夢のような虹を近づける男 鎌倉芳太郎|Studies
与那原恵の『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』は、鎌倉芳太郎の人生と業績を中心に、彼が関わった近代沖縄の歴史と文化を描いたノンフィクション作品です。この本では、膨大な資料と記録をもとに詳細なリサーチが行われ、鎌倉がいかにして沖縄の文化と歴史に深く関わったかが詳述されています。
与那原の文章は情感に満ちており、読者は鎌倉の情熱や苦悩を追体験することができます。彼と関わった末吉麦門冬らの人物描写も巧みで、物語性が強く引き込まれます。
私も以前、伊是名島から鎌倉芳太郎をレポートしたことがあります。その要旨をリライトしましょう。
鎌倉芳太郎という人物
鎌倉芳太郎(1898~1983年、香川県出身)は、日本の染織家、画家、民俗学者であり、沖縄の文化・民俗研究に多大な貢献をした人物です。彼の美術工芸への深い傾倒は東京美術学校在学中から始まり、卒業後に沖縄県女子師範学校で教鞭を執ることでさらに深まりました。
彼は大正10年4月から12年3月まで沖縄に赴任し、その後も東京美術学校研究科に再入学し、東京帝国大学の伊東忠太教授に師事しながら沖縄研究を続けました。また、長年にわたり紅型研究を継続し、1973年には重要無形文化財「型絵染」の保持者として人間国宝に認定されました。
伊是名島への小旅行
鎌倉芳太郎の著作『沖縄文化の遺宝』には、伊是名島への小旅行が記録されています。この小旅行は、昭和元年12月30日から翌年の1月3日まで行われ、「諸見の比屋」を中心に島内の史跡や祭祀場などを精力的に調査しました。
鎌倉は昭和2年の正月に、字伊是名の名嘉永助家を訪問し、王府直隷の神女職・阿母加那志(あんがなし)である名嘉カメさんに神衣装を実際に着衣してもらい、その姿をスケッチしました。彼はこのとき愛用のドイツ製カメラのタゴールを持参しておらず、代わりに残したいくつかのスケッチには、「表紫裏薄紫地上衣」「表黄裏赤地胴衣」「赤色地下着」といった詳細な描写があり、玉珈玻羅(曲玉)の位置や袖玉、金の御髪差なども正確に描かれています。
鎌倉は、「昔日の聞得大君もかくやと思いつつこれを写生した」と記し、阿母加那志の姿に聞得大君(王国の最高神女のこと)を重ね、その儀式の場面を幻視しながらスケッチを行いました。彼のスケッチには、各着物の色識別、神衣装を着用する行事、阿母加那志の立ち居動作についてのメモが自筆で書き込まれており、貴重な情報を伝えています。
祭祀空間の調査
鎌倉のこの小旅行の目的は、琉球の祭祀空間、特に王府レベルの神座の構造を読み解くことでした。彼は辺戸御嶽の調査を通じて太陽信仰への問題意識を抱き、伊是名島でその答えを見つけようとしていました。鎌倉の関心は阿母加那志の祭祀的役割にも及び、鋭い観察眼と洞察力で論考を加えています。
評価と遺産
鎌倉芳太郎の情熱は、特に首里城に対して向けられていました。写真をはじめとする詳細な記録を残し、首里城の本質的価値の保存にも尽力しました。彼の活動があったからこそ、戦前に正殿等が国宝に指定されることになったのです。
81冊のフィールドノート、数千枚の写真、紅型の型紙など収集した資料を、鎌倉は戦時中も防空壕で守り抜きました。これが、のちの首里城の復元事業におおいに役立ちました(平成だけでなく令和の復元事業にも)。鎌倉の収集資料2119点は、「琉球芸術調査写真」という名称で国重要文化財に指定されています。
歴代琉球国王の御後絵は、沖縄戦で行方不明となりましたが、鎌倉により写真資料が保存されたことでその様態を知ることができます。先日アメリカから数点が還ってきて、改めて鎌倉の業績に脚光が当たっています。
鎌倉の沖縄に対する情熱と献身は、亡くなったあとも高く評価されています。彼の業績は沖縄の文化研究において欠かせないものであり、今も多くの研究者や文化人に影響を与え続けています。
鎌倉芳太郎、昭和58年8月3日没す。
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