広告代理業がほぼなかった頃のシンプルな沖縄そば広告|Report
明治末期、大正、昭和戦前期の新聞から沖縄そばの広告をいくつか拾ってみた(なかには製麺機や鰹節の販売広告もあるが)。
森屋、不勉強屋、宮平そば屋、大正館などのそば屋が確認できる。そばの名称も「支那そば」から「琉球そば」と移っており、このあと「そば」「沖縄そば」と改称される。
1907.10.20 琉球新報
◎開業廣告◎/一、支那蕎麦/一、支那料理 各種/右、今般熟練なる福州人を雇入調理仕廉價を以て調達仕せり候間績々御来駕御用命之程希上候敬白/字西辻前之毛通/十月廿日/観海樓
1910.09.24 琉球新報
賣出/◎親子そば◎月見そば◎天ぷらそば◎五目そば◎火焼宇どん◎生そば◎支那そば/右ハ斯道ニ熟練ナル職人ヲ雇ヒ又座敷モ大ニ廣メ本日ヨリ大勉強賣出シ申候間賑々敷御光来之程伏テ奉願上候/西石門角 森屋
1912.06.30 琉球新報
◎函館氷御飯賣取次(五月廿日ヨリ)◎支那そば◎冷素麺(五月廿日ヨリ)/右勉強販賣可仕候間多少ニ不拘何卒御用命之程奉希候/那覇西百三十二番地/右田藤助/電話二七三
1912.09.19 琉球新報
最新特許うどんそうめんそば製造機械/於博覧會共進會名誉金銀賞牌各種受領/専売特許切出機/機械ハ堅牢ニシテ運転軽快/製品ノ優秀ナルハ他ニ比類ナシ/甲、乙、丙、丁、戌號、手回動力用 金八拾圓以上各種/御申越次第説明書無代進呈/東京市浅草區東仲町ニ〇地番/麺機専門 元祖眞崎麺機商店
1912.10.12 琉球新報
賣出/◎生そば◎親子そば◎具そば◎月見そば◎天ぷらそば◎支那そば◎茶碗むし◎とりさかな/森屋本店 電話二七二
1913.10.27 琉球新報
まア何と/いい味でせう?/不勉強屋の支那ソバを/食ッてからは/他所のソバはテンデ/口に合ぬとわ/御客様方の第一に/仰言る言葉です/論ヨリ証拠一度/メンソーレ/市場/不勉強屋
1917.03.06 琉球新報
"しなそば屋/那覇區市場前/不勉強屋
石門/森そば屋/電話二七二番"
1918.01.14 琉球新報
手打更科そば/品目/すかめそば/月見そば/五もくそば/別製生そば/琉球そば<その他略>/其他御客位様の御好みに応じ右物精々勉強仕候問何卒御来遊あらん事願上候/大門前通/不勉強屋/電話三六七番
1918.01.18 琉球新報
営業品目/一、茶碗むし<中略>そばいろいろ/入船、出船ノ待合客間アリ/那覇區通堂町元川井田自転車跡/宮平そば屋
1925.03.11 沖縄朝日新聞
オイシイテウチ そば/おとうりの時は一寸御立寄り下さい。/御用の節は電話九番へ/迅速に配達します。/通堂電車大通り/大正館簡易食堂
1932.03.04 琉球新報
急告◉ぐ入り琉球そば/◎東京きそば<中略>内地カラ職人ヲ雇入精々勉強致シマスカラ御試食ノ上御好評被下マセ/那覇石門角/森屋本店/電話二七二番
1932.03.05 琉球新報
▲台所の福音/けつりかつを賣出し<中略>ヤけつりかつをハうどん、そば屋ニ最適當品ナリ<中略>那覇東町魚市場前/製造元ヤ濱田彌十商店/電話三六九番
※筆者注:ヤはへの下にヤの記号
一方、同じ時期、日本そばの広告もチラホラみえる。チンドン屋的な宣伝形態がみられたり軍国主義にモチーフを得たコピーだったり、沖縄そばの広告とは異質である。
1913.01.31 琉球新報
大正庵の手打そば開業 何事も新奇先きかげを以て有名なる高島十八番は大正元年の新運と共に其名も大正庵と改め万代かわらぬ四十七義士の延喜に因める東京は両國の手打そばやを営む事となり昨日其披露として主人始め店子等に義士打入の行装を為さしめ鼓や法螺貝の鳴物で賑々しく市中を練りあるきつつ各戸にくばれる引札の文句に「勿驚金百圓の割引に當る東京手打そばの御披露」云々とは振ったものなり
1913.03.02 琉球新報
勿驚金百圓の割引に當る/大道乱れて仁義起り國家乱れて忠臣顕はれ藩閥はびこりて政友強固なり/経済会のまさに乱れんとするときまづ安くてうまくて敵をたをすに妙を得たる東京手打ちそばを開店し忠君愛國の士に需要を求めんとす/一もり金五銭/一かけ金五銭<中略>しかし時節柄このへんの處て御辛抱くたされて陸續御召上りの程伏而御案内申上候/石門/大正庵/電話十八番
1918.01.07 琉球新報
物価騰貴に反対の大勉強/◎東京生そば/◎牛肉寿き焼/◎鳥料理/◉◉◉◉/電話十八番
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