バナロ島(仮称)の一致しない姓・屋号・門中名#2|Field-note
Ⅰ型の事例
〈事例1〉安里門中アガリマシンニグヮの場合
安里門中次男腹の四男aは、母方のエーカをたどってマシンニグヮにあずけられた。彼はマシンニグヮの他の子どもと同じく野殿内(ヌードゥンチ)門中――マシンニグヮは野殿内門中に属する――の成員となり、分家時も養家から屋敷地をもらい受け、養家からの方角を表わす命名の屋号 アガリマシンニグヮを創設した。
しかし、後になって門中は血筋に沿うことが望まれ、当家およびそこから分家した各家は安里門中へと帰属を変更することになった。それにともない「東松根」だった姓も「安里」へと改めた。ウマチー、シーミーなどの門中祭祀の際も新たな門中に参加するようになった。
aの生存中は欠かさず行われていたマシンニグヮへの盆・正月の挨拶まわりは、次第に消滅していった。今では子孫らが離島したせいもあり、マシンニグヮとのつながりは全くない。
〈事例2〉安里門中メーアサト、アガリアサトの場合
両家の旧姓は「古喜屋」(こきや)であった。その経緯は曖昧だが、遠い祖先がクチャ家にてシカネングヮとして養われていたからと説明されたことがある。その人は、安里門中はもともと古喜屋門中だったとも話していた。
当のクチャは移転して屋敷跡をとどめるのみである。この家は安里門中とは別系統だとまわりからは捉えられている。
なお、カマアサトも類似の「東古喜屋」姓であったことを付け加えておく。
〈事例3〉仲真次門中アガリアカッチュの場合
仲真次門中のウンナの三男であったbは、母の生家(叔母の嫁ぎ先という人もいる)のアカッチュにて養育された。成人すると当家の(民俗方位での)東隣の根人地であった土地を譲り受け、アガリアカッチュを分立する。
しかしほどなく、「本家の東側に分家の屋敷があるのはよくない」とするユタの忠告を聞き入れ、集落の前方に移転する。が、ここも台風で家屋が飛ばされたため、プラジルへ移住した同じ門中のメーナカマシグヮの屋敷を借り現在にいたっている。
彼はアカッチュで養育されていたときから仲真次門中であり続けた。姓に関しては、今は「仲吉」に改姓しているが、以前はその子cが安里門中のタマイーから嫁をもらった関係で「多真栄」だったという話者もいれば、いや「東赤人」だった、「恩納」のままだったと言い返す人もいてはっきりしない。「仲吉」というのは「仲真次」に似て語意もいいから改姓したそうである。
育て親が生きている間はbはアカッチュでのお祝い事には参加していたらしい。今ではそれもなくなったが、それでも盆・正月にはアガリアカッチュからアカッチュへの贈答や焼香はみられる。
〈事例4〉仲真次門中ニシバランヤーグヮの場合
仲真次門中のフスガナーの次男dはニシバラ家に貰われ、そこから分家しニシバランヤーグヮを興した。彼は養家においても仲真次門中として扱われていたが、西原門中の門中祭祀に同席することは拒まれなかったという。姓はずっと「仲真次」だった。
〈事例5〉南風原門中メータナバルの場合
南風原門中のヘーバラ家の五男eは、兄弟が多く生家に経済的ゆとりがなかったため、幼いうちに母方のエーカの家タナバルにシカネングヮとしてもらわれることになった。
eは養入後も南風原門中の成員権を失わなかった(とeの子fは説明する)。だが、分家する際に養家の助力を仰いだため、屋号は養家に由来するメータナバルになり、姓も同じく「棚原」になった。
話者の年齢から逆算して1920〜30年頃までは、盆・正月にはタナバルを訪問し、宴会に参加していたというが、以降はそれはない。その契機については不明であった。棚原門中のウマチー、シーミーなどの門中祭祀にfは参加した記憶はない。
<注釈>
Ⅰ型については、他の類型の中にも織り込まれていることが多々あり、かつてはかなり広く行われていた慣行ではないかと思われる。