ウチナーそば 亡父・伊波南哲を語る 伊波弘祐
ヒハツの香りと幻想 ああソフトな舌触り

「大晦日にはみんなでウチナーそばを食べような」
それを楽しみにしていた父が逝った日、注文してあったそばが届いた。少し黄ばんだ色のウチナーそばの玉は、ポリ袋に入ったまま冷蔵庫の中でいたずらな眠りをむさぼる結果になった。
「そばはウチナーそばに限る。この一本一本の重々しさ。これこそ民族の重みだ」
そばを食べる時は、嬉しそうによく喋った。そして楽しそうに食べた。少年の頃は、そばが第一等のご馳走で、風邪も腹痛も母がとってくれた一杯のそばで、けろりと癒った、などという話をよくしていた。
八年前に十七年ぶりに帰省した折も、どこそこにうまいそばがあると訊くと、いても立ってもいられず、婿の神山長蔵さんにせがんで案内してもらったそうである。
「昔、そばを箸で返すとよく蟻の死骸などが出てきたもんだ。そういうそばは、味がまた天下一品でね」
ヒハツを振りかけると、ウチナーそばは格段にウチナーの味になる。父は、ヒハツだって単なる胡椒でなく、幻想的、誌的な存在だと語った。<後略>

1977.01.16 沖縄タイムス

なお、かつて私はおよそ次のようにも書いている。

もっとも、伝統的な食習慣とまったく違うものとはいえない。ソーキを煮込んだり出汁を豚骨からとる過程は、かつての豚正月と同じだからである。また、正月行事の中でも家族が集まりやすいトゥシヌユルー(大晦日)にそばを食べることで、家庭の味としてのイメージが強められていった。

沖縄そばを大晦日に食べるのは、決して「創られた伝統」ではなく、豚肉文化の命脈を顕在化させたもの、いわばアンチテーゼの名を借りたテーゼの反復だったのだよ、ということが言いたかった。

今日で2024年も終わる。
家庭のそばが食べられない病の私は、どこで年越しの沖縄そばを噛みしめようか。


私の年越しそば候補 守礼そば

さすがに大晦日ともなると、開いてる店がぐっと減りますね。
でも、那覇市高良のここなら大丈夫。沖縄そば屋版のファミレス的な立ち位置で、周辺のファミリー層からの人気が絶大。いろんなそばがあるし、定食もあるしで、小さな子どものそばデビューを見守り続けてきた。
家庭料理の延長のようなやさしい味で、年越しそばとしての安定感も高いと思うよ。

いろいろトッピング✊️(これはメニューの2ページめ)


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