バナロ島(仮称)の一致しない姓・屋号・門中名#5|Field-note
Ⅴ型の事例
〈事例13〉安里門中力ミアサトグヮの場合
xはメーアサトの4男として出生したが、家計の切迫と叔父yが子どもがいなかったため、同系養子の予定でy宅で養われた。yは国頭から移住したzの一人娘と結婚し、婿養子としてz宅ヒガヤーに養入する。zが門中を持たなかったので、当家はx以後は安里門中に属するようになる。
xとともに〈事例1〉のアガリマシンニグヮ家の3男も同じくもらわれていたが、彼らがまだ幼かったためzとyは他系のカマー(緑間門中)からAを跡取り養子として迎え入れる。Aは養入後も自らの門中帰属を変更しなかったらしい。
だが、ヒガヤーは不幸続きで、A以降は本島に移住してしまった。これは「よそのサニが入ったため」と説明された。
一方、xは結局シカネングヮ扱いということになり、成人後は養家の所有地に分家し、現在の屋敷カミアサトグヮを構える。けれども、彼らは姓は「比嘉屋」を受け継いだ(現在は改姓し「安里」にしている)。移転後のヒガヤーの屋敷はxの子孫が管理している。
〈事例14〉安里門中メージョーの場合
昔、沖縄がまた琉球王朝であった頃、首里からの役人としてBは来島した。Bはメージョー家を設立し、首里に妻子がいるにもかかわらず、島の娘との間に女児Cをもうけた。Bは後継者として安里門中からDを入婿の形で養取した。
メージョーは家屋が広かったため、同時にDの弟Eも住み込むことになった。Dは長く島を離れていたこともあり子どもがなく、Eの孫Fが当家を継承することになった。Eはのちに当家の東隣に屋敷を構えた(ここもメージョーとされる)。Dらは姓、門中帰属を変更することはなかった。
Bの位牌はCの手によりBの嫡男のいる首里へと送られている。
〈事例15〉安里門中クルムトゥの場合
クルムトゥ家のFには男児がなかった。そこで娘に安里門中から婿養子Gを取った。その一方で両親を亡くした甥のHをシカネングヮとして養っていた。
養入当時にGの門中帰属が変更されたかについては不明だが、少なくとも現在は安里門中である。しかし、姓は今も「蔵元」を名乗っている。
Gはその後津堅を離れ、屋敷跡は管理する者もなく荒れ果てている。Fの位牌は結局Hの子孫が祀っている。
〈事例16〉仲真次門中アガリカッチングヮの場合
アガリカッチングヮはカッチングヮからの娘分家である。カッチングヮでは男児がなく、他系の田場小門中からJを養取して家を相続させた。だが、姓、門中成員権までも継承させるわけにはいかなかった。
Jの娘Kは津堅に芝居の興行に来ていた旅芸人L――首里の名門カミヤマルンチの出身といわれる――と結ばれ、屋敷地をもらって分家した(アガリカッチングヮ)。彼らにも男児は生まれず、久志小門中から婿養子Mを迎えた。
ところが、この夫婦にできたのも娘2人のみで、再び他系から婿を招かねはならなかった。そこで姻戚を辿って仲真次家の次男Nを選定した。幸いN夫婦には嫡男Oが生まれ、四度目の入婿の必要はなくなった。
N以後はアガリカッチングヮも仲真次門中の仲間入りをしたが、それ以前はどの門中だったかについては確かでない。ただM夫婦の位牌は後日Mを輩出したクシグヮー家に戻している。
カッチングヮの姓が「嘉保」であった関係上、アガリカッチングヮも「前嘉保」を名乗ったが、戦後いったんは「仲真次」に改姓した。しかしこれでは戦死したNの遺族給付金がおりないということで、再び「前嘉保」に戻している。
またLの位牌について、現当主は本来首里の子孫の家にあるべきだと考えて過去に折衝したこともあるが、ものわかれに終わっている。